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平成23年6月22日 東日本大震災に関する復旧・復興支援調査特別委員会 会議録 

 

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東日本大震災に関する復旧・復興支援調査特別委員会

会 議 録

(開 会 中)

 

開催年月日     平成23年6月22日(水) 自 午前10時1分 ~ 至 午後3時33分

会 議 室        601特別委員会室

出席委員         13名

                            委  員  長      藤田 宜三

                            副委員長   村林   聡

                            委       員   粟野 仁博

                            委       員   東         豊

                            委       員   中西   勇

                            委       員   濱井 初男

                            委       員   杉本 熊野

                            委       員   中村 欣一郎

                            委       員   小野 欽市

                            委       員   北川 裕之

                            委       員   中森 博文

                            委       員   日沖 正信

                            委       員   三谷 哲央

欠席委員         なし

出席説明員   

             [防災危機管理部]

                            東日本大震災支援プロジェクト推進監                                 山内 悦夫

                            地震対策室主査                                                  河村 孝祐

             [健康福祉部]

                            こころの健康センター所長                                            井上 雄一朗

                            人権・危機管理特命監                                                           中西 文則

                            健康づくり室長                                                                     服部 秀二

                                                                                                    その他関係職員

             [教育委員会]

                            生徒指導・健康教育室長                                            和田 欣子

参 考 人        8名

                            四日市市消防本部 総務課長                                               森      公良

                            津市水道局 水道総務課調整・経営管理担当主幹                 田中 啓介

                            津市水道局 水道総務課主査                                                西出 和司

                            四日市市上下水道局 管理部総務課付主幹兼管財契約係長 秦      英博

                            桑名市上下水道部 業務管理課給排水係技師                      伊藤 祐逸

                            臨床心理士                                                                        山田      忍

                            みえ災害ボランティア支援センター センター長                     山本 康史

                            三重県病院協会 理事長                                                       濵田 正行

委員会書記         議事課副課長            山本 秀典

                            企画法務課主幹        小野 明子

傍聴議員         1名

                            長田 隆尚

県政記者クラブ  3名

傍 聴 者          1名

協議事項

 1 参考人の出席要求について

 2 被災地の状況、支援活動等について

  (1)参考人からの意見聴取

  (2)執行部の聴取調査

 

【会議の経過とその結果】

 

〔開会の宣言〕

 

 1 参考人の出席要求について

〇藤田委員長 まず、本日の委員会における参考人の出席要求について、ご協議願います。
 現地での初動対応から現在までの支援状況について聴き取り、様々な観点から現場の状況やニーズを把握する必要があることから、消防、水道、教育、ボランティア及び医療の各分野から、参考人を招致したいと存じます。前回いただいたご意見をもとに、正副委員長で協議した結果、お手元に配付の参考人出席要求候補者名簿のとおり、四日市市消防本部総務課長、森公良様、津市水道局水道総務課調整・経営管理担当主幹、田中啓介様、水道総務課主査、西出和司様、四日市市上下水道局管理部総務課付主幹兼管財契約係長、秦英博様、桑名市上下水道部業務管理課給排水係技師、伊藤祐逸様、スクールカウンセラーで臨床心理士の山田忍様、みえ災害ボランティア支援センター、センター長山本康史様、三重県病院協会理事長、濵田正行様、以上、8名の方に本日お越しいただくことで、それぞれ相手方と調整いたしました。
 お諮りいたします。これらの方々に参考人として出席を求めたいと存じますが、ご異議ありませんか。

          〔「異議なし」の声あり〕

 ご異議なしと認め、そのように決定いたしました。
 なお、参考人からの意見聴取の終了後、心のケアチームとして派遣された職員の活動及び宮城県災害対策本部に現地支援調整要員として派遣された職員の活動について、聴き取りを行うため、健康福祉部及び防災危機管理部の職員に出席を求めておりますので、ご了承願います。

 2 被災地の状況、支援活動等について

  (1)参考人からの意見聴取

    ① 参考人の意見陳述(消防分野)

〇森参考人 四日市市消防本部総務課長の森でございます。
 先般の東日本大震災に緊急消防援助隊、それの三重県隊長として、発災した3月11日から3月21日まで延べ11日間、第4次の派遣隊まで、三重県隊といたしましては100隊、344名の派遣を行いました。私は、その際の第1次派遣隊の隊長として現地に赴きましたので、簡単に活動の概要について説明させていただきます。
 地震の発生は3月11日の昼過ぎ、皆様方もやたらと長い横揺れだなと感じたのではなかったでしょうか。私どももすぐにテレビをつけて、そして情報収集を始めました。四日市市における震度は3、それ程大きなものではございませんでしたけども、テロップなどによりまして震源地が三陸沖であるということを知った途端、私はとんでもないことが起こっていると直感いたしました。
 間もなく東京都のビルの屋上での火災の発生とか、千葉県市原市でのコンビナート火災の映像、それから、もうしばらくすると三陸沖での津波に飲み込まれたまちなどの衝撃的な映像が次々と飛び込んでまいりました。緊急消防援助隊の出動が時間の問題ということは誰の目にも明らかでございましたので、当四日市市消防本部におきましてもすぐに出動の準備を行いました。総務省消防庁の方から市原市への出動指示があった頃、11日の夕方でございますけども、その頃には三重県隊としての出動準備は既に整っておりました。
 今申し上げました緊急消防援助隊につきましては、全国の消防応援の制度でございまして、被災地の消防力のみでは対応が困難な大規模で、そして特殊な災害に対して、基本的には発災地の市町の長、それから知事を通じて総務省消防庁の長官に要請を行うと、そういったことになっております。この制度は、阪神・淡路大震災以降、全国の消防機関による応援体制を迅速に、そして円滑に行うために、平成15年に消防組織法の中で位置づけられたものでございます。
 現在、三重県隊といたしましては、指揮支援部隊、消防部隊、救急部隊など72隊、270名の消防職員、隊員を登録しております。それから、緊急消防援助隊出動に係ります三重県の役割といたしましては、県内の消防事務を総轄しております防災危機管理部におきまして、被災した都道府県との調整とか、三重県隊が活動をする上で必要な情報の収集、情報の提供、必要資機材の調達など、後方支援的な役割を今回の大震災においても担っていただいております。
 以下、被災地とか三重県隊としての活動状況につきまして、スライドを順にごらんいただきながら説明をさせていただきます。
 この映像は、仙台市の宮城野区での集結場所での状況です。ちょうど、「桑」と書いてありますけど、桑名市の消防隊です。右にあるのは神奈川県隊、寒川町というところです。このように全国各地から消防車が数台、統計を調べてみましたら、全国から7500台以上、消防職員は10万人ぐらい現地に派遣されたということを聞いております。
 これはよくご存じの震源地のところでございますけども、震源地は三陸沖の深さ約24キロで、北緯38度東経142度でございます。地震の規模はマグニチュード9ということで、観測史上最大のものということになっております。6月の中旬でございますけども、死者、行方不明者の数が約2万7000人ということを聞いております。
 これが三重県隊を派遣したコースを図示させていただいたものなんです。3月11日の夕刻に湾岸長島パーキングで集結いたしまして、そして東名高速道路を市原市の方へ向かったわけですけども、静岡のところで東名高速道路が通行どめになっておりまして、一たん市道に出たんですけども、その一般道も渋滞で動けなかったと。いろいろ情報を収集しながら第二東名の工事現場、まだアスファルトが敷いてないでこぼこの道ですけども、そこを通って神奈川県に入って、そして途中から東京アクアラインを通って市原市に入ったということでございます。
 三重県を出発したのが夜の、四日市隊としてはちょっと早く出ましたので、7時頃に出ましたけども、市原市に着いたのは翌日、12日の朝9時頃でございました。約14時間かかっております。市原市での活動を終えてから、13日の朝、仙台市に向かったわけなんですけども、このときには東北自動車道が緊急車両のみ通行させていただけるということで、まだでこぼこはございましたけども、約12時間かかって仙台市入りいたしました。
 これが三重県隊が活動した場所でございます。赤のところの場所が、私が第1次派遣隊として下命を受けて活動した場所でございます。若林区と宮城野区、いずれも沿岸部に近いところでございます。
 これが市原市のコンビナートでの、テレビの映像で映っていたところでございますけども、先程の東京アクアラインを渡っている途中から黒煙が見えておりました。でも、市原市入りしたときには、初日の11日に紅蓮の炎を上げているような映像はもう少しおさまっておりまして、黒煙のみの状態でした。市原市のコスモ石油の千葉精油所でございます。
 この爆発の原因というのは、LPGのガスタンクでございましたけども、中にLPGが入っていなくて、ちょうど水張り検査をしている途中でございました。それが地震による振動で、水は重いもんですから、中の支柱が折れまして、そして座屈して、その座屈した関係で何かの原因で着火して、あのような大火災になったというような状況でございます。
 これが三重県隊が市原市に到着したときの状況報告の映像でございます。
 これがコスモ石油の市原市内での火災の状況なんです。消防車が入れるようになったのは12日の午前中からでございまして、11日の夕方頃には消防車はコンビナートの中に入ることができずに、テレビでごらんいただいたとおり、船から援護的な注水を行うことしかできませんでした。余りの炎で誰も近づくことができなかったというようなものでございます。
 これが四日市市消防本部のコンビナート対応の車両、スクワート車というものでございます。この活動は夜の7時から12時ぐらいまでやっていたんですけども、活動に入る直前にコンビナートの関係者、あるいは県の関係者の方から、数時間前までプラントのいろんな破片が飛び歩いていて非常に危険だったと。だから消防車両を盾にして放水しながら、私たちは消防車両の後ろに控えながらの、何が起こるかわからないというふうな状況での活動でございました。
 これは救助活動です。実際に宮城野区、若林区での救助活動というのは3日目から入ったのでございまして、3日目というと人の生死を分けるゴールデンタイムを既に過ぎておりました。三重県隊といたしましては、第4次派遣隊までで合計17名の救助者を収容いたしましたけども、残念なことにいずれも亡くなられておりました。
 これは若林区での救助活動の状況です。かなりこれでも水が引いたんですけども、現地の消防隊の方に聞きますと、最初のうちは津波による水がたくさん残っていて、至るところにご遺体がぷかぷかと浮いていたと、そういうふうな状況でございます。これも、土砂が山積しておりまして中に入れないというふうな状況です。
 これは普通の乗用車なんですけども、私が、到着したときの非常に衝撃的な映像の一つに、大きな川が近くにございまして、10トントラックが真ん中にぷかぷか浮いているんです。それ程の津波の威力のすさまじさというのを目の当たりにしました。
 これは三重県隊の活動の状況です。大きな重機なんかを持って入ることはできなかったので、小さな資機材を使いながら、それこそ手で掘り起こして救助活動を行っているという状況でございます。非常に水が多いところもございました。
 これも若林区での映像です。3月の中旬、まだ非常に寒い時期でございまして、白いものは雪でございます。ホテルなんかはございませんでしたので、後で少し出てきますけども、我々はベースキャンプを張りまして、寒さとの闘いでもありました。
 これは名張市の消防隊の絵なんですけども、この映像は非常に印象が強いスライドでございます。3月17日の昼頃に自衛隊の誤報によりまして、大船渡市の海上で5メートルの津波が起こっているというような情報が流れまして、活動中の消防隊はすぐに避難せよということでした。三重県隊は2班に別れておりましたけども、この名張市消防隊に入っている隊員も近くにある高い建物の上に避難せよということで、ごらんのとおり木造の家屋なんですけども、もしその誤報が本物だったら、この隊員はひょっとすると命を落としていたのではないかと。我々も車ですぐに逃げましたけども、道路が渋滞ですぐに車が動けなくなってしまいまして、近くのマンションの6階に逃げ込みました。状況を見ていて、1時間後にまた救助活動を開始したということでございます。
 冷静に考えると、地震はその直前に起こっていませんでしたので津波など起こるはずはなかったんですけども、余りの惨状を目の当たりにしてきましたので、ひょっとして津波が起こったときに我々も命をなくしてしまうんじゃないかと、帰れないんじゃないかというような思いをした記憶がございます。
 これがベースキャンプ地から救助活動をする場所へ向かう途中の風景でございます。徐々に風景が、沿岸部に近づく程変わってまいります。
 こういった場所で活動をしておりました。瓦れきを一つ一つ取り除く中での活動でございます。なかなか活動は進みませんでしたけども、神奈川県隊とか、それから東京都でしたか、そういった隊と場所を区割りしながら救出活動を行っております。至るところに車が無残に浮いているというような状況でございます。
 車中からの映像がございましたけども、私たちがベースキャンプを張っていたのは比較的山の手の方でございまして、道を進んでいくごとに、あれ、少し道が汚れてきたな、車がいろんなところでひっくり返っている、うちがなくなっている、それを過ぎると家の形もない、残っているものがないような状況でした。
 これは第2次派遣隊の活動している状況なんです。コンビナートのプラントが漂流物によってやられまして、一部に、このあたりだと思いますけども、配管が破れてガソリンが噴いていると、そういった状況でした。ガソリンですので応急対策をすぐにやらないととんでもないことが起こるということで、第2次派遣隊はこのJAのタンクの周りに泡原液を張るという活動で、海から水を引きまして、500メートルぐらいホースを伸ばしまして、そして防油堤と言われるところに泡原液を放出したということです。これは仙台市消防と一緒に活動を行っていたわけなんですけども、手前みそで申し訳ありませんけども、三重県隊の活動は非常にスムーズにいって、総務省消防庁の方からも非常に高い評価をいただきました。この白いのが泡原液でございます。
 これは現地での作戦、「紀勢」と書いてありますけども、松阪市の奥の消防隊の隊員も一緒に入っております。
 これが先程お話ししました海からポンプ車によって水を引いて、500メートル程ホースを延長して防油堤に泡原液を放出したと、そういうような状況です。白いのが泡原液でございます。
 バースなんかも非常に沿岸部地域、いろいろ被害を受けております。
 これは後ろにオレンジ色のテントが見えますけども、我々はこういったところでベースキャンプを張りました。本当に雪が多くて、最初は市原市に行くという想定で装備なんかを手配したわけなんですけども、途中から、12日の夕方に、総務省の方から夜中に今度は東北地方へ行ってくれという指示を受けましたので、本当に寒さ対策、防寒対策をしていない中での東北入りでした。非常に不安の残る中での活動でございました。
 2次隊が行った以降は、道路は比較的通れるような状況にはなっておりました。
 これが最後、第4次派遣隊のところで、全隊が帰隊いたしまして、3月21日の朝方4時頃に湾岸長島のパーキングエリアでの三重県隊の解隊式です。あいさつをしているのが私どもの三重県消防長会の会長、四日市市消防本部の消防長のあいさつでございます。
 以上が活動のスライド、概要でございますけども、最後に、私が一番印象に残った出来事をお話し申し上げて報告を終わりたいと思います。
 私たちが仙台市の宮城野区での被災地で救助活動を行っていたときの話なんです。現地では数組の家族や関係者の方が、被害に遭われた身内や遺留品、何か残ってないかということで、いろんな方が出入りしておりました。その中で、自宅があったと思われる場所の瓦れきを取り除いたり中をのぞき込んだりしていたんですけども、我々は活動中にある被災者の方から水を求められました。隊員の水分補給用に持参していたペットボトルではあったんですけども、私はためらうことなく2本の水をお渡しいたしました。すると、反対にその被災者の方から魚肉ソーセージの束を渡されました。現地で今一番困っているのは食料と、水なんだと。これから先にこの場所を訪れるであろう関係者、それから身内の方がたくさんいると思いますと。ですから、ぜひその方たちにもこのソーセージを分けてあげてくださいと言われまして、自分たちも非常につらい立場であるにもかかわらず、ほかの被災者への心遣いに胸がいっぱいになってしまいまして、わかりましたという言葉を言うのが精いっぱいでございました。
 今回の震災によりまして、私たちは自然災害の恐ろしさというのを再認識する形になってしまいました。防災にかかわる組織の人間といたしまして、改めて災害による被害軽減、そして特に避難のあり方について、これからしっかりと検証していかなければならないと思っております。そして、たとえ一かけらの支援でもいいと、被災地で困っている人たちのために自分たちができることは何かを考えて支援していきたいと思っております。
 以上で報告を終わらせていただきます。

    ② 参考人への質疑

〇藤田委員長 ただいまのご意見を受けまして、委員の皆様方からご質問、ご質疑ございましたら受けさせていただきたいと思います。

〇小野委員 大変な活動をしていただいてご苦労さまでございます。
 その派遣の命令が出たときには、もうこれはある程度長期になるということはおわかりの上で行かれたと思いますので、ベースキャンプのテントなんかも乗せて準備をして行かれたと思うんです。先程の仙台市のコンビナートで、泡原液での防油堤をつくるというような作業は、その原液自体、持っていらしてないと思うんですが、そこらへんの補給の体制というのは、現場はできているんですか。

〇森参考人 仙台市、それから市原市にいたしましても、四日市市はコンビナートを抱かえておりますので、いわゆる3点セット、高所放水車というのと泡原液車、化学消防車というセットがありまして、その派遣を指示されましたので、現地に持っていっておりました。ですから、泡原液は活動の分には足りました。
 以上でございます。

〇小野委員 ということは、総務省消防庁から指示があって市原市のコンビナート火災に派遣をした。その後、仙台市へ行く。仙台市では人命救助をやりながら、今度は仙台市のコンビナートでの防油堤をつくると。一つの要素をしっかり管理をしたところでの命令系統がしっかりしてないと対応ができないと、逆に言うと。そういうことですね。

〇森参考人 もう少し詳細に説明させていただきますと、市原市でのコンビナートで燃えていたのはLPG、ガスでございました。直接消火をすると変なところでガスが広がってしまいまして何かの原因で2次災害を起こすということで、炎に直接注水せずに周りのプラントを冷やしてそれ以上の爆発を防ぐという活動でした。だから市原市での活動は泡を打っておりません。コンビナート関係車両を持っている消防本部というのは全国でもそんなに多くございませんので、せっかく市原市まで三重県隊が行っているので、仙台市の方でも、東北の方でもいろんな被害が起こっているということで、そこからの命令で動きました。
 仙台市での活動というのも、最初はそのコンビナートに入る道路が崩れておりまして、入ることができたのは、2次派遣隊ですから、5日目以降になります。中で何が起こっているのかというのは全くわからない状況でした。
 茨城県、福島県、宮城県、岩手県とだんだん震源地へ近づくごとに、コンビナートでのプラントが一部漏えいしているとか、そういった事故はありましたけども、タンク自体が横転とか、そういったものはございませんでした。

〇中村委員 新聞で見た記事ですけども、四日市市消防本部から行かれた方が、短いホースしか持っていかなくて役に立たなかったとか、あれだけ訓練を積んできたのに全く役に立たなかったというような、それ程すごい現場だったという感想を漏らされているのを拝見したんですけども、それについてはどのようにお考えですか。

〇森参考人 毎日新聞の記事だと思いますが、そのインタビューを受けたのも実は私でございます。そんなニュアンスでお話ししたつもりではなかったんですけども、結果的に記事としてはあんな形になっておりました。確かに500メートルホースを伸ばすというのは大変でしたけども、年に2回程三重県内での訓練をやっておりまして、新聞記事に書いてあるような内容では実際はございませんでしたので、ご安心いただきたいと思います。

〇日沖委員 いろいろとご貢献ありがとうございます。
 もう新聞やテレビなんかでもいろいろ現場の諸課題なんかを、私たちも一部は知ったりできるんですけれども、実際に現地へ行っていただいた実感として3点程感想をお聞きしたいんです。ある程度の期間、現地で活動していただいとる中で、いろいろ報道でも言われとる食料と、そして活動を継続していただく上での燃料、それと実際に現地へ行っていただいた方が、人命救助なんかの現場では言葉にあらわせないような、直視できないような、ひょっとしたら三重県隊の方でも場面に遭遇した方もあろうかと思いますが、帰ってこられてからのメンタル面です。そのあたりで何か参考に聞かせていただける課題があったら教えてください。

〇森参考人 食料につきましては、私たち活動する隊にとっての食料ということでよろしいでしょうか。

〇日沖委員 はい。

〇森参考人 それは自己完結型というのが緊急消防援助隊の原則でございましたので、非常食といいますか、アルファ米とか、それからカップラーメンとか、いろんなものを調達して参りました。水ももちろん持参して参りました。向こうでコンビニなどがあいているときにはパンなども補充しましたけども、基本的には自己完結で、すべて現地から、三重県から持っていったということでございます。
 そして二つ目、燃料です。確かに第1次派遣隊の我々が東北地方に近づくにつれて給油できる場所というのは限られてまいりました。三重県とか四日市市の方でいろんな情報をとっている後方支援本部がございまして、そこからどこどこのガソリンスタンド、サービスエリアのガソリンスタンドで給油しなさいというような情報をもらいながらの活動で、1次派遣隊としては燃料に窮するということはございませんでした。
 ただ、日を追うごとに燃料が足らなくなっているというのはニュースでも流れておりましたので、第2次派遣隊以降は、三重県に手配いただきまして、タンクローリー的なものを持参していったということでございます。
 それから、3点目の人命検索の活動中でのメンタルヘルス対策でございます。私自身もなかなか帰ってからも寝られない日はございましたけども、1週間後、それから一月後にメンタルヘルスのチェック項目なんかで簡単な調査をしていただきまして、県内の全隊は、ちょっと把握しておりませんけども、四日市隊としてはPTSDみたいな症状を訴えている者は幸いにはございません。

〇東委員 今の日沖委員の質問とも重複するんですが、本当に最先端で人命救助をされて、例の久居駐屯地の自衛隊員でさえ、遺体を回収する作業中にかなりストレスがたまってというお話を聞いていて、その17遺体回収されたときのご遺体の形状とかは、もうまちまちでしたでしょう。
 それと、途中で、例えば夜には休まれるわけですが、そのとき現場で何か情報交換というのか、お互いに心を強めるような、そういったミーティングみたいなものがあったかどうかお聞かせいただきたい。

〇森参考人 17名のご遺体につきましては、それこそ変な表現かもしれませんけども、幸いなことに傷んだご遺体はございませんでした。比較的きれいなご遺体でございましたので、そういった面でのショック的なものはございませんでした。
 それから、隊員間の夜のミーティングなんかは、市原市で活動して、翌日の朝に東北入りしろというような命令でございましたので、限られた時間の中で仮眠もとっていたわけなんですけども、作戦を立てるということが非常に隊行動には重要なことです。深夜にもかかわらずミーティングというのは何回もさせていただきました。非常に県内の各消防本部の方も、頼りない隊長で、私でございましたけども、協力していただきました。

〇中森委員 ご苦労さまでございます。
 消防法の改正で緊急消防援助隊というのが組織化されたとお伺いさせていただいて、これはもう全国にそういうぐあいに組織化されているんだろうと思うんです。三重県におかれてもそうやっていち早くきちっと組織化されて、三重県全体の命令系統もきちっとされているだろうと思うんですが、今、三重県が進めております広域化、消防の合併というんですか、これが一方で進められております。それとのかかわりで、それを推進すべきものなのか、何か課題が別にあるのかというふうに気にするんですが、この経験を契機に、合併に向けてのご意見がありましたらお聞きしたいんです。

〇森参考人 非常に答えにくいご質問でございます。広域化は小さな消防本部を一まとめにして、できるだけ30万人単位の消防に持っていきたいと、スケールメリットを生かすというような主義で進めておりますけども、体制とか文化の違いというのもありまして、なかなか、今、県内でもまだ進んでいないというのが現状ではないかと思います。ただ、これは市町の考え方次第によりますので、私からどうすべきだというのは非常に答えにくいところなんですけども、仮に小さな市町の中で大きな災害が起こったといたしましても、県内なら県内の総合応援隊というのがございますし、全国からの支援体制というのは一応確立しております。

〇濱井委員 大きく2点程お伺いしたいと思うんです。日沖委員からお尋ねがあったことに対してのご答弁の中で、いわゆる自己完結型で、消防隊員の食料と、それから泡消火のための原液等についても自前でやったということでございます。消防組織法上は、被災地が、いろんな費用が出た場合、それを負うというふうになっていたと思うんです、基本的には。今回はそれには当たらないんでしょうか。この費用の対象というのはどういったものを想定しておったのかということをお伺いしたいと思います。

〇森参考人 まず、食料につきましては、これだけの被災の状況ですと、現地で調達するというのはまずもって不可能でございました。これまでにも緊急消防援助隊の派遣事案というのはたくさんございましたけども、いずれにしてもどこで起こるかわかりませんので、あらかじめ県内で備蓄しているような資機材、あるいは食料も含めまして、それを持参するという大原則になっておりますので、今回もそれを使わせていただきました。今の食料、アルファ米というのは簡単で非常においしくできておりますので、それほど困ったものはございませんでした。
 それから、現地での泡原液につきましては、四日市市消防本部の泡原液を使用して、4000リットル程使用したんです。後程総務省の方から費用負担がございますので、今、手続をして返却していただくというようなことになっております。

〇濱井委員 もう一点です。日頃から緊急時に備えて当然ながら訓練は必要だと思うんです。その訓練ですけども、地域ブロックと全国でやっておられると思うんですけども、それはどのぐらいの間隔でやっておられるんでしょうか。お伺いしたいと思うんです。

〇森参考人 緊急消防援助隊の訓練、県内の消防機関の相互の連携訓練というのは、近畿のたしか9県ぐらい、大阪府、神戸市、京都府、奈良県とか、徳島県も近畿に入っているんですけども、そこのブロックでの訓練、それから中部ブロックでの訓練というのに三重県も参加しておりました。昨年はさらに全国訓練というのも知多の方でございまして、去年は3回程非常に大きな緊急消防援助隊の訓練に参加させていただきました。
 今まではシナリオに従っての訓練の内容だったんですけども、最近はブラインド方式ということで、訓練に参加する我々も想定を全く知らされずに、現地に行って想定をぽんと与えられてやるというような非常に実践的な訓練に今変わってきております。私も実は三重県隊長としては余り経験はない方だったんですけども、去年3回のその訓練をさせていただいた後での今回の本番でしたので、ある程度その訓練の成果が生かされたんではないかと思っております。

〇濱井委員 その訓練が大事だと思うんです。この三重県内ですと四日市市のコンビナートがございます。そういったところの問題が今後指摘されると思うんです。あるいは津波の場合の訓練とかございますけども、今後の課題といたしまして、そういったことも想定しながら、大規模火災等も想定しながら訓練をやっていかれる予定があるのかどうかお伺いしたいと思うんです。

〇森参考人 コンビナートを抱えている基地といたしましては、尾鷲市と四日市市、三重県内にございますけども、これまでに想定されていた被害想定というのが、これから恐らく見直しが行われるんだろうと思います。ただ、尾鷲市にいたしましても、四日市市にいたしましても、現行法令にはきちんと適応しているような対策は講じられております。さらに見直しが行われた後には、それに適応するように対策を講じていかなければならないと思います。
 もともとコンビナートの施設というのは、地震の揺れに対しては普通の一般建築物よりは強度が強く設定されるということになっておりますので、見直しがあれば、さらにその上の対策を講じていかなければならないというように認識しております。

〇粟野委員 本当にご苦労さまでございました。
 1点だけ教えてください。今回、そもそも市原市にという形で派遣のご依頼があって、その後東北にという形で、フレキシブルに、かつアクティブに動いていただいたと、これは非常に尊敬に値するといいますか、敬意を表するところなんです。現場における指示系統、いわゆる上からどういう指示が飛んできたのかという、その指示系統を1点お教えいただきたいのと、もう一点が、その指示系統の中で、指示が上から飛んでくると思うんですけども、何か問題点等はなかったかというのを教えてください。

〇森参考人 市原市での活動は、12日の17時から24時ぐらいまでコンビナートのLPGのガスタンク火災の対応をしておりました。主に四日市隊が現地入りしていたわけなんですけども、その活動中に総務省消防庁の方から県隊長である私の方に直接、東北に出られないかというような打診がありました。東北地方に転戦するには、三重県隊として全隊を、三十何隊を率いて行かなくてはいけないということ、そして、先程も少しお話しいたしましたけども、当初は市原市での活動という想定での防寒対策とか、いろんな装備しか持っておりませんでしたので、私も一瞬迷いました。なかなか私の一存では決断することが実はできませんでしたので、県の方も通じて、各消防長のご意見も聞きながら決断したというところでございます。
 ただ、三重県よりも西の方、岡山県とか、それから、極端に言いますと九州の方からも、既にもう東北地方に向かって動きが始まっておりましたので、三重県隊としては引くに引けないというような状況でございました。ここで引いたら三重県の名が廃るというようなものでございまして、現地入りしたのは強行的にやりましたけども、正解であったと思います。後程、防寒対策とか、いろんな資機材の補てんもございましたので、後からの活動で支障になったことはございません。

〇粟野委員 そうすると、現場でもいろんな県から本当にもう烏合の衆のように集まっていただいて、そこで活動されたと思うんですけども、その際も、今日はこういう作業をするという中で混乱というのは特になかったんでしょうか。

〇森参考人 その被災された県ごとに、主に政令都市、札幌市であるとか東京都であるとか、そういったところの消防本部が、例えば福島県だったら東京消防庁が全体の統括をするというような約束事がもう既にでき上がっております。県と、それからその代表の政令都市の本部と調整しながら後で派遣された各県隊に指示が出るということで、それはもう訓練なんかで徹底されておりましたので、混乱は生じておりません。

〇中西委員 ご苦労さまです。
 1点、簡単なことを聞きたいんです。三重県の中で延べ人数云々というのは聞かせていただいたんですが、各市町で当然出ていかれる人を決めてみえると思うんです。どういうスケジュールでいくのか連絡系統がすっといくと当然思うんですが、地区で何人とか、そういったことをもし決めてみえるんなら、人数があるんなら教えていただきたいんです。

〇森参考人 今、県内では15消防本部ございまして、72隊、270名が登録しております。基本的に緊急消防援助隊に登録しているということは、地元の現時点での消防力に影響が出ないという想定でございますので、どこの消防本部でも満足に消防車とか人員を確保できているとは正直言い切れません。無理を承知で全国で困っている被災地があるから出ていくんだと、だからその出ていった分は後詰めで補充をしているというような状況でございました。
 大きな消防本部、四日市市とか津市とかの本部は、それだけ派遣するような消防車両、人員も多くなろうかと思います。現地で補充体制が難しいということで返す場合ももちろん出てきます。
 以上でございます。

〇中西委員 たまたま私の知り合いが行ったんだということを聞かせていただいたので、ただその内容を教えてほしいということは一切何も聞いてないんですけども、大変やったということだけなんです。各消防署の方で、抽せん的なことで選ばれた人だったんですけど、そういう選び方をしてみえたんでしょうか。ちょっとわからないんですけど。

〇森参考人 各消防本部での人選というのは、私どもはちょっと把握しておりません。四日市市消防本部の場合はとにかく早目に出動しろということで、三重県隊がまとまって来るよりも先遣隊として私は早く出ましたので、当日勤務している者をもう出しました。先に出しといてから後詰めをとると、そんな形で行いました。各本部の人選の仕方については、申し訳ありません、お答えできません。

〇中西委員 そうすると、途中で交代されたとか、そういうこともしているということなんですか。

〇森参考人 第1次派遣隊と第2次派遣隊、3次、4次までございました。三重県から東北まで高速道路が途中から開通しましたので、十六、七時間ぐらいで行くことができましたけども、大体おおむね現地での活動を4日か5日にして、その1日半ぐらい前に三重県を出発して、向こうで現地交代して引き揚げてくると、そういった繰り返しでした。

〇藤田委員長 よろしいですか。ほかになければ、これで消防分野の参考人からの聴き取り調査を終了いたします。参考人には、長時間にわたりありがとうございました。

    ③ 参考人の意見陳述(水道分野)

〇田中参考人 よろしくお願いします。
 早速ですが、今回、三重県内における東日本大震災に伴います水道関係の災害支援の概要としまして、平成23年の3月17日になりますが、日本水道協会中部地方支部の災害時派遣協定に基づきまして、宮城県の松島町へ給水活動の支援要請がありました。四日市市、桑名市、後にいなべ市、東員町、木曽岬町、県の企業庁及び津市が職員の派遣を行いました。
 松島町でございますが、津市から約820キロ離れた町で、日本三景の一つの松島を有しまして、世帯数約5200世帯、人口約1万6000人、面積54平方キロメートルであります。松島が町を守ってくれたという報道にもありましたように、海沿いの町でありながら周辺の市町と比較しますと人的被害は少なく、この東日本大震災で亡くなられた方は、平成23年3月18日、派遣いたしたときの状況でございますが、1名ということでございました。ごらんのように、沿岸には多くの島がございまして、津波の緩衝となりまして被害を抑えてくれたものではないかと考えられております。
 参考までに、松島の隣の東松島市でございますが、その時点で死亡者数約700名を超えるというようなお話がございました。
 先程説明しましたように、全国ほとんどの水道事業体につきましては、社団法人日本水道協会というところに加入しておりまして、その会員となっております。また、それぞれ全国が七つの地方支部に別れておりまして、我々三重県内の水道事業体が加入しておるのが日本水道協会三重県支部というところになりますが、これは中部地方支部の中にございます。なお、三重県支部でございますが、県内の29市町すべて及び三重県の企業庁が加入をいたしております。
 先程、災害協定に基づくとお話をさせていただきましたが、災害時におきましては、この日本水道協会中部地方支部災害時相互応援に関する協定を中部地方支部の9県によりまして締結をいたしております。当該協定に基づいて派遣を行うというような形になりますが、この災害協定は中部地方支部内の災害協定を基本としております。それぞれ支部内で災害時の相互応援に関する協定を結びまして、さらに各地方支部間で先程のほかの地方支部、今回ですと東北地方支部というところになるんですが、そちらから応援要請等がございました。こういう応援要請があった場合には全面的に協力することとなっておることから、今回、東北地方支部からの要請が中部地方支部にございまして、私どもとしまして応援活動を行ったというようなことになります。これがその中の該当状況になります。これによりまして、今回、水道事業体については、東北地方へ災害の派遣をさせていただいたという状況になります。
 今回、私たちは、宮城県の松島町というところに派遣になりましたが、その前に一度福島県の方から派遣要請を受け、出発をしております。あの爆発事故の結果、途中まで向かっておりましたが、一度引き返しておりまして、再度体制を整えて宮城県の方への派遣要請があり、そちらへ派遣という形をたどっております。
 実際の災害が起こってからどのように動いたかという状況でございます。11日午後に発生しました大地震によりまして、実際に三重県支部がどのように動いていったかということでございますが、地震、すぐに大きな揺れを受けましたので、まずテレビ等、震源地、地震の規模等の確認をさせていただき、しばらくの間、日本水道協会中部地方支部の名古屋市と連絡をとり、情報の収集を行いました。同日の夜9時30分でございますが、日本水道協会中部地方支部の名古屋市から、当該支部として災害応援協定に基づきまして職員派遣の可能性があり、県支部として応援体制へ入るための準備をしておくようにという報告が入りました。四日市市、桑名市、鈴鹿市等、主な水道事業体に準備体制の連絡をさせていただいております。
 日が変わりまして12日の朝方、長野県と新潟県で6強の地震がございまして、職員の方が朝5時に出勤しております。これは、6強になりますと協定に基づいて非常体制に入りなさいという形になっておりますので、職員が朝5時に出勤をして、5時45分、メール、ファクスにおきまして県内の水道事業体に、非常体制に入ったため応援準備に入るよう指示し、応援体制報告書の報告を求めております。この時点では、派遣先は東北方面なのか、中部地方で大きい地震が起こりましたので、どちらになるのかというのは不透明な状況でございました。
 6時15分頃でございますが、この頃から各水道事業体から派遣の可否等の報告の提出がございました。12時になりますが、中部地方支部から、県支部として本日中に出発できるよう態勢をとるよう指示があり、四日市市、桑名市に、本日出発の旨を伝えまして、人員等の調整をするよう指示をいたしました。
 15時の時点におきまして、津市、四日市市、桑名市につきまして調整が完了した旨の報告を受け、中部地方支部からその後派遣の正式な連絡があり、派遣先が福島県のそれぞれ福島市、郡山市、白河市に出発という指示がございました。17時、合流地点にそれぞれの市町が合流し、福島県の方へ出発したわけでございますが、先程お話ししました爆発事故の影響で、中部地方支部から一たん引き返すようにという指示があり、その日につきましては、応援隊が夜9時に一たん戻っております。そのときのファクス及びパソコンのメールによりまして報告をさせていただいた資料等にこちらの方はなります。
 こちらは派遣要請書でございます。名古屋市長の方から派遣要請書をいただき、今度、16日付で松島町の方へ派遣要請が再度来たときの文書になります。この要請書によりまして県内を再度取りまとめ、翌17日に職員の派遣を行いました。
 これは三重県支部、そのときには津市長がおりませんでしたので、四日市市長が職務代理者でございましたので、四日市市長名で桑名市、四日市市等へ派遣依頼の文書を通知させていただいております。今後の応急給水に当たりまして、三重県支部の対応や派遣期間、健康管理等、考慮する必要がございましたので、県内は今後、先遣隊で出発しました津市、桑名市、四日市市が行っておりますが、その後はローテーションを組んで健康管理等に気をつけながら派遣をしていきたいという旨の通知を県内各水道事業体にさせていただいております。
 事前準備としまして、平成23年3月14日に津警察署で緊急車両登録を行い、即日、確認標章の交付を受けました。この緊急車両登録を行うことで、通行規制がある道路の通行が可能となったり、高速道路の通行料が無料になりました。また、給油制限のあるガソリンスタンドであっても、今回、優先的に給油を受けるなどの扱いがございました。
 以上でございます。
 ここからは、実際、宮城県の松島町の方へ派遣となりました職員の方から引き続き発表をさせていただきたいと思います。

〇西出参考人 それでは、概要についてご説明をさせていただきます。
 松島町へは、支援機関としまして、第1班、津市4名、四日市市3名、桑名市3名が、平成23年3月18日から加圧式給水車2台とタンク積載車2台により給水活動を行いました。派遣期間中、支援人員34名が、給水活動に携わりました。
 こちらは仙台市から松島町へ向かう国道45号の塩竈市の様子で、駐車場に船が打ち上げられておりました。
 こちらが目的地である松島町水道事業所になります。ここへ参集をいたしました。
 これは、松島町の町長があいさつにおみえになり、給水活動に駆けつけたことに対しお礼の言葉がありました。
 毎朝、松島町水道事業所から班編成、給水箇所、給水時間を記入した応急給水予定表が作成、配布されるため、その予定表により、陸上自衛隊松島駐屯地反町支所、地元消防団、現地案内、順路等の打ち合わせを行っている様子でございます。
 松島町は、県営水道の受水2カ所と二子屋浄水場からの配水を行っておりましたが、県営水道の送水管が破損したため、二子屋浄水場の水道水を給水車や給水タンクへ補給し、応急給水箇所での給水を行いました。松島町水道事業所から車で約15分程の二子屋浄水場での給水車への水を補給後、給水ポイントへ向かっております。断水戸数が多かったため、1人6リットルの給水制限を設けての給水活動が行われておりました。
 こちらは華園集会場というところの給水活動になります。
 地元消防団の方も道案内と給水活動にご協力をいただいておりました。持参をしていきました応急給水袋の使用をしての活動も行っておりました。当初は町職員の方に給水箇所への道案内もしていただいておりました。地元の方からは、遠方からの給水活動に対する感謝の言葉と笑顔で接していただいたことで、職員のやる気と力になりました。地元の自治会の方も給水活動にご協力をいただいておりました。
 こちらは老人ホームへの給水活動となっております。
 コミュニティ消防センターでの活動状況でございます。
 こちらが松島町立の保育所での給水活動となります。
 地元の松島病院での給水活動の様子です。医療施設においても断水となり、水道水の供給が受けられず、職員が容器等を持って出てこられております。
 こちらは、牛乳を差し上げますという看板がありました。地元の方には大変友好的に接していただきました。酪農家の方から、生乳を出荷することができないので搾乳をしないと牛が病気になるということで、絞りたての牛乳をいただいたりもしておりました。
 こちらが松島町の協力により、震災直後の写真をいただきました。これは地元の高城川に進入した津波の様子ということです。
 津波直後の県営の有料駐車場でございます。
 こちらが松島第一小学校前から松島海岸駅まで冠水した国道45号の状況でございます。
 こちらが泥水で埋まった後の松島海岸駅の駅前でございます。
 被災地への派遣業務終了後、震災による被害が深刻であった東松島市の状況を見るために、現地での写真の様子でございます。東松島市東名という駅でございますが、津波により駅舎も線路も流出した様子でございます。
 こちらは、何軒かの家が津波で川まで流されているような状況でございます。
 津波から約2週間経過していても水が引いていない東松島市の様子でございます。
 これが堤防沿いの道路になっておりまして、左に少し見えるのが松林で、右が堤防になっております。
 これの手前が道路で、奥の方が堤防になります。
 これが逆に堤防の上から撮った写真でございまして、手前が道路、奥が松林、その向こうに住居があったところでございます。
 最後に、津市の例になっておりますが、第1班の4名、3月26日早朝に津市へ到着し、放射線量の測定を行い、異常がないことを確認していただいております。第2班につきましても、3月の30日未明、津市に到着と同時に放射線量の測定を行っております。また、松島町の方々から給水活動に対するお礼のメールが数件届いております。
 以上でございます。

    ④ 参考人への質疑

〇藤田委員長 それでは、ご質疑がございましたらお願いをいたします。

〇杉本委員 2000リットルのタンクで行きますと、なくなりますよね。34名の方がリレーでやっていかれるんですかとか、もらえる水は1人どれだけというふうに決められたんですか。それから10日間なので、松島町の方はそこで水が復旧したということで終わられたんでしょうか。飲み水以外の水も町民の方は必要だったと思うんですけれども、現地の様子ですけれども、ほかの水はどうしていたのかとか、そんなことが少し気になったんですけれど、お願いします。

〇藤田委員長 どなたかお答えいただけますか。

〇秦参考人 リレー給水につきましては、2トン車を、派遣された車を回しながら浄水場へ給水に行って、また現地へ給水するというピストンの輸送です。あらかじめ松島町の役場の方がその日の給水拠点のタイムスケジュールを組んでいただいておりまして、私どもは派遣当日の朝に打ち合わせの中でそのタイムスケジュールをいただきながら、それに従いまして各担当のところへリレー給水を行ったということでございます。
 それから、飲料水以外の水はどうしていたのかというご質問につきましては、上水ですので、その給水していく水が、それがすべてでございます。飲料水用に配りながら、それからまた集会所とかのため置きの水ということで、同じ給水車の水を専用のバケツ等にため置きまして、それを使っていただいていました。
 給水に来られる方はいろんな容器を持ってこられます。皆さんが専用の容器や給水袋を供えているわけではありませんので、結構形の違うようなペットボトルだとか、いろんな容器がございます。そうすると、どうしても水をこぼしてしまいます。貴重な水ですので、1滴たりとも無駄にはできないとは言いながらも物理的にこぼれてしまいます。給水活動のうちに住民の方も知恵がつきまして、貴重な水をこぼしてはいけないということで、こういう発泡スチロールの箱を下に敷いてみたりだとか、いろんなことでこぼれる水を何とか有効に使おうとされます。容器からあふれた水はその下に敷いた容器にたまりますので、それをくみ置きのいろんな飲み水以外に活用するとか、いろんな工夫を、派遣した職員と地元の方が経験をしながら日に日に知恵がついていくというようなことで、いろんな賄いをしたということでございます。
 1人の給水制限は、先程6リットルというふうにご説明させていただきましたが、お一人6リットルです。これも応急時の対応ですので、ガソリン程に厳密にやるのではなく、おおむね6リットルということです。最初、私どもが派遣されたときは、震災から1週間ということでちょっと緊迫感もありましたので、そこはもう臨機応変に、おおむね6リットルにしながら、できるだけ公平にわたるようにということで配慮はさせていただきました。
 当然、先程写真でご説明をさせていただきましたように、多くの列ができます。1回の給水ですべての方にわたるという保証がございません。じゃあどうするのかということになりますと、これも住民の方が知恵をつけられまして、住民の方の創意工夫で整理券を配り始めたんです。そうすると、2000リットルの給水タンクが、どんどん水がなくなっていきます。そうすると、もらえない方は次のリレー給水の時間帯のときにもらいに来るしかないんですが、そこに不公平感が生じないように整理券を配って、今度来たときは遅れて来てもあなた方が優先給水だよということで、非常に地元の会長、自治会の役員の方が、その場その場の臨機の創意工夫とリーダーシップを発揮されて、非常に秩序が保たれた整然とした給水活動が実施できたということでございます。
 あと10日間で復旧できたのかということでございますが、ちょっと担当者をかえます。

〇田中参考人 10日間程で復旧が大体できたのかということでございますが、地元水道局職員については、職員が5名とか6名とか少ない人数でございました。大丈夫なのかなと、電話連絡しかできませんので心配をしておりましたけれども、水道組合、水道の業者などの毎日の復旧作業のかいがありまして、帰ってくる時点で九十数パーセントは復旧しました。松島町は近隣の他市と比べまして被害が少なかったということもございまして、私らはこれで何とか頑張れますので、よその水道の事業体の方へ回っていただくという意味合いもあり、そろそろここらへんで三重県支部の方は帰っていただいてもよろしいですというのが大もとのお話でございます。
 ただ、日本水道協会の中の連携不足もありました。私どもの方としましては引き続き、私どもの行った事業体は先程申しましたけれども、その後、鈴鹿市、伊勢市、伊賀市、ほとんどの水道事業体の方が次いつになるんやろうというお話もありまして、そういうローテーションも組みながら、おたくらにはこの日からというふうに思っていましたので、せっかく向こうに行った職員が、最初の班はそのまま数日で帰ってきましたので、ほかへ回れやんのやろかというようなお話もしながら調整をしておりました。けれども、向こうの受け入れ事業体も、応援に来られたときの対応というのも大変でございまして、手持ち弁当で行くつもりではおるんですけれども、行った人をどう回そうとかというような計画もまたふえてきます。どこの事業体もすぐには受け入れられないということで、一たんその時点で給水活動を終了して戻ってきたというのが実情でございます。
 以上でございます。

〇杉本委員 被災地での活動、大変なことだったろうと思います。どうもご苦労さまでした。ありがとうございました。

〇中村委員 この町は有人離島もあるんでしたか。もしあればその離島への給水の話なども、やりくりであったとすれば聞かせていただきたいというふうに思いました。なければいいです。

〇秦参考人 離島への給水はございませんでした。

〇中村委員 この様子を見ますと、派遣されるスタッフですけども、半分ぐらいは水道関係の職員じゃなくても、普通の職員でも行けば十分役に立つのかなというふうに思ったんです。そういう受け取り方でよろしいでしょうか。

〇田中参考人 日々の、日常の市民の方へ迷惑をかけております漏水事故なんかがございますけれども、二、三回経験を積めばそういう職員だけでも対応は可能ですし、まして1人経験者がおれば、それに随行する形で一般の職員という対応でも十分可能だと思います。

〇中村委員 どうもご苦労さんでした。ありがとうございました。

〇藤田委員長 他にどうですか。
 なければ、これで水道分野の参考人からの聴き取り調査を終了いたします。参考人の皆さんにおかれましては、大変長時間にわたり、ありがとうございました。

    ⑤ 参考人の意見陳述(教育分野)

〇藤田委員長 参考人の意見陳述の前に、教育委員会事務局の和田生徒指導・健康教育室長から、派遣に至った経過についてご説明を願いたいと思います。よろしくお願いいたします。

〇和田室長 それでは、県の教育委員会から、スクールカウンセラーを派遣するに至った経緯についてご説明をさせていただきます。
 このスクールカウンセラーの派遣につきましては、4月22日付で文部科学省より宮城県へのスクールカウンセラーの緊急支援の派遣協力の依頼がございました。その内容といたしましては、宮城県教育委員会からの要請を受け、5月9日から5泊6日を一つのクールといたしまして6週間、特に地震とか津波の被害の大きかった市町にスクールカウンセラーの緊急派遣を行って児童・生徒の心のケアを行うとともに、学校や保護者への相談、児童・生徒への接し方等の助言を行うということでございました。
 県の教育委員会といたしましては、できる限りこの要請に応じていきたいというふうに考えまして、三重県臨床心理士会と相談をさせていただきました。非常に厳しい状況の被災地での支援ということもありましたので、これまでのスクールカウンセラーとしてのご経験でありますとか専門性というようなものを勘案した方がよいというご助言をいただきましたので、臨床心理士会の方で人選をお願いいたしました。県教育委員会としては、派遣するスクールカウンセラーが勤務されている学校でありますとか、スクールカウンセラーの皆さんは、学校だけではなく、病院でありますとか福祉センター等、さまざまな勤務場所を兼務されておられるということでございましたので、その兼務先との調整も県の教育委員会でさせていただいたところでございます。
 スクールカウンセラーの方は、今申し上げたとおり幾つかの機関を兼務されておられます。なかなかお一人で長期にわたって宮城県の方に支援に行っていただくということは難しく、4名の方はそれぞれ1週間ずつ、1名の方につきましては2週間ということで、合計6週間、宮城県気仙沼市の小・中学校に支援に行っていただきました。
 また、6月20日から7月22日までの5週間につきましては、第2期の派遣ということで、5名の方に支援に行っていただくということになっております。今回の第2期については、派遣先が気仙沼市から南三陸町に変更になりました。より被害の大きかった南三陸町への派遣地の変更につきましては、気仙沼市での本県のスクールカウンセラーの方々の取組が評価されたというふうに聞いております。
 今回の派遣に当たりましては、三重県臨床心理士会に大変ご協力をいただきました。厳しい状況の被災地での支援を行うということから、支援に行っていただいたスクールカウンセラーの方がまた逆に被災されることがないように、日々、被災地での活動についてメールで情報共有をさせていただいたり、隔週で被災地から戻ってこられたスクールカウンセラーの方とこれから派遣される方、それから臨床心理士会の担当者の方、県教育委員会の担当者で、活動状況等についての引き継ぎを行ってまいりました。その中で、被災地での支援についての共通理解を図るということに取り組んできたというような状況でございます。
 また、スクールカウンセラーといたしましては、県の教育委員会として研修企画・支援室の臨床心理相談専門員というものが特別職でおります。この臨床心理相談専門員を5月9日から7月20日まで宮城県の県立高校に派遣をしているというような状況もございます。
 以上でございます。

〇藤田委員長 それでは、引き続きまして山田参考人の方から説明をよろしくお願いいたします。

〇山田参考人 今回、気仙沼市に支援に入らせていただきましたことをご報告させていただきます。
 その前に、この資料をごらんになっていただきたいのです。多分、学校緊急支援ということに関して、どういったものかということがなかなか教育関係以外の方にはご理解いただきにくいので、ちょっとここを読ませていただきます。
 学校におきまして予期し得ない事件・事故・災害等の出来事が起こった場合、学校コミュニティーの構成員が、教職員と児童・生徒ということですが、このような突然の衝撃的な出来事により危機的状況に陥ることがあります。それが個人の場合も、あるいは家族の危機の場合もあるんですけれども、今回の震災のように余りにも衝撃が大きくて、地域自体、学校自体が機能を破綻させてしまうことがあります。このような突発的な出来事によって危機状況に陥った学校コミュニティーを、学校が機能できるような状態に少しでも戻るよう支援させていただくのが学校緊急支援です。
 この災害以外にも、三重県では学校でのいろんな事件、事故に、児童・生徒、教職員が巻き込まれた場合に学校自体の機能が低下することがあります。そのときに緊急支援ということで、スクールカウンセラーが実は配置されてお仕事をさせていただいています。
 今回は余りにも大きな災害でしたので、宮城県内だけのスクールカウンセラーで対処し切れないということで、日本じゅうのスクールカウンセラーを経験したことがある臨床心理士に支援に入ってくれないかという依頼がありました。神戸の震災のときは、兵庫県に臨床心理士がたくさんおられるということと、被害に遭った地域が非常に今回に比べて小さかったものですから、兵庫県での場合は兵庫県内の臨床心理士が中心に活動され、隣県の臨床心理士が電話相談の協力をするというぐらいの支援だったんです。ところが、今回は余りにも大きかったので、三重県にも依頼があったので支援に入らせていただきました。
 支援の入り方なんですけれども、これは県の臨床心理士会によってちょっと異なっています。福岡県とか兵庫県なんかのような、今まで地域でいろんな大変なことがあった県などでは、結構積極的に、今回の派遣が入る前にチームを仕立てて学校に入るという取組をされた県もございますけれども、三重県は依頼があって入らせていただきました。
 私たち三重県の緊急支援の入り方はといいますと、2番の支援内容に入るんですけれども、まず学校に入りまして、どういうような被災状況なのかということを聞き取らせていただきました。学校に入れば、学校自体、建物が被災してないということはもう見たらわかるんですけれども、その中で児童・生徒の状況、私が行ったところは全員無事な学校だったんですけれども、その児童・生徒のご家族がどうだったか、おうちがどうだったかという聞き取り、それから、教職員の被災状況を聞き取らせていただきました。そういう現状を踏まえて学校側のニーズをお聞きして、こちらから心理士としての情報提供をさせていただいて、今後、学校が子どもたちを支援していただくに当たって臨床心理士としてどのような仕事ができるかというご相談をさせていただいて、私たちの仕事は始まりました。
 今回、私は2日同じ小学校に入って、3日目が違う小学校に1日だけ、4日目がまた違う小学校に1日だけということでした。継続的な支援が約束されていない学校だったものですから、余り学校の中をひっかき回さずに、今後こういう支援が必要だというところの提示と、それと被災されている先生、子どもの面接をして助言をさせていただきました。それが大体の内容です。
 ある学校では、お一人行方不明の先生がおられて、その先生が3カ月たったので死亡ということになって、その退職の手続が進められるわけです。地域によっては、先生と子ども、先生と保護者の関係が非常に密で、先生が亡くなったということは、地域、子どもたちにとても衝撃を与える出来事になってしまう。そのときに子ども、保護者に混乱が起きる。そのときにどうしたらいいかということのご相談がありましたので、そのことに関して、私たち心理士としてはこういう理解の仕方をしている、それと心理士としてはこういう支援をすることができるということを提示して帰ってきました。それがやらせていただいたコンサルテーションです。
 個別面談は、希望のあった児童への面談もあったんですけれども、中心は教職員の先生の面談になりました。転勤してこられて新しい学校でどうにかその学校の文化になじもうとしておられるんだけれども、とても大変な思いをしているという管理職の先生の話から、自分が前任校で子どもたちと一緒に津波から逃げた体験をされた先生の話をお聞きしました。そのときの状況が、被災されたばかりの3月にはそんなことなかったんですけど、3カ月近くなった現在、睡眠障がいだとか、あるいは悪夢を見るというようなPTSDを思わせる訴えがありましたので、専門機関を受診することとかの助言をさせていただきました。
 あとは行動観察です。子どもたちの様子を見て何かコメントをもらいたいということで、教室の授業に参加させていただいたりとか、給食をともにとることによって子どもたちの様子を観察させていただいて、それを先生に戻させていただきました。
 そういう中で、根底に発達のバランスの悪さを持った子どもが、今回の震災により環境が、自分の居心地のいいところで生活していたのが避難所生活になるという、環境がもう全く変わった状況で混乱を起こしていることがありました。そういうことに関して、今後こういうような対応を考えてほしいという提案をさせていただきました。
 心理教育なんです。心理教育というと難しいことなんですけれども、これは、大変なことが起こったときに私たちの心や体はどんな反応をするかというストレス反応に関しての説明をさせていただいて、そのときに私たちはそれをどう理解してどう対処したらいいかということの情報提供です。これに関しては、学校の方から、教職員に対して、子どもにどのような対応をしたらいいかということを教えてもらいたいということがありましたので、学校の勤務の残り時間が三、四十分のところで先生方にその話をさせていただきました。
 大体これが前回4日間学校に入らせていただいての私の活動内容です。
 支援に当たり配慮した点なんですけれども、普通、私たちの心理療法だとかカウンセリングという仕事は、1人の心理士が継続的に1人のクライアントとともに考えて歩む作業なんです。ところが、このように、私たちがそれこそ1年も2年も宮城県に行って支援に当たれたらいいんですけれども、三重県での仕事がありますのでそんなことはできないんです。ですから、週がわりで心理士がかわっていくわけなんです。そうすると、学校からしてみたら、また一から説明せなあかんという大変さがあるんです。また一から説明しないといけないというところは、実はまたもう一回話をすることによって自分の気持ちを整理できるといういい体験でもあるんですけれども、ご多忙の中の煩わしさということもあります。ですから、ここのレジュメでいいますと③番に当たるんですけれども、私たち心理士の顔はかわるけれども、支援としてはつながっているということをアピールさせていただきました。
 その際に、三重県では同じ名札をつくりまして、この音が出る忍者のマスコットをみんながつけていって、同じ三重県から来た心理士ですとか、学校にこの写真というか、ネームプレートをお渡しすることで、次はこういう人が来るということ、それから、私たちは情報を共有しているからある程度の情報を持って次の心理士が入りますというところを伝えました。また、同じデザインの名刺をつくりまして、それを学校にお渡しするということもしてきました。
 今週から第2陣の支援が始まっているんですけども、2陣の支援になったときに、今まで私たちは気仙沼市の学校だったんですけれども、今週からは南三陸町の小学校に入るんです。それに関しても、前は兵庫県のチームが入っていたので、兵庫県のチームと情報交換をしっかりして、学校側に煩わしい思いをさせないように、そういう情報共有はしています。また、私が入った学校を次は福岡県チームが引き継ぎますので、きのうの夜、福岡県チームの担当の先生にそこの小学校の情報と、今後どのような支援が必要で、どのような準備をして学校に向かってもらいたいかということもお伝えさせていただきました。だから、できるだけ心理士としてはつながっているということをアピールしてきました。
 それと支援に配慮した点の①番なんです。こういう大変なことが起こって学校側はとても傷ついております。そのときに、こういうことをしなければいけないとか、こうであらねばならないということを伝えに行ったんでは、傷ついている先生方をより傷つけてしまいます。ですから、私たちはできるだけ学校のニーズに応える形、そして子どもたちを支えるのは保護者であり、学校の先生でおられるので、学校の先生がふだんの業務に戻れるよう、学校の先生を支援するということを考えて仕事をさせていただいています。決して表に出ることなく、縁の下の力持ちに徹するつもりで学校に入らせていただきました。
 そして、この大災害のときの心理援助の3原則というのがあるんです。その中の一つは、継続してケアできない心理援助者は、被災者に直接会って面接したりするのは余りよくないんです、継続しないものですから。本当は面接やったら、ずっと1年でも2年でも、それこそ10年、20年というぐらいかかわれる保証がないと接することはできないんです。積極的に面接することはしなかったですけれども、向こうから依頼のある場合はお話しさせていただきました。ただし、深く話は聞かないようにしました。だんだん話を聞いていくうちに混乱してしまうんです。混乱したまま身を引くということはとてもできないので、1時間の面接だったら、1時間の面接でうまくその気持ちがおさまるような聞き方をしています。好きなだけ話してもらうということはせずに、1時間の中で収束するような面接の仕方をしました。
 この②の(イ)ですけれども、神戸のときなんかは結構、子どもに絵をかかせたりだとかしていたんですけれども、安心・安全が保障されていないところでの感情表現というのはとても危険を伴います。ですから、そのようなことのないように配慮しました。また、どうしても校長先生なんかとお話しさせていただくと、自然に大変な思いをしたのを話されます。それは自然に話される分は聞きましたけれども、どうぞ話してくださいというふうに勧めはしませんでした。
 次に(ウ)なんです。トラウマのアンケートというのがあって、学校で何か大変なことがあって、それが1カ月、2カ月になったときに子どもたちの状況はどうかということで、スクリーニングをするために使ったりするそういうテストがあるんです。それも一応テストするに当たっては、心理教育と、それからストレスマネジメント、緊張をほぐすリラクゼーションのやり方なんですけど、そういうことも踏まえてトラウマアンケートを実施すべきで、簡単に、はい、一回やってみましょうとすべきじゃないので、私たちはそういうアンケートはとりませんでした。ただ、現地の先生方もいろいろ勉強されておられて、そういうアンケートがあるんや、じゃ、せなあかんかなと思って実施されている学校がありました。資料を渡されて、これでコメントが欲しいということがあったので、それに関しては心理士なりの把握の仕方で情報の提供をさせていただきました。でも、私たちは大体この三つの原則を守るような活動をしました。
 次に、服装と準備物なんです。できるだけ学校に負担をかけないような配慮で、自分の昼食だとか飲み物だとか、そういうのを持参していくのと、余り華美でない、そしてカジュアル過ぎない、そういう服装で出かけました。
 5番目として、私たちの課題なんですけれども、被災された大変な体験を聞きますと、私たちも同じような体験をしてしまいます。それで被災した人がストレス反応として、感情の反応だとか身体の反応、認知面での反応、行動面での反動として出るんですけれども、私たちも同じような反応が出ます。
 例えば、私なんかは、行って帰ってきて、今、ようやくきのうぐらいから声が出るようになったんですけど、咽頭炎を患いまして全く声が出なくなっていました。来週の月曜日からまた被災地に入るんで、できるだけもう今週中には体調を戻したいと思っているんですけど、私の場合は身体の症状として出ました。
 第1陣の1週目、2週目に入られた方なんかは、覚醒状態というか、躁状態ですね、ハイテンションになって戻ってこられました。3人目ぐらいからちょっと体調不良を訴えられて、私なんかは本当に病気になってしまってということで、きっとこれは被災地の状況がそうなんじゃないかなというふうに理解しています。最初は、先生方は自分を駆り立てて、一生懸命躁状態に持っていって学校の運営をされてきました。ところが、その疲れがたまってだんだん体に不調が出てくる時期が、ちょうど私が入らせていただいた時期なんじゃないかというふうに理解しております。
 ですから、こういういろんなストレス反応が出ますから、例えば集中力が落ちたりだとかするのです。こういう災害の緊急支援じゃなくて、別の学校で何か子どもたちが事件、事故に遭った場合で、私たちが緊急支援に入って1日活動して帰るということをよくやるんですけれども、集中力が続かなかったりするもんですから、結構そういうスクールカウンセラーは緊急支援の帰りに接触事故を起こしたりということがよくあるぐらい、私たちは気づかないうちに同じように被災していることがあります。
 あるカウンセラーなんかは、緊急支援に入りますとやっぱり緊張するんです。だから肩凝りがひどくなって、必ず緊急支援に入った場合は帰りにマッサージに寄って帰ってくるだとか、あるいはいらいらするスクールカウンセラーがいて、緊急支援に行くと、帰ってきていらいらして家族にいろいろ当たるけど勘弁してくれという一言を残して行かれる場合もあったりします。
 私なんかは、今回は違ったんですけれども、気持ちが躁状態になって帰ってくるもんですから、仕事の内容は話さないんですけど、家へ帰ってすごく多弁になります。とてもよくしゃべる。それとか眠れないとか、そういった症状もあったりします。
 そういうふうに、私たちは入ることによってストレスを抱えます。それを二次受傷という言い方をするんですが、その二次受傷をどうするかという問題があって、それは支援者の支援ということで、私たちのこの三重県のチームの場合は、チームでその大変さを共有する。先程、和田室長から説明があったように、引き継ぎという会の中で顔を合わせて情報を共有することによってお互いが支え合うだとか、私の場合はスーパーバイザーがいるんですけれども、そのスーパーバイザーに、現地に行ってもういっぱいいっぱいになったら電話するからよろしく頼みますということでお願いして出かけてきました。幸いスーパーバイザーに助けを求めることはなかったんですけど、自分が冷静な判断ができないくらい混乱した場合、その自分を立て直すためのバックアップ体制というのを持っていないと、こういう支援に入るというのはとても危険だと思っています。
 最後に、支援を通じての所感です。一番思ったのは、ぎりぎりのところで踏ん張っておられる学校の先生方に、思い出すと涙が出てきそうになるんですけども、頭が下がる思いです。
 それと支援の一本化というのがとても重要で、いろんなところの支援が入っているんです。私たちが入ったところに既に別の心理グループが支援に入っていて、そこで大変な傷つきをされている場合は、次に入ったカウンセラーというのは非常に仕事のしにくさというのがあります。一つの窓口で心理支援に関しての情報を一括して、どのように支援を配置するかというところを考える機関を一本化するということが、混乱が起きなくて必要だなと思いました。
 それと、これだけの災害ですから、長期の支援計画というのは必要だというふうに思っております。
 最後に、④番なんですけども、学校に行かせていただいて、これはどうにか避けることができたんじゃないかと思うのは、マスコミの問題です。マスコミが入ることによって、校長先生なんかは、取材が入っているということを全然知らずに学校の様子が放映されて、それで子どもをさらしてしまったという思いで傷つかれて、マスコミに対してはとても過敏になっておられました。
 それとか、もう直接子どもたちにマイクとカメラを向けて言葉を求めたりすると、子どもたちはとても純朴ですから、それに答えてしまうんです。答えてしまって、月日がたってからそれを見たときにとても傷つく体験をするだろうし、先生方自身も子どもたちを傷つけたということでとても傷つかれます。そういうことで、マスコミの対応ということをもうちょっと考えられたら、これは避けられたんじゃないかというふうに感じています。
 これが1回、4日間支援に入った私の大体の感想です。来週から2陣としてまた入りますので、またそのときの私の感想も違ってくるかなと思うんですけれども、1陣で入ったときの感想は以上です。
 ご清聴ありがとうございました。

    ⑥ 参考人への質疑

〇藤田委員長 ただいまのご意見を受けまして、委員の皆様からご質問をお願いしたいと思います。

〇北川委員 本当にお疲れさまでございました。貴重な体験を聞かせていただきました。
 1点だけ簡潔に。最後のところで課題的にお話しいただいた中の窓口の一本化ということです。心理支援の窓口を一本化ということで、ただ専門的な分野ですので、どんなところがその役目を担うのがいいのか、もしサジェスチョンがあれば教えていただきたいんです。それは県なのか、国なのか、文部科学省なのか、もっと別の機関なのか、どういうところがそういう窓口を担ってやっていくのが、進めるのがいいというふうにもし思っておられるところがありましたら教えてください。

〇山田参考人 難しい問題なので私もわからないんですけど、学校に関しては三重県の教育委員会かと思います。いろんなグループだとかいろんな県からこんなことできますという情報が入っているみたいで、それを多分一つのところで情報を持ってうまく使えたらいいんじゃないかと思います。東京都のグループだとか、兵庫県のグループだとか、いろんなグループが入っていて、それが私たちに伝わってなくて、入ったところで学校の先生から、実はこういうグループのこういう研修を受けたんですというのを聞かされて、ああ、そうなんですねというところで頭の中をまた組み立て直しをしたりしないといけないんです。できたらそういうところをすべて県の教育委員会に把握していただいて、私たちが入るに当たっては、混乱している中で情報を共有して一本化するというのは難しいんですけれども、そうしていただいた方が支援の方針は立てやすいというふうに思いました。

〇北川委員 そうすると、逆に、被災地の宮城県なら宮城県の教育委員会というのは、十分機能できてない状況にあると想定されるということなんですよね。コメントは結構なんですけども。参考にさせていただきます。

〇小野委員 今のお話も含めてですが、結局NPOにしても、公的な支援にしても、初期、それからちょっと時期が過ぎたとき、今、三月以上たったとき、長期的に支援をしなければいけないところがあるんです。どうも被災地自体がすごく大きいんで、そういう絵がかけていないというのが現実にあると思うんです。それが、今、山田参考人が現実に現場で確認をされた部分だと思うんです。
 今、教育委員会がというふうにお話をされましたけれども、例えば、行ってらっしゃった宮城県が大きな被災地の一つですが、そこのところで対応ができないとすれば、文部科学省からの依頼で行かれるということですが、今回は。違うんですか。

〇山田参考人 宮城県からの依頼です。

〇小野委員 宮城県。ああそうですか。
 委員長、ごめんなさい。行き来をしましたんで、もう一回聞きますが、いいですか。

〇藤田委員長 はい。

〇小野委員 宮城県からの依頼。宮城県が三重県に依頼をされて、その三重県からの依頼で心理士グループとして行かれるわけですか。

〇山田参考人 理解、協力とか派遣の調整を三重県の教育委員会にはしていただいていますけれども、実際、私たちは宮城県と契約を結んで、宮城県からお金をもらって仕事をさせていただきました。ですから、履歴書も提出して、契約書に印鑑を押して、金曜日までこういう勤務をしますということで、お金の出所となったら宮城県ですので、宮城県の依頼となります。ただ、それに当たってきちっと支援に入れるようにということで、文部科学省を通じて教育委員会と、それと日本臨床心理士会の方から三重県臨床心理士会の方に、このように支援に入るように体制を組めというような指示がありました。

〇藤田委員長 和田室長にお聞きしますが、先程、文部科学省からの依頼という説明をいただいたように思いますが、そのへんのところをもう少し整理して確認をしていただけませんか。

〇和田室長 今、山田カウンセラーの方からお話がありましたけれども、宮城県の方から文部科学省の方に派遣の要請がありまして、文部科学省が仲介をしてという形で、文部科学省の方から各都道府県教育委員会の方に、宮城県の方からこういう派遣の要請があるので、それに応じていただけるスクールカウンセラーを推薦してほしいという依頼がございました。
 今、山田スクールカウンセラーに言っていただいたとおり、実際は宮城県教育委員会とカウンセラーとの間での契約ということでございますけれども、その仲介を文部科学省と県の教育委員会が間に入って推薦をさせていただいたというような形で今回の派遣ということになっております。
 以上でございます。

〇藤田委員長 小野委員、よろしいですか、そのへんのところ。

〇小野委員 当初伺っている間では、どうも文部科学省から直に三重県の教育委員会に派遣要請があって、それで、今、山田参考人のグループに話をしたと。どうも三重県が前へ出たような感覚で伺ってましたんで、実は違うんだということがはっきりわかりました。
 和田室長、逆にお伺いしますが、三重県としては、そうすると、そこらへんの臨床心理士等の対応等は考えてなかったのですか、当初から。

〇和田室長 要請につきましては、いろいろ検討はさせていただいておりました。実際に今回、スクールカウンセラー、山田さんのような形で宮城県に行っていただいていらっしゃる方とは別に、県総合教育センターにおります臨床心理の相談員を2カ月間、別にまた派遣をしております。県としても何らかの形で支援したいというようなことを考えておりまして、具体的に要望があったところにうまく乗る形で派遣をさせていただいたという状況でございます。

〇杉本委員 今日お話を伺ってよかったと思います。私、スクールカウンセラーを1週間交代でかえるって、そんなカウンセリングのやり方はないんじゃないかと、県の教育委員会の方にそれはいかんのと違いますかって何度か申し上げていたので、今日は学校緊急支援の中身をわからせていただいてすごくよかったと思っています。
 2次に行かれるということで、長期にわたる支援計画の必要性があるというふうにおっしゃられましたので、また2次から帰ってこられたら何らかの形で、どんな長期にわたる支援計画が必要なのかというあたりも、今後教えていただけたらと思います。
 以上です。

〇藤田委員長 要望ということですか。

〇杉本委員 はい、済みません。

〇藤田委員長 ほかにございませんか。
 参考人の方、今の発言に何かご意見がございましたら。

〇山田参考人 とても大変な傷を負われているので、これがいえるというのはとても時間がかかると思うんです。兵庫県の場合でも、まだ治療を受けておられる方がたくさんおられる状態で、そういうことを考えたときに長期の支援が必要であろうというふうに思っております。
 ただ、宮城県にたくさん臨床心理士がおられて各学校に入れるというような状況だったらいいんでしょうけども、そうじゃない中で、いかに工夫して、他県の我々がいかに協力して、少しでもお手伝いできることはしていきたいという気持ちではあります。一応、私たち災害支援に入る場合は、10年、20年も継続して入れるぐらいの意気込みがないと行ってはいけないというふうに言われております。

〇藤田委員長 ほかに委員の方、ご質問がございましたら。よろしいですか。
 参考人の方には、ご多用中にもかかわらず、本当にありがとうございました。
 ほかにないようでございますので、教育分野の参考人からの聴き取り調査を終了いたします。
 それでは、ここで暫時休憩といたします。再開は午後1時といたします。

          (休  憩)

    ⑦ 参考人の意見陳述(ボランティア分野)

〇山本参考人 本日はお時間をいただきましてありがとうございます。ボランティア活動について、皆さんにご紹介をさせていただきたいと思っております。
 まず、被災地への派遣に至った経緯でございます。お手元に配らせていただいた資料の中で、災害ボランティア活動の支援に関する協定書というものがあります。もともとこの三重県、県社会福祉協議会、それから幾つかのNPO、ボランティア団体で協定を結んでおります。災害が起こったときのボランティア活動が円滑に行えるようにということで、行政、それから民間が連携してやっていきましょうということを三重県ではずっと、実はもう10年以上続けて、毎月会議を開いておりまして、幹事会でどのようにしていくかというのを検討しておりました。
 その検討の結果の一つが、その後からついております支援センターの設置マニュアルというものなんです。通常、災害時のボランティア支援といいますと、地域防災計画に盛っておるものというのは、県内で災害が起きたときに県のセンターを立ち上げますということはよくうたわれております。他県でもうたわれておるんですけども、三重県のこの支援センターの特徴というのは、県外で災害が起こったときにも設置をさせていただく。そして、三重県から被災地へ支援に行かれる県民の方を応援していこう、県民のボランティア、そして現地に行きたい方を支援していきましょうということを当初からうたって活動させていただいておりました。
 実際の実績としても、2000年の東海豪雨のときに、当時は支援センターという名前ではなくてボランティア情報センターという名前だったんですけども、こちらでセンターを立ち上げて被災地の支援という活動をしました。2004年は各地で豪雨災害がありまして、まず福井県にボランティアのバスを出させていただいて、県内の、海山町とか、伊勢市とか、宮川村で災害が起こったときにも、アスト津に支援センターを立ち上げさせていただいて、現地の支援、津市とか四日市市からバスを出すというような活動をずっと継続して今までやってきておりました。
 それで今回の3月11日の東日本大震災が起こってきたわけですけれども、起こった当日の夜に臨時会を開催させていただきました。実はこの支援センターのマニュアルでは近隣府県という表現で県外支援をうたっておったんですけども、今回の災害はちょっと尋常ではない、近隣ではないんだけども、もうオール日本として応援していかなければならないだろう、三重県としても支援をしていかなければならないだろうということで、ぜひ支援センターを立ち上げようじゃないかという方向性で当日の夜から動きを始めました。実際には3月14日にみえ災害ボランティア支援センターを立ち上げさせていただいてから活動が始まっております。
 ただ、ボランティアが現地に行くといいましても、当初、ガソリンがないですとか、被害状況もなかなかわからない中でしたので、東日本大震災の全国ネットワークというのがボランティア団体の中でできました。それから、もともと連携している全国各地のボランティア、NPO、防災関係のNPOがメーンですけども、そういうところと情報交換をしながら、今すぐ行くのは逆に被災地に迷惑をかけてしまうだろうということで、一たんは待ってくださいと。もう少し状況が許すまでボランティアに行くのは待って、行けるような状況になったらぜひご案内させていただきますという形をとらせていただきました。
 4月1日から実際には我々のメンバーが先遣隊として、現地、主に岩手県を見に行きました。これ、岩手県にしたのはいろんな理由があるんですけども、一番大きな理由というのは、他の全国ネットワークと情報交換する中で、ボランティアが一番少ないということで選ばせていただきました。
 福島県は原発のこともありましたので、集団避難をされている方を受け入れた地元の自治体の人たちがメーンになって応援をしている。そして宮城県ですと、関東圏から日帰りで行ける場所であるということで、たくさんのボランティアが現地に行けるだろう。一方、岩手県の沿岸部となると、実は東京からもかなり遠いですし、岩手県の県庁がある盛岡市からも沿岸部へ出るまで車で1時間半以上かかるという場所で、非常にボランティアが行きにくい。どうせ遠くから行くなら、そういう行きにくいところを継続的に支援した方が被災地のためにもなるんではないかということで、岩手県をまずターゲットにさせていただきました。その中でも山田町を選ばせていただいたというのは、先遣隊が何カ所かを回ったんですけども、この山田町のボランティアセンターが実は4月9日に設置されたかなり遅い部類なんです。そういうことで、ボランティアの受け入れ態勢すらまだまだできていない。ぜひ三重県から継続支援の場合は、その受け入れ態勢づくりから応援していただけないかというお話があったのと、それからボランティアセンターのところが、運がよかったことに、B&Gの体育館、そしてその武道場を使わせていただけるという目途がついていたんです。その武道場でボランティアが寝泊まりできるということで、この遠方から行っても、長期、現地に安価で宿泊しながら継続した支援ができる。これが民宿に泊まらないかんということになってしまうと、どうしても長期的支援には経済的負担も大きくなってしまうので、宿泊費がかなり安く済むというか、ただで泊まらせていただけるというところで条件がよかった。
 それから、現地の方、ボランティアセンターを設置しているのは地元山田町の社会福祉協議会と、それから北海道のNPOも入ってらっしゃんたんです。そのあたりと情報交換する中で、継続的な支援ならぜひお願いしたいというお話があって受け皿を見つけることができたということで、そちらにボランティアのバスを出させていただくという形になりました。
 ボランティアのバスなんですけども、他のボランティアバスは1泊2日とか0泊3日とか、多くても現地1泊程度というものが多いんです。我々、いろんな被災地を支援してきた経緯、経験からすると、その程度の期間でボランティアに行っても、ボランティア自身がよくわからないまま帰ってきてしまう。本当に被災地がどういう状況になっているのか、そして、それを受けて私たちが三重県に帰ったとき何をすべきなのか。そんなことをしっかり考えるためにはそれなりの期間現地で滞在して活動する、そして現地の方と交流をするということが必要だろうということで、もう当初から目標は1週間という形で計画を立てさせていただいて始めた経緯がございます。
 実際には、バス、今は8日間ですね、6月中は。ですから一応有給休暇を5日連続でとっていただいて、土日1回と前の日曜日を使っていただくという形で、何とか休みを5日間とれば参加していただけるという形にさせていただきました。
 実際のボラパックが出発したのは、第1便が4月28日からになります。そのボラパックが行くまでの間、先遣隊を都合4回現地に出させていただいて、情報収集と、それから信頼関係づくりということをずっと継続してさせていただきました。信頼関係づくりというのは、具体的には現地でちゃんと働くということで、情報を聞いてくるだけではなくて、現地のボランティアセンターのスタッフとして継続してその場所を応援させていただいて信頼関係をつくり、そして現地の情報をしっかりと持って帰る。被災地が混乱している中で、情報だけくださいと言っても、情報を発信するという業務すらやっている暇がないというところがほとんどですので、一緒に働いて、その働いた人から情報をもらうという形で現地の情報を収集させていただくということに私たちは取り組みました。
 被災地での業務なんですけども、当初、ボラパック、ゴールデンウイーク中の第1便、第2便というのは、完全に現地のボランティアセンターのスタッフとして20名活動していただきました。ボランティアセンターというのは、一般のボランティアの方を受け付けして、そして必要な活動ニーズ、瓦れきを撤去してほしいとか、炊き出しの配膳を手伝ってほしいとか、それから最近は仮設に当たったので引っ越しの手伝いしてほしいとか、そういった個々のニーズとマッチングをする。そしてマッチングをして、現場まで車で配送をすると、そういう車の運転手であったりとか、それから活動のオリエンテーション、安全についての案内とか衛生面についての案内といったもの。それから、物資の貸し出しです、作業道具を貸し出す。そういう一連の流れのスタッフが全くいなかったんです。実は、今、口で話したようなことを四、五人でやっていました。感覚的に言うと20人ぐらい要る作業を、四、五人でわあわあ言いながらやっとったんです。それではとてもノウハウもたまっていかないし、その人たちも倒れてしまうということで、第1便、第2便の20名程度は、全員スタッフとして現地のボランティアセンターのお手伝いをさせていただいた。
 第3便以降は、徐々に地元の方が入ってきたり、そして第5便以降になってきますと、緊急雇用という形で地元の若い方々がボランティアセンターのスタッフを担われるという形になりました。現在は皆さんがイメージされるような現場のボランティア活動に三重県から行くボランティアは従事をしておりますが、一部、例えば保育園に行って子どもたちの遊び相手をするとか、そういう心のケアといったことの活動も始めさせていただいております。活動業務の中では、山田町で仮設の商店街がテントで復旧したんです、8店舗だけなんですけども。その仮設のテントを建てるお手伝いをさせていただいて、地域のそういう経済的な復興の支援をするという活動もさせていただいております。
 この活動、当初の協定書でも見ていただいたとおり、三重県ともがっぷりタッグを組ませていただいてやらせていただいております。今回は2年半の事業計画を立てさせていただいて、ともかく継続的に支援しないとこの被災を乗り越えることはできないだろうということで、大ぶろしきを広げさせていただいたわけです。そこは県に非常にご理解いただいて、活動に必要な事務作業、事務局の費用です、具体的には常任のスタッフ。ボランティアでスタッフも募集してやっておるんですけども、どうしてもボランティアのスタッフというのは、来れるとき、来れないときがございますので、継続して活動していただけるスタッフの人件費という形でのご支援、それからボランティアセンター運営の経費、事務局経費といった形。それから、現在議会でご審議をいただいているとは思うんですけども、このボランティアのパックの費用そのものについても、ご支援をいただけるような検討をしていただいているという形になっております。
 このボラパックですけども、実費に対して一部本人負担を入れております。この費用については、いろいろな考え方があるんですけども、基本、ボランティアというのは自己完結、自分の必要な費用というのは自分で払うというものが一番望ましい姿かなと思いつつ、たくさんの方に現地に行っていただくためにということと、現地には行けないんだけども何か応援したい、現地に行く人を応援したいという方もいらっしゃるので、そういった意味では金銭的なご支援をいただいて、それをボランティアパックの一部の費用に充てさせていただいている。実際の費用というのは、1人当たり恐らく2万五、六千円かかっておりまして、そのうちの恐らく1万四、五千円を自己負担いただいている形に現在なっております。
 このボランティアを現地で支援させていただいている中での課題なんですけども、この支援センター、行政、そして県、それから県社会福祉協議会、我々NPO、それぞれが持ち味を生かして連携しながらやりましょうということで、実は任意団体として活動しております。任意団体で活動しているメリットというのは、それぞれが特徴を生かして活動できるという面であるんですけども、逆にデメリットとしては、任意団体であるがゆえにいろんな助成金申請ができないといったことはございます。法人格を持たないと申請できませんとかいうところで、いろんな助成金申請を断念しているものがたくさんあったり、あと細かいところですけども、事務局に必要な携帯電話の契約をしようと思ったら、法人じゃないからできないという形で、実は私個人で契約せざるを得ないというようなデメリット、難しさがございます。
 それから、もう一つは、ボランティア活動全般での課題といいますと、現地での支援活動をしていく中で、遠方であるがゆえに、現地の方とうまくつながりをつくるのが非常に難しいという問題はございます。
 これはご支援いただく中で、実は現地のスタッフも1人被災された方を雇用させていただいて、その方を窓口にして活動はしておるんですけども、その方自身も自分が被災している中で、なかなか自由に動き回るのは難しい。そして被災地のいろんな事情とか、人間関係も含めて、どなたにお話をすればいろんな支援ができるのかというつながりをつけるというのが非常に難しいということ。それと、今回、参考人ということでいろんな方に来ていただいていると思うんですが、山田町にもたくさんの地域からボランティア、それから行政の支援の方、保健師の方、医師の方、いらっしゃっているんです。そういう方々との情報の交換というのが現場でできないんです。会う機会がない。
 例えば医師の方でしたら、保健師の方もそうだと思うんですが、本当に支援の必要な方という情報を持ってらっしゃるんでしょうけども、それが我々ボランティアにはわからないので、我々も別途自分で情報を探らなくてはいけない。被災された方からすると、いろんな立場の方から同じ質問を何回も受けるということで、もうええわという気持ちになってしまうんではないかと、非常に現地で申し訳ないなと思うことがあります。それは後方で連絡会議をするというよりも、その現場で活動している人たち同士が顔の見える場をどうやってつくっていくのかというのが我々ボランティアの中でも課題になってくる。
 ボランティア同士も現場で活動していて、こんな団体が活動していたんだということがいっぱいあるんです。こういうことで困っていたんだというようなことを聞いて初めて、そんなんやったらうちでできたのにというようなことがなかなか現地で調整できない、現地を離れたらもっとわからないというところの、被災地の混乱ゆえということもあるんですが、どうやって現場で連携していくのか、その場づくりをどうしていくのかというのが一つの大きな課題かなということがあります。
 あとは後方支援のこういうセンターを立ち上げさせていただいて感じるのが、現地との温度差です。 私も実は2回程度しか現地にまだ行けておりません、仕事を持ちながらやっておりますので。そうすると、現地の方が課題に思っていること、本当に悔しい思いをしているということが私たちには伝わってこないわけです。それが伝わってくれば、そんなん一緒にやれたのにと思うようなことをなかなか私たちが感じ取ることができなくて、後方は何をやっているんだというようなおしかりを受けることも多々ございます。現地に行っているボランティアの方からも、支援センター、何を考えているんだと怒られることもよくあります。そういったおしかりをうまく私たちが吸収して、次の新しい活動に向けていくために、その後方と現場の温度差をどうやってなくしていくかというのは、大きな課題になってくるかと思っております。
 あと、最後に、被災地の瓦れき撤去というのは恐らくこの夏ぐらいが目途で終わっていくと思っています。そして我々が支援している岩手県というのは、特に秋田県に次ぐ自殺率の高い県です。そういうところで避難所から仮設住宅に移って、周りの、近所の目がなくなっていくという、各家庭で孤立していくという環境を生み出さないためにも、私たちボランティアに何ができるのか、非常に難しい課題を私たちも考えております。どうやっていったらいいのかというのをみんなで議論をしながら考えていきたいと思っていますし、当然、地元のいろんな団体と連携をしていかなければならないというふうに考えております。
 そして、そういう課題というのは、例えば地域が見た目復興したから改善するということではなくて、被災された方一人一人の心の復興がなければ解決しない問題だと思っています。そういうところでは、本当に息の長い支援をどうやってつくり上げていくのか、途中でもう疲れてやめてしまわないように、私たちがどうその長期的な体制をつくっていくのかというのが大きな課題になっているというふうに思っております。
 大体、以上でございます。

    ⑧ 参考人への質疑

〇藤田委員長 ただいまのご意見を受けまして、委員の皆様方からのご質問を受けたいと思います。

〇三谷委員 2年半の長期の計画だというお話です。今のご説明の中でも、これからは心の復旧・復興、これが非常に大事な話になってくるということでした。恐らくボランティアセンターに来られてボランティアで現地に行かれる方の現地でのニーズが刻々と変わってくると思いますし、また変わらざるを得ないんだろうと思います。そういうところを、どう的確に把握して、また行かれるボランティアの方々もそういう心持ちで、今までのように、瓦れき撤去だとか、被災された家のお掃除だとか、そういう心づもりで行かれる方から、本当に心のケアだとか、これから次に変わってくるであろうそういう新しい被災地のニーズに、行かれるボランティアの方々の考え方だとか、またスキルも変わってくると思うんです。そこらへんのところはボランティアセンターとしてはどういうふうに対応されていくわけですか。

〇山本参考人 まず、そのニーズをどのように把握していくかというところでは、例えば保健師がいろんな避難所を回ったりされておりますし、そういうところの情報をどうやって我々も一緒に連携させていただくのかというところをぜひ考えていっていただきたいと現地のボランティアセンターの方にもお願いをして、一緒に相談をしております。
 それから、現地のボランティアセンターは社会福祉協議会も大きな役割を担っております。そういう意味では、地域の福祉的なニーズといったところに本業として取り組まれておりますので、そこからすくい上げてくるニーズというのは当然あるんだろうと思っております。
 それをこちらから行くボランティアの方にどう伝えるのかというところですけども、実は現在、ボラパックでやらせていただいているときにも必ずオリエンテーションを事前にやらせていただいたおります。現地は今こんな状況です、それからこんな活動をします、現地に必要な資機材、装備とかはこういうものですというのは、必ず全員それを受けていただいて現地に行っていただいております。
 そういう中で、ちょっと違和感がある方はもう行かないでくださいというぐらいまで強くお願いをしていますし、被災地、現地では、まだ大きな余震があれば津波が襲う地域で活動するということもありますので、そういう心づもり、地震があったら必ず高台に逃げてくださいといったことも案内をさせていただく。そういう事前のオリエンテーションの中で、ボランティアの方にはちゃんと意識づけをしていっていただこうというふうに考えています。
 ただ、今、ニーズをどう的確にとらえていくのかという面では、本当に難しいところで、報道でもよく流れておりますが、東北の方は、非常に我慢強い。我慢強過ぎて、自身がどれだけ大変でも、私のことはいいからあっちの人にというふうに譲られるんです。そう言って譲られて、それで、自分がどんどん取り残されていくというのがないようにという意味では、ともかく県外の我々が、山田町、山田町に限ったことではないんですけども、ずっといるということが一つは支援なのかなと思っています。具体的に何をするということではなくて、県外からともかく人が来てくれているんだ、そういう人たちに対して恥ずかしいまねができないと思っていただけるだけでも、十分一つの支援になっているとは思っています。余りずかずかとは人の心、家の中に踏み込むものでもないと思いますので、そのあたりの線引きというのは、本当に恐る恐るなんですけども、信頼関係をつくっていきながらやっていくんだろうと思っています。

〇三谷委員 今日、朝からいろんな団体の方ですとか機関の方に、お越しいただいて、それぞれ現地で実際に感じられたことだとか体験されたこと等のご報告をずっといただいてきたんです。その中で見えてきているのは、どうも日本の社会の一番悪い縦割りの壁というのがありまして、それぞれで一生懸命やっておられるんですが、そこでやられた貴重な経験だとか体験というものが共有されていないんです。恐らく、国がそれだけの縦割りの中できていますから、県においても縦割りの部分というのがあって、こういういろんなセクションから得られてきた情報というのがきちっと共有されて、それが一つの成果品となって出てくるということが大事だと思うんですが、そういうところでのボランティアセンターの役割というのはどこにあるのかと。全庁的な県の情報がきちっと1本にまとまって、それがまた各部局に発信されていくことによって体系だった支援というのができると思うんです。そういうときにボランティアセンターとしてどういうふうにされていくのかというのは、なかなか難しい課題ですけども、お考えがあれば教えていただきたいと思います。また今の県の体制の中で何か課題を感じておられるようでしたら教えていただきたいと思います。

〇山本参考人 縦割りというのはいたし方ない部分というのはあると思います。それぞれがもう全力を尽くす以上にはどうしようもないというぐらいひどい被害であるんですけども、一つは、先程もちょっと申し上げたんですけども、現場で情報交換できる場所、もっと具体的に言ってしまうと、事務作業をするスペースを近くに置いておくだけで随分違うという感じがします。なかなか別途会議を開いて情報交換しましょうといってもそんな暇がないんです。そのぐらい疲れているし、皆さん頑張ってらっしゃるので。仕事を隣でしていたら、そんなことがあるんやったらとその場で連携ができる。それは自然な形での連携というのが現場では可能になってくると思います。例えば個人情報の壁といいますけども、どこどこ地区でこういう問題があってという話をする中で、ちょっと行くんやけども、後ろを車でついてきてよという形で解決しているというお話も聞いたりします。
 それから、これは我々の関係している場所ではないんですけども、石巻市では、ボランティアの活動場所と、自衛隊の活動場所が本当に隣り合ってございます。そうすると、ボランティア活動をしている中で必要なガソリンの供給ですとか水の供給、配送、そういったものを実は自衛隊と連携しながらやっていたんです。これは協定を結んでいたわけではなくて、お隣にあって、車があいているから使わせてもらったりとか、その現場にいる自衛隊が、これは必要な業務だと思って、その場で判断して連携していただいた。それは見えたから判断していただけたのであって、見えないところで会議を別途開いて、「自衛隊さん、ボランティアで物資運んでくれませんか。」と言っても、きっと実現しなかったと思うんです。そういったところでは、現場でいかに連携するのかというのが一つの解答かなというふうに思っております。
 あともう一つ、これは今回は無理だと思っていますが、ぜひ次、もしあったときには取り組みたいと感じているのは、今回、三重県、行政は宮城県の支援。その行政の中でも保健・医療部門は岩手県の陸前高田市、それから我々ボランティア支援センターは山田町という形で、それぞれ支援する場所が違ってしまった。これが例えば同じ市町に行っていれば、行政では今こんなことをやっている、医療関係ではこんな動きがある、ボランティアはこんな動きをしているというのをこちらで連携できたと思うんです。これが違うところに行っていると、正直、全く話が合いません。全然状況が違いますので。そういった意味では非常にもったいなかった。そこをうまく同じ場所にできていれば、もう少しいい連携ができたんではないか。同じ課題を持たないと縦割りを超えた連携というのはできないと感じますので、同じ課題を持つために同じ場所を支援すべきだった。これは次の課題としてぜひ考えたいと思っています。

〇中村委員 まだ始まったばかりですけども、その2年半の中で次に来る山みたいなのを、心配されているというか、予想されているようなことがありましたらお聞かせください。

〇山本参考人 地元のボランティアセンターの方とお話しする中で出てきていたのは、先程の自殺の問題ですとか心のケアという問題です。山田町でいいますと、町の合同葬儀が来週ございます。それが一つ、心の山場になるのかならないのか。次の山場は恐らくお盆になってくるのかな。そのあたりで恐らく山場が来て、次のフェーズに移っていくのかなと思っています。
 ただ、これは現地の商工会の方とお話ししている中で聞いている話ですけども、津波で被災した地域にもう店舗や住宅を一たん建てないでいようということで、建築許可申請を出してもおりない。ということは事業が再開できない、収入の目途が立たないというすごい課題を感じていらっしゃいまして、我々ボランティアとしても、ボランティア活動というと一般に生活支援ということを皆さん感じられていると思うんですけども、このように仕事の場を奪われてしまったという災害に関していうと、仕事をいかに再開するかという方が実は住む場所よりも大事だという気がしています。
 これはちょっと話がずれてしまうかもしれないんですが、被災していない被災者の方がいらっしゃるんです。家はなくなっていない、家族も亡くなっていない。しかし、職場がなくなった、車が流された。そうすると、山奥の自宅が残っているので被災者の認定は受けないんです。家に被害が出てない、家族も被害が出てない。だから義援金がもらえない、支援金ももらえない。でも生活の糧がない。その方はこれからどうしたらいいんだろう。行政からは物資をいただけないんです。でも収入がないから、もう貯金を取り崩して、将来が見えない。それに対して現地のボランティアの方が支援をされたりしていますが、なかなか我々、そういうところに対してどういう支援をすべきか悩んでいます。ただ、支援は要るだろうと思っています。そういうところにどういう支援をすべきかというのは、これは地域、地元の行政の方の考えも踏まえながらになってくるんですけども、何かしらの支援をしていかなくちゃいけない。仕事を再開する支援ということも必要になってくるだろう。それが次のフェーズの、一般的なボランティアというイメージとは違うところで必要になる支援の活動ではないかと思っています。

〇中森委員 これ見せていただいて、資金調達についてご苦労されている中、いろいろと今、お見積を見せていただきまして、支出合計、2年半で9500万円というこの莫大な数字が上がっているんです。これを読むと、県に求めているのか、ほかのいろんな各団体、日本赤十字社であったり、社会福祉協議会であったり、いろんな関係団体があろうかと思うんですが、この捻出を、9500万円はすべて県に求めているのか、その点をちょっと教えてください。

〇山本参考人 すべて県に求めているわけではございません。先程も申し上げましたように、ボラパックの必要な経費の一部は本人負担もしていただいております。この中でも本人負担分はどこかにたしかうたわれているはずなんですけども。
 基本的には、本人にもご負担をいただく。それから、共同募金とか、いろんな助成金等もいただきたいと思っておりますし、お金ではなくて現物でいただけるようなものがあれば、ぜひ現物での支援もお願いしていこう。例えば、今回ボラパックを出させていただくに当たっては、第1便の出発のバス1台分については、地元の三重交通に、物として提供いただいたという形になっています。第1便から第6便までの自己負担以外の分については、日本財団の助成申請をさせていただいたりという形で、いろんな支援をいただきながらやっていきたいというふうに思っております。
 ただ、県の方でもそれぞれ考えていただいて、たくさんのご支援をいただいておりますが、先程のご質問の中であった全額を県にということではないということで考えております。

〇中森委員 協定書に三重県知事として協定の一員と、三重県もみえ災害ボランティア支援センターの一員ということで理解させていただいた中で、それぞれの各団体が資金繰りをいろいろと、今お聞きした捻出をされるんだろうと思います。三重県においては、必要な経費を支出する場合は一応予算化して、議会でも審議させていただき、認めていくことが手順になっています。またそのへん、本年度はいくら、どういうことで必要かというのもしっかりと県当局とご協議の上、私どもにも示していただいて、必要になる経費については、県議会の方で議論を深めていく必要はあるんではないかというふうに感じております。内容についても、出す限りは妥当な金額ということが必要ですので、また県と細かくご協議していただいて、私どもにお示しをしていただければと思います。

〇山本参考人 来年度もぜひ継続して活動していきたいと思っておりますので、そのときにはぜひ県にもいろんな支援をいただきたいと思っております。当然、議会の皆さんにもご議論をいただいた上で適正な資金の運営をしていきたいと思っております。ご協力、よろしくお願いします。

〇中西委員 ちょっと1点聞きたいんですけど、ほかの市町のボランティアセンターとの連携はどのようにしてみえるんですか。特別してないんでしょうか。

〇山本参考人 ほかの市町、県内の市町ということですか。

〇中西委員 そうです。

〇山本参考人 県内の市町で支援センターという形とか現地支援で立ち上がったところは、複数ございます。北から言いますと桑名市も上がっておりますし、それから津市はボランティア連絡協議会で動いていただいています。伊賀市、名張市も支援センターを立ち上げていただいたり、今度伊勢市も立ち上げようとしていらっしゃるというお話も聞きますし、松阪市も動いていらっしゃる。
 実はこれ、お恥ずかしい話なんですけども、我々も毎週ボラパックを出すという業務をする中で、大変メンバーは、多忙をきわめていて、連携したいと言いながら実際の連携の会議というのはまだできていません。ただ、やりたいということで声かけはさせていただいておりまして、そろそろ情報交換しましょうかという形で各センターの方とは話はしております。
 個別に実は各センターで活動している方がもともと顔見知りだったりするもんですから、正式な形での連携ということではなくて、その都度、電話で、今どんな状況だという話をさせていただいたり、こちらでこんなことがあるんだけども一緒にできませんかというようなお話をさせていただいたりというのは個別にはやっておるんですが、今のご質問でおっしゃっていただいた正式な形での連携というのは、これから具体的に始まるのかなというふうに考えております。

〇藤田委員長 ちょっと確認ですが、各地域のボランティアセンターですか、センターと今おっしゃったのは。

〇山本参考人 地域によって呼び方がいろいろ違うんですけど、同じように市町の支援センターという形で立ち上げていただいたところもあります。災害ボランティアセンターという名前で立ち上げていただく予定のところもあるようです。

〇藤田委員長 ほかにございませんか。中西委員、よろしいか。

〇中西委員 個人でやられてみえる方もあるし、勝手に自分で会の名前をつくられてやってみえる方もあるし、いろんなケースがあると思うんです。少しでも情報交換できるようになるべく早くやっていただいて、どういう地域がどういうことで困っている、どういうニーズがあるというのも含めて、それはやっていかなければならないと思います。
 結局、広い地域なんで、いろんなところでそれぞれのつながりがあるところへ行かれていると思うんです。ただ、現地はこうしてほしい、ああしてほしいってあるはずなんで、そのへん、密にやっていただくことを、誰かが旗を上げていただいてやらないとできないと思いますので、その点、お願いしたいと思います。

〇山本参考人 ご意見は重々、我々もしたいなと本当に思っております。
 ただ、先程のお話の中で、個々に動いてらっしゃる個人の方も当然いらっしゃいますし、企業の方でもボランティアとして企業ボランティアで動いてらっしゃる方もいらっしゃいます。そのときに我々が配慮をしているというか、第一義に感じているのは、支援に行く相手の方との連携がどうできているのかというのが一番大事であって、後方が連携するというのは2番目じゃないかと。
 ですから、個人で行かれる方、企業で行かれる方というのは、現地に既にパートナーがいらっしゃることが多いんです。そういう方を、いや、三重県は山田町にしたんだからそんなんだめよ、山田町に行きなさいというものでは決してない。既に顔の見える関係があるところに支援するというのが一番適切な支援ができますし、相談しながらできる、ボランティア活動として一番いい形だと思います。パートナーが現地にいらっしゃるところは、どんどんもう、被災地は広い中で、ばらばらにそれぞれ行っていただくのが一番いい支援になると考えています、我々は。その上で、パートナーは現地にいないんだけども何かしたいという方ついては、ぜひ山田町、一緒にどうですかというような案内を私たちの支援センターではさせていただこうという形で、一番いい支援ができる方法というのをみんなで模索していきたい。
 ただ、そのいい形を模索する中での後方での連携というのは当然必要になってくると考えておりますので、おっしゃっていただいた意見を参考にして、できるだけ早い段階で本当にやりたいと思っております。

〇藤田委員長 ほかになければ、これでボランティア分野の参考人からの聴き取り調査を終了いたします。参考人にはご苦労さまでございました。ありがとうございました。

    ⑨ 参考人の意見陳述(医療分野)

〇濵田参考人 ご紹介いただきました濵田でございます。私、この派遣チームを形成する責任者の一人として今日はお呼びをいただきました。派遣に至った経緯をかいつまんでご説明申し上げます。
 3月の11日に発災をいたしまして、我々医療人としてこれは何とかしないといけないという自然発生的な観念から起こってきたわけでありまして、3月15日に三重大学医学部の附属病院長の竹田教授、それから三重県医師会の加藤正彦会長、そして病院協会としては、私、理事長の濵田、それから三重県看護協会の水谷良子会長と、この4人が夕方の4時半に健康福祉部に集まりました。そこでどういうふうにしていくかということを打ち合わせまして、ともかく早い医療救護班の立ち上げ、出動をしていこうということで、お配りいただいておると思いますが、第1班から派遣チームを編成いたしました。
 当初、5班までは、三重大学が各診療科の講座がございまして、医師の数も、スタッフも多いということで、これが1チームを形成していただきました。残りは県の病院協会に所属しております各病院から手挙げをしていただいたということで、①からずっと書いてございますのが、2チームをきちっと形成したときの数でございます。当初は、医師1名、看護師1名、薬剤師1名、それから事務調整員として1名ということで、それを掛ける2で形成をいたしました。
 ただ、現地へ行くについてはどうするかということは、県の健康福祉部を窓口にしておりますので、岩手県庁と三重県庁のやりとりの中で場所を決めていただくということで、陸前高田市に決まったわけでございます。ただ、ここで申し上げておきたいのは、山田赤十字病院は日本全体の赤十字の団体として災害医療を主にやっていただいておりますので、単独のチーム形成ということで、当初はここから外れております。ずっと赤十字の名前が出てまいりませんが、継続して行っていただいておると。済生会もそういうチームで、要請があって出動したということであります。それが全国の済生会組織の枠から外れたときに三重県チームに加わっていただきましたので、非常に回数多くやっていただいております。そんなことで、2チームは完全に確保しつつ、切れ目なくやってきたというのが三重県の医療チームの特徴であります。
 当地へのアクセスですけども、ご承知のように、東北自動車道、それから東北新幹線は、全く使えませんでしたので、しばらくの間は各チーム独自に考えていただいてレンタカーで出動すると。そうしますと道路事情もよくなくて、大体片道十七、八時間、初めはかかっておりました。帰りもそのぐらいと。途中からは飛行機で秋田県に行ったり、岩手県に行ったり、いろんなことでアクセスするチームもありました。自動車道が復旧するとともに自動車でずっと速く行けるようになって、最終的には十三、四時間で行けるという時期になったんですが、新幹線が開通しましてからはこれの方がうんと楽だということで、もう今は全部新幹線で往復をしております。
 私も先日の日曜日に理事長として現地を視察してまいりまして、向こうの責任者であります県立高田病院の、陸前高田市にございますが、テレビでごらんのように4階建てが全部だめになったんですけども、屋上に避難して患者さんもスタッフもある部分は助かったと、そこへ行ってきました。石木先生という院長がございまして、もうそこの病院は使い物にならんので、我々三重県チームが医療活動の拠点にしておる、米崎というコミュニティーセンターがございまして、それは少し川の上流に行きますので、津波の被害を免れたところであります。そこに陸前高田市の高田病院が病院を移転しておるということで、助かった人たちが活動しております。そして、その周辺にも幾つかの避難所がありまして、そこに避難されている方の健康管理、診療、それもあわせてやっておるという状態です。当初よりもかなり物資の面で、あるいは水道、インフラストラクチャーが完備されましたので、例えばトイレの水洗がなかったというところも、そのコミュニティーセンターの診療所でもうちゃんとできております。
 そんなことで、特にウイークデーの月から金までは100人から120人ぐらいの患者さんが訪れるんですけども、私は日曜日に行ったもんですから30人から40人まででした。直近の日曜日の状況を申し上げますと、三重県チームは松阪中央総合病院といなべ総合病院という、くしくも厚生連の2病院が1チームずつ2チーム立てでやっておりまして、研修医を伴っていましたので、そのときは三重県からは医師が4人行っていました。それから、看護師、薬剤師、事務、それに加えて、当初は、3月から秋田大学、それから東京都の都立病院のチーム編成、いろんな人たちが陸前高田市に入っていただいて合同でやっておりましたけれども、三重県チームが継続してやっているということで、三重県が常にそのチームのディレクターを務めております。
 ただ、だんだんと外からのチームが先細りしてきまして、日曜日に参りますと、浜松市の労災病院の整形外科の先生がお一人、それから筑波の整形外科の先生がお一人、皆ボランティアで来られています。それから、アフリカで長いこと医療活動をされておったという女医さんが、その先生はJICAのメンバーですけども来ておられて、合計で日曜日には7名の医者がおったと。そうしますと患者の数に対してはちょっと多過ぎるぐらいで、あんまり忙しい状況ではなかったということであります。
 それから、物資ですけども、ともかく現地で調達はまかりならんし、物がないと。ですから、こちらはボランティアで行っているので、自分たちの寝泊まりから食べるもの、水まですべてを持っていくということで、各チームが携帯食から、いろんなものを搬入しつつ活動してきました。1チームの期間は、この表に書いてございますように、前後のアクセスの日にちを除きまして実質4日間向こうで医療活動をします。ですから、前と後ろに1日足して6日間ぐらいが出てから帰るまでの日数なんですけども、その人たちが消費する物資は全部持っていく。寝袋も持っていく。3月は非常に寒い時期でしたので、厚着が要る。できたごみはすべて持ち帰ると、そんな格好で、被災地はもう本当に大変なことですので、そういう心構えで行ったと。それから私は幾つかの団体で一括して、三重県が一つの、一丸となった行動をしようということを言いましたので、必ず帰ってきたら時間を置かずにレポートをしてくれと。どういう状況であった、何が足りなかった、医師の診療の内容としてはどういうことであった、いろんなことをレポートし、それは1チーム遅れぐらいで届きますけども、そういう格好でずっと繰り返してきましたので、回を追うごとにかなり動きやすくなりましたし、現地でも非常に喜んでいただいております。
 三重県チームが陸前高田市を拠点にした理由は、私もよくわかりませんけども、県と県との話し合いで、被災地全体が集まってこう決めてくれたんだと思います。
 それともう一つ申し上げたいのは、三重大学が非常に積極的に参画をしてくれておりましたけれども、少し落ちついてからは、国立の大学病院協会という団体がございまして、これがまた独自に行動しようということで、東海の何大学かが集まって、そこは宮城県に行ってほしいというふうに変わったもんですから、途中からはこの大学病院を除く県内の各病院から支援をしておると。だから現在もそれで続いております。
 医療の内容をいいますと、内科系の慢性疾患、心臓が悪い、糖尿だ、そういう慢性疾患、急を要するものはもうそこでは対応できませんので、近くの大船渡市でしたか、そこへ送ると。入院施設はございません。ですから急場の診療です。
 最初に困ったのはまず方言で、本人からの聞き取りが難しいということがありました。
 それから、もう一つは、すべて流されましたので、高田病院にかかっておられた患者の記録なんて一切残っておりません。ですから、お薬は何をもらっとったかということをまず確認した上で、もうみんなが持っていった寄せ集めのお薬から分類をして、そこから循環器だ、高血圧だ、糖尿病だということで振り分けるのに、これはもう薬剤師の仕事が非常に大事であるということも当初から言われておりました。今はもうお薬手帳もできたり、いろんなことで前歴が把握できるようになりましたので、あんまり渋滞はしないようです。
 ただ、あそこの地域も医薬分業をしておりまして、調剤薬局がたくさんあったようですが、全部まちにあったものは流されていますので、生き残った薬剤師に全部コミュニティーセンターに出動してもらって、そこでお薬を仕分けして渡すという格好をしております。
 受付、それから診察の場に直結するところでは、看護師と病院の薬剤師というのが必要であるということで、問診をしながらどういう薬が出とったということの判断は、調剤薬局の薬剤師よりもそちらの方が非常に活動の場が多いと、それがこの間の石木院長との話で私に伝わりました。
 最後に、石木先生のことをちょっとお話ししますと、先生ご自身も奥さんを亡くされたんです。被災されております。お嬢さんがおられて、この人は卒業後3年目ですけども、一緒に頑張っておられます。そんなことで、残された人たちが非常に一生懸命に、コミュニティーセンターで頑張っておられるということ。
 それから、地元の先生方は、看護師も、各被災地の救護施設に回っていって往診をしておると、そんなことがありまして、石木先生のお話ですと、7月1日から災害救助法によってやっておった医療が一たん中止になりまして、保険診療を開始するという話でした。ただ、そこで100%保険診療にできるかということは非常に問題があるので、それは県の担当者と詰めた上で、ある程度は両方混合的な考えでいきたいという話ではありました。厚生労働省がどう考えてくれるか、それはまた結果を見てということで、日曜日にお会いしてから2日、3日待ってもらったら、県を通じてまた連絡はさせていただきますというお話でした。
 それから、今後のこの救護班の派遣に関してですけども、時々岩手県庁からと、現場の県立高田病院側、つまり石木院長からとずれた話が伝わるんです。2チーム継続してほしい、いやいや、もう現地でしっかりと頑張っていくから1チームでいいとかありましたけども、石木先生自身にお聞きしますと、コミュニティーセンターはもう近々に引き揚げて県立高田病院としての外来診療施設を仮設でつくり上げますということでした。そこでは本来の残った職員が頑張ってやると。だけども、1チームは手伝っていただきたいということが一つありました。それから県立高田病院が管轄しております救護施設が三つぐらいあるんです。かなりの数がおられるんだそうですけども、1カ所は赤十字が責任を持って、ずっと継続して各赤十字病院から派遣されて行っているので、残りの2カ所は20人から30人の患者さんを1日診ていただかないかんので、それは一つの三重県からのチームとしてやっていただきたいと。つまり、仮設の高田病院の外来と、それからその2施設の救護施設を見ていただくと、この2チームをお願いできたらというお話を受けて日曜日に帰ってきました。恐らくそれでいくんだろうと思いますけども、保険診療云々に関しましては、行政との話し合いをもうちょっとしてからということでしたので、その返事を待っているという段階でございます。
 ご質問の内容の中に、我々三重県の病院協会がどういう関係でという、それも今説明させていただいた中で含めましたけども、医師会はJMATというのを日本医師会のチームとしてやっているんです。三重県の場合は、細切れでやるんじゃなくて、医師は全部一括して行こうという話を15日の話し合いで決めましたので、加藤医師会長も、ここから出ていくスタッフは医師会のメンバーであり病院協会のメンバーであるという格好でやっております。ですから、本来は医師会は開業の先生方が主たる構成員であるし、病院協会は勤務医の、病院の医師たちの集まりであると考えがちですけども、今回の医療救護に関してはもう合体して、この表を見ていただいてもわかりますように、自分の病院がお休みの日にはそこから出ていただくという、どこどこ医院という先生方も来てもらっています。三重県の場合はいつもこういう話をすると反対なくまとまるのが非常に大きな特徴でして、不協和音なしに十分にうまく作動しているんだと思っております。
 今後の課題ですけども、これは陸前高田市がどういうふうに要望されるかというのが逐次変わってまいりますので、それを受けながら、縮小するかどうするか。各病院もそんなに潤沢な医療スタッフがおりません。ですけども、困ったところには手助けをしようという、その理念が一貫してありますので、何カ月になろうが続けていきたいというふうに考えております。
 以上が、雑駁ですけど、ご説明をさせていただきます。

    ⑩ 参考人への質疑

〇藤田委員長 ただいまのご意見を受けまして、委員の皆様方からご質問をお願いしたいと思います。

〇小野委員 三重県方式は大変心強い、いい体制を先生のもと、皆さんのご協力でおつくりをいただいているのは、日本の国内でも珍しいというふうに伺って非常に心強く感じています。先生のお話の中で、今、チームがそれぞれ帰られてから報告書を出されると。それは先生の方へ届けられるんだと思うんですが、そのデータを、例えばその中には何が足りないと、現時点ではどういうもんですと動きが見えると思うんですけど、それは三重県の方へはご提供いただいて、具体論で例えば薬等の支援を三重県として考えましょうかというアプローチがあったかどうかという点。それから先程のお話の中にありました災害応援のところから診療報酬が保険に変わっていくと、これはもう国の、厚生労働省の業務の中でしっかり考えていかなければいけないようなことだと思うんですが、これを全体として、本来は三重県の健康福祉部あたりが、厚生労働省にもちゃんと話をしていくような問題だと思うんです。そこらへんは現場の県立高田病院の石木先生なんかのお話の中では、向こうの県の認識では、厚生労働省にもっと長く継続をするようなご認識をお持ちなのかどうか、先生おわかりであればお教えをいただきたいと思います。

〇濵田参考人 前段のご質問ですけども、これは病院協会には必ず届きます。それから、県にも同時に届いておりますので、県の担当の方は同じように認識をしていただいておりまして、現地からのニーズはいろいろとございましたけども、だんだんと緩和はされてきております。
 細かい話ですけども、例えば三重県チームという一つの衣装が欲しいとか、そんな意見もありました。我々の病院は、自分のところでDMATの準備をしていましたので、医師だとか病院の名前を張りつけるような、最初は厚着でないと寒かったんですが、今はもう半袖、ノースリーブに、そんな格好でした。しかしそれはにわかづくりですから県に要望したってまず難しいんだと思いますけども、いずれにしましても、ある程度シークレットの部分もあります。チームの名前、個人名が出ておったりしますので。県の方でもしよろしければ開示できる部分はしていただけると思いますので、ごらんいただきたいと思います。
 それから、後段の保険診療が7月1日からという、これはどこでどんなふうに決まっているのかわかりませんが、現場で石木院長がそうおっしゃったのでそうなっているんだと思うんです。しかしすべてを、本当に何もデータがない人までどうするかというようなことは大変難しいと思うので、先生ご自身も両方の格好でしばらくはいかないとと、ちらっと言っておられました。それは向こうの被災地の健康福祉部なり、それを受けて厚生労働省が考えることだと思っております。

〇小野委員 データの開示云々よりは、三重県の方がそのデータを見た段階で、逆に先生の方にこういう支援ができますよとアプローチはありましたか、県の行政から。

〇濵田参考人 申し遅れましたけども、県と契約を結びました。そうでないと身分の保障、それから途中で救護班の人間が例えば交通事故に遭ったとか、そんなことも大変です。だから、本来は県の保障は公務員に限るということになっておったんですが、今回は全く降ってわいたような大震災ですので、そんなことを言っていると病院協会としても出られるところと出られないところがありますから、一色でやってくださいというお願いを私からしまして、それはすべてが一律に県との契約を、協会が結んでおります。ですから、そういう身分保障なり財政的な保障もしていただいた上で出ておりますので、出ていく人間に対しては、私も一つの病院の院長としてそういう心配をかけないように出しております。それはそれで、三重県はうまくいっていると思います。後で払ってもらうときにどうなるか、それはわかりませんが。
 以上です。

〇小野委員 逆に行政側は、今の先生のお話を受けて、今回の補正予算に、それは盛ってあるんでしたか、そういう費用は。

〇中西特命監 先程、濵田理事長からお話しいただきましたけれども、向こうへ行って傷害等を負った場合の保険については、我々が責任を持って対応するということです。あと派遣の費用、旅費であるとか時間外であるとか、携行いただいた医薬品等については、細かいところまでなかなか決められないんですけども、県で負担するということで、補正予算の方も上げさせていただいているところです。
 以上です。

〇濱井委員 本当にいろんな活動に対して敬意を表します。
 先程のお話で、今後は救護施設と県立高田病院での活動になっていくということでございましたけども、この県立高田病院の外来施設はいつごろできる予定になっとるんでしょうか。

〇濵田参考人 正確に何日からというのは聞いておりませんが、仮設というのでそんなに立派なものじゃないんでしょうけど、レントゲン施設を入れたり、ある程度の医療機器を入れながらということで、当初は7月20日を過ぎてからと言っていましたが、もう少し早くなるような感触でした。

〇濱井委員 私、以前から気にはなっとったんですけども、先生のご説明の中にも、いわゆる入院施設がないと、設備がないといいますか、そういうことでございますけども、大船渡市まである程度距離があると思うんです。患者にとっては急を要するケースもあると思うんですけども、それで先生がお困りになったこともあるんじゃないかと、今後もあるんじゃないかと思うんです。この点についての改善というのは何か話し合われていらっしゃるんでしょうか、行政の方でも。

〇濵田参考人 私も現地での詳しいことはそんなに、たった1時間お話をさせていただいたり、それから出動してきたメンバーからの報告を見ているだけですので、詳しくは存じていません。とにかく病院をつくり直すということに大きな目的を持って動いておりまして、ただ、とりあえずはよそから手伝ってもらっているコミュニティーセンターでの仮の外来施設、それを早くに自分のところで持ちたいと。それから、あとは入院ということなんです。報告を見ていましても、たまに入院の患者を送るということがあったようですけど、もう今はないんですから仕方がないということで、受ける側と送る側が話し合いをしながら救急車で送っているんだと思うんです。だけども、全体として、住民の方たちはすべての面で3月11日の以前と以後とでは大きな違いになっていると思うので、それは早くに立ち上げたいという、これはもう石木先生の強い意思が感じられました。
 高田病院では4カ所で、診療が終わってから夜の7時から8時まで1時間、被災された、収容されている施設を訪れてミーティングをされたと、ごくごく直近に。そうすると、その声を反映しながら次の病院の再生に生かしていきたいという、そういう趣旨がありました。そうすると少なくとも前の高田病院以上のものをつくってほしいという、そういう住民の希望があったということも記録されておりました。それは誰でも考えることだと思います。

〇北川委員 時間が迫っておりますので、かいつまんで。本当にお疲れさまでございます。
 まず一つは、コミュニティーセンターで外来を受けていただいているということで、その地域の中では、当然そこまで来られない患者なり、避難所にいらっしゃる対象の方もいらっしゃると思うんです。そういうところはまた別の班の方が動いてられるのか、それとも出向いて行かれているのかということを教えていただきたい。それから二つ目には、枯れ木の撤去だとか、あるいは住宅の建設なり復興というのはある程度進んでいくと思うんですが、よく言われるように、医療の分野はそこに、勤務医にしても開業医にしても、張りついていただかないと最終的には手を離せない格好になります。そういう面で、病院長の方は可能な限り続けていきたいということで先程おっしゃっていただいたんですけれども、今はどれくらいの期間を長期的に続けなければいけないというふうにお考えをいただいているのか、またそれをするために県としてどういうサポートが必要なのか、そのあたりのご意見がありましたら聞かせてください。

〇濵田参考人 先程申しましたように、収容施設があって、そこのところには巡回診療という格好で、それは主に高田病院のスタッフがやってくれております。ですから、これからもまだまだ交通のアクセスが、川を越えてということになると、橋が流れたとかいろいろありまして、そこらへんのお助けをしていただきたいというのが、我々の1チームをそこに当てたいという、そういう考えでした。
 今後の見通しですけど、これは全くわかりませんし、私も現地に入ってびっくりしました。もう本当に風光明媚な山からずっと下っていって、きれいな、アユが7月1日から解禁するような川が流れておるんですが、突然に全く何にもなしになっております。陸前高田市内がどこからどこまでか私もわかりませんし、町の市街地がどんなんかわかりませんが、市街地は壊滅しています。いまだに地盤が沈下し、残った堤防を越えてきた海水が旧病院というか、病院の残骸の前にも水田のように広がっておりました。どんな復旧をするのか、どういうまちづくりをするのか、それはそこの県の考えだと思うんですけど、医療は人間がおる限り必要です。向こうの要請に応じて可能な限り三重県はチーム体制で進めていきたいと。もう今、三月たちましたので、あと三月ぐらいは要るのかもわかりませんし、ちょっとわかりません。

〇三谷委員 健康福祉部の方にお伺いしたいんです。今回、陸前高田市に決まっていった経緯、岩手県庁の方といろいろお話しされとるんだと思うんですが、先程ボランティアセンターの方からも、それぞれのセクションで支援に行く場所がみんな違っていて、これは少し問題があるんではないかというようなご指摘があったんです。岩手県庁の方とどういう経緯で話をされて陸前高田市に決まったのか、ちょっとその経緯を教えてください。

〇中西特命監 先程のご質問ですけれども、実は医療救護班の派遣の前に、厚生労働省の要請がございまして、少し前ですけれども、保健師班が先に決まっておりました。そこは厚生労働省からの要請を受けて岩手県で調整していただいた結果、陸前高田市になりました。そことの連携も踏まえまして、医療救護班も同じく保健師班が行く予定である陸前高田市で活動したらどうかということがございまして、三重県と岩手県で調整の上、陸前高田市で決まったというようなことになっております。

〇三谷委員 そうすると、最初に保健師の班がたまたま向こうとの話の中で陸前高田市になったんで、その後、こちらの医療救護班もそちらの方に決まっていったという、そういう流れですか。

〇中西特命監 決まってからということではなくて、そこで連携もとれるんじゃないかということで、岩手県と三重県の話し合いで決まったというようなことでございます。

〇三谷委員 最初、厚生労働省の方からの要請で岩手県との話をしたわけですか。三重県全体としては宮城県ですよね、どちらかというと。

〇中西特命監 当初、厚生労働省から指示があったときは要請は特になかったんですけれども、その後、厚生労働省からは岩手県に行ってくださいという話がございまして、その中で、具体的な場所は岩手県の方で調整いただいたということになっております。

〇藤田委員長 ちょっと確認ですが、厚生労働省から三重県へ話が来たというのは、保健師の件で来たのですか、それともそれ以前ですか。

〇中西特命監 私どもに話があったのは、当初、前回もお話しさせていただきましたけど、DMATというチームが出ておりまして、そのDMATを継続するような形で医療救護班も厚生労働省からお願いしたいと。そのときには、各被災県から要請があった場合は対応してやってほしいというような連絡がありました。そういう経緯もありまして決定をしましたけども、ほぼ同時ぐらいに厚生労働省からはそういう形で来ております。

〇藤田委員長 ちょっとわかりづらいんですが、DMATで岩手県に入ってくれと、こういう要請があったと。それに引き続いて保健師を岩手県へと、その関連の中で救護班も岩手県と、こういうふうに理解したらいいんでしょうか。

〇中西特命監 ちょっと説明がおかしかったもんですから。申し訳ございません。
 保健師班と先程のDMATは別で、DMATは先に要請なしに、要請なしにといいますか、厚生労働省の仲介で出ていますけども、その後で厚生労働省から、とにかく被災県から要請があった場合には応えてやってほしいという非常に概括的な要請がありました。それで先に濵田理事長初めお集まりいただいて、県で急遽集まって決定して、その後、岩手県と三重県で調整したと。少しややこしい話なんですけども、そういうような経緯になっております。

〇三谷委員 一回、時系列的にきちっとペーパーで出してもらえませんか。わかりにくい。

〇濵田参考人 DMATは、これはもう国のメンバーとして決まっていまして、DMATに参加している者は、県であれ単独の病院であれ、関係なしにダイレクトに連絡が入ってきます。だから準備ができているところはDMATで出動いたします。我々もDMATはつくっていますけども、出動までにもう準備にかかっておったと。最初に行ったのは山田赤十字病院なんですけど、それはもう被災のこと全体を見た上でのDMAT、その次に医療救護ということになって、DMATは活動できなかったんです、この大津波の地域に関しては。だから今度は医療ということになりまして、そうすると県が保健師の派遣、それから看護協会は日本看護協会として登録している看護師を派遣してほしいと。これは東京都に集めて振り分けているようでして、我々の病院も三重県からも別立てで出しました。ですから、それはそれと。それから保健師は保健師。だけども医療救護としてはチームを形成せないかんもんですから、先程申しましたような組み方をして継続していると、そういう流れです。だからDMATは直接県とは関係ないと思うんです。

〇藤田委員長 ほかになければ、これで医療分野の参考人からの聴き取り調査を終了いたします。参考人におかれましては、大変長時間ありがとうございました。ご苦労さまでございました。

 (2)執行部の聴取調査

    ①当局から資料に基づき説明(健康福祉部関係 井上所長)

〇井上所長 こころの健康センターの井上でございます。
 本日は、三重県の心のケアチームの活動について報告をさせていただきます。時間も限られていますので、早速始めさせていただきます。
 まず、心のケアチームとは何かということでございます。被災地での精神科医療を補ったり、被災者の心理的・精神的ケアを行うチームを意味しております。今回は、被災県から厚生労働省に要請があったということで、厚生労働省が派遣調整を行ったということでございます。私どもが行きました宮城県には、計30チームが派遣を行っている状況です。
 宮城県が提供しております各心のケアチームの活動状況でございます。自治体のチームが13都道府県入っておりまして、三重県は8番目に、3月23日より入って活動を行っております。ちなみに、三重県の心のケアチームのトップバッターとして、私どもこころの健康センターが参りました。3月23日からになったのは、3月20日に私どもが主催した自殺対策のシンポジウムがありまして、それが終わりまして3月22日に出発したためでございます。
 派遣に至りました経緯でございます。災害対策基本法第30条に基づきまして、県からの応援派遣のあっせんの要請を受けました厚生労働大臣から、派遣ができるかどうかという照会確認がありました。それが3月13日で、3月15日に三重県として、3月中の派遣、1チーム、こころの健康センターとこころの医療センターができるということで回答いたしました。
 3月17日に、続いて4月以降の派遣が可能かどうかという照会がありました。私どもは3月22日から派遣可能だということで回答を待っておったんですけれども、3月18日に宮城県知事より派遣依頼ということで、このとき宮城県に行くということが決まりました。
 スライドに示しますように、1チームの派遣期間というのは、現地での活動期間は2日から5日なんですけれども、多くのチームが4日から5日間支援を行っております。派遣先は、当初東松島市と言われておったんですけれども、現地宮城県に参ったときに、石巻市の方が被害が大きいということで、石巻市に行くことになりました。
 チームの構成員は、精神科の医師、保健師または看護師、そして臨床心理士、作業療法士、精神保健福祉士などの多職種のチーム。そして交通機関もありませんので、現地への運転、それから現地での調整など事務職から成るチームということでございます。
 これは三重県の健康福祉部が作成しました心のケアチームの派遣日程表でございます。第10班、少し文字は見えにくいんですけれども、ゴールデンウイークの前までは、チーム編成が可能な限りは現地で引き継いで、チーム間で情報を共有するように努めておりました。ゴールデンウイーク中は、現地からの要請で派遣を休止いたしました。また、ゴールデンウイーク後は、現地での支援活動は平日に行いまして、チーム間での引き継ぎ、そして情報共有は三重県庁で行うということで対応しました。第15班、最後のところですけれども、6月から三重県の派遣を辞退するという連絡が宮城県からありましたので、5月31日、この班は2日間の活動で中断しております。これは、現地石巻市での精神科の医療機関の機能が回復してきたということを受けているというふうに言われています。
 ここに示しておりますように、活動を振り返りまして、我々に求められている機能というのが、状況は日々刻々と変わってきますので、大きく三つの期間に分けました。
 まず、発災後おおむね1カ月までの間を第1期としまして、避難所を訪問して健康状態を把握して、不調者がいれば対応するということが主な求められる機能でした。
 次に、発災後約1カ月以降の4月を第2期というふうに考えました。派遣されている各チームがあるんですけれども、担当エリア制ということにいたしまして、避難所から徐々に地域に戻っていった人への家庭訪問等を回復して、家庭とかでの支援を行う機能ということが求められました。
 5月、ゴールデンウイーク後を第3期というふうに考えました。避難所とか家庭で継続的な支援を必要とする人々を復興しつつある地域の精神科医療につなぐという役割が求められたというふうに考えました。
 このように、心のケアチームといたしましては、14チーム編成しまして64名が支援に赴きました。ここに示していますように、県立病院、大学病院、そして多くの民間病院。特に民間病院におきましては、医師が四、五名しかいないところから1名出していただいたりということで、行った方以外にも、いろいろと派遣とか、勤務の調整とか、その間の代替勤務を行われたりという多くの方のご協力があってということで考えております。
 次に、派遣先の石巻市の状況、そして現地での活動、それから見えてきた課題ということを説明いたします。
 3月23日に宮城県庁に参りましたときに石巻市について受けた説明でございます。平成17年に合併しまして、人口16万人、仙台市に次ぐ第2の都市ということで言われました。被害が甚大で、救助が遅れていると。断水、停電している地区も多いということ。その時点で避難所が約200カ所あるということを聞きました。調べてみますと、最大11万人が避難した、そして避難所の数も最大250カ所あったということでございます。また、石巻市の市役所も保健所も機能していないと、市内の精神科医療機関も被害が大きいという内容の説明を受けました。私どもが聞いた情報では、石巻保健所も津波によって数日間孤立状態でなかなか初動体制がとれなかったとか、今でも仮設の保健所で業務を行っているという話も聞いております。
 旧の石巻市と周辺6町が合併して、石巻市という形になっております。右側の白いところ、女川町というところは、女川原発があるところでございます。
 石巻市へのケアチームの派遣状況ですけれども、10チームが行っておりまして、4番目に支援を開始したということでございます。
 石巻市内には三つの精神科の病院、それから精神科のクリニックが3施設ございます。情報を合わせますと、私たちが支援に入ったときには、孤立状態から脱して診療を再開した病院、クリニックというのもありましたけれども、津波の被害を受けまして、八十数名の患者を転院のため搬送が必要な病院というのもあったというふうに聞いております。
 それを地図であらわしたのがこれで、少し見えにくいんですけども、沿岸に近い病院というのは津波の被害が大きくて、現在は閉院して関連病院で外来を再開しているということでございます。クリニックは3施設あるんですけれども、いずれも石巻駅というところの北側に割と近い範囲で集中している状況でございます。
 石巻市役所の指示を受けて活動することになるんですけども、この石巻市役所というのは、JR石巻駅前の百貨店が入っていたビルに平成22年に移転したということでして、津波で1階部分が浸水を受けたと聞いております。
 これは皆様のお手元にはお示ししていないんですけれども、石巻市のホームページに掲載されていた写真を、昨日、石巻市からの許可を得まして急遽作成いたしました。市庁舎の上から写したものですけれども、ちょうど浸水している状況、市庁舎の周りは水没している、市の中心部も浸水している、駅のところ、JRの電車が見えますけども、それも浸水している状況ということ。下の2枚は、旧の北上川の河口付近、中瀬地区の様子ですけれども、右側が津波で大きな、いろいろな建物が流されている状況だということがおわかりいただけると思います。
 日和山、菅首相も訪問されたところですけども、沿岸の南浜町というところの前後の様子、それから真ん中は、小さくて見えにくいんですけども、津波が押し寄せている様子の写真です。また、下のところは沿岸に近いところの市立病院、それから文化センターの浸水している様子がおわかりいただけると思います。
 新しい北上川の河口付近の市役所の支所、きれいな建物ですけれども、これも大きな影響を受けている。それから、下の雄勝町とか牡鹿町の様子でもおわかりいただけますように、津波の影響を受けていると。牡鹿町は半島の方なんですけども、いまだ人口の16%、720名の方が避難所生活を送られているということを聞いております。
 心のケアチームはどういう役割が求められているかということですけれども、まずは、今、通院、医療を受けてらっしゃる精神疾患の方が治療を継続して行えるようにするということが、求められている機能の大きな一つ目になります。それから、災害、震災によって新たに生じた精神症状、ストレスへの反応などの対処が求められる二つ目の機能。そして三つ目として、支援をしている方、避難所を運営していたりとか、警察、自衛官、消防隊員などの支援者へのケアということが求められている内容でございます。
 本来ですと、心のケアチームというのは保健所もかかわることが多いんですけれども、先程述べましたように、影響が大きくて、市の保健師の直接的な指示のもとに活動を開始しました。また、情報共有のために、赤十字病院で行われるミーティング、これは後には市役所で開かれるミーティングに参加いたしました。
 ミーティングの様子ですけれども、朝と夕方に集まりまして、その日の行動の共有、それから支援の結果を報告し合って情報を共有したということでございます。
 第1期、第2期、第3期ということで、分けて活動内容をお示しいたします。
 発災後約1カ月の間ですけれども、なかなか保健の、健康状態の把握とかができていなかったということがありまして、三重県チームは特に中心部の避難所約10カ所を巡回して、避難されている方々に声かけをしながら心身の健康状態を確認したり、必要な方へはその場で医師が投薬を行ったりということもありました。そして他の医療班から引き継いだケース、救護所から依頼のあったケースなどの面接も行いました。チームによっては、もともと精神疾患があった方で精神症状が悪くなった方を、市や保健所と協力して精神科病院に入院をお願いしたというケースもありました。
 認知症高齢者の方、特に状況が変わって急激な環境変化についていけずに混乱状態を示す方も多く見られたというふうに聞いております。
 これは門脇中学校というところで、体育館以外にも武道場、教室を含めて1000人近くの方が避難されていました。ここではそうではなかったんですけども、避難所によっては土足のままであったりとか、簡易トイレが不衛生であったりとかいうところもあったと聞いております。
 グループホームが被災したため、約30名の施設利用者が専修大学の教室に避難していました。ちょうど避難から2週間ぐらいたった時点ですけれども、約半数の方は体を悪くされて入院したというふうに、ですからこの時点では15名の方しか残っていらっしゃいませんでした。
 次に、第2期です。石巻市に派遣されているチーム間でエリア担当制となって、自宅に戻っていった方の家庭訪問を開始しました。また、学校が再開されるに当たって、生徒にどういうふうに対応したらいいんだろうとかいうことで不安を持ってらっしゃる教師の方への心理教育を要請されて行ったり、学校の避難所が閉鎖されたということもありまして、家庭訪問への比重が高まっていった時期でございます。
 ただし、訪問した家庭とか避難所に昼間ですと対象の方がいないとかいう経験もあったりしましたし、生活改善状況に格差があって不満のもとになっているということもあったというふうに聞いております。
 三重県の担当したエリアですけれども、割と市内から近い稲生、鹿妻、渡波地区というところのエリアでした。左上の方に宿泊地というのが書いてありますけれども、15分ぐらいで最初は行けたみたいですけれども、交通量がふえたということもありまして、約1時間かかって市役所まで行って、ミーティングをして現地へ行くというふうになったと聞いています。
 ゴールデンウイーク後の5月を第3期としました。巡回、家庭訪問を継続しながら、地元の医療機関が復興してきたりとか、バスなどを利用している方、そういう地元の医療機関につなげるという働きかけをしました。ただ、交通事情が悪いという方には、継続した投薬を巡回チームが行いました。地元消防署員などの、支援者へのケアというのも本格化してきたというふうに聞いております。
 震災後約2カ月の時点ですけれども、依然、割と市内の近いところですけども、瓦れきが撤収されていないところが見えております。
 市役所で行われておりました心のケアチームのミーティングの様子です。各チームが今日の担当業務、特にこの人を訪問してほしいとかいう、市の保健師からの業務を待っているところでございます。
 三重県庁の派遣に関する役割分担、そして心のケアチームとの連携について説明申し上げます。
 まず、健康づくり室は、厚生労働省や宮城県庁との連絡調整を行いました。障害福祉室は、派遣に協力してくださった県内の精神科の医療機関との連絡調整を行いました。健康福祉総務室は、宿泊所の手配、支援チームが現地で円滑に業務を行えるようなパソコン、プリンターなどを含めた物品の調達などを行いました。また、現地の支援チーム、三重県、それから県内の関係医療機関などとの情報共有のために、三重大学の教授の発案で三重県心のケアチームのメーリングリストというのを作成しまして利用しました。5月31日までに計159メールを共有できたというふうに聞いております。
 2カ月半の支援活動を行って見えた課題を数点提示いたします。
 もともと通院していらっしゃる精神疾患の患者、それからてんかんの患者など、継続的な服薬が必要な方が中断して精神症状が悪くなったりとか、発作が起こったりとかいうことがないように、いざというときにいろいろな機関と協力し合えるような関係をつくっておくということが必要だというふうに考えます。
 継続的な医療が必要な方に対しては、継続してかかわることのできる地元の医療機関に受診を移行していくことが求められていますけれども、交通機関の復旧の状況、それから診療を再開できない医療機関などもあって、どうかかわっていくのかということを整理していく必要があると思います。
 それから、震災ストレスといいますとPTSDとかが大きく取り上げられるんですけれども、トラウマによるストレス反応というのは、体験後すごく強いと言われていても1カ月後には約80%の方がそういうトラウマの症状はおさまっていくというふうに言われています。けれども、残された方、心的外傷後ストレス反応に移行した方には、継続的なかかわり、ケアが必要になってくるという面から考えますと、復旧しつつあるような地元の精神保健の活動、心理的ケアを提供できる方たちが担っていくことが必要だというふうに考えております。
 最後になりますけれども、三重県が心のケアチームを他県に派遣するというのは今回が初めてのことでありまして、物品の準備など十分できていなかったということもありました。今回の経験を次回必要な際には生かしたいということ、それから本県が被災した際には他府県からのチームを受け入れることもあると思いますので、そういう体制を整備しておくということが必要だというふうに考えております。
 私からの報告は以上です。

    ②質問

〇藤田委員長 ただいまの説明に対してご質疑がありましたらお願いをいたします。

〇北川委員 6月で派遣については中止の要望が宮城県からということで、ただ、ずっと話を聞かせていただいている被害状況を考えると、現地での医療スタッフの充実だとか回復度合いというのは、急に回復するレベルのようにちょっと感じ取れなかったんです。そのあたりは、本当にもう自前で、地域でカバーできるというレベルまで回復されている状況を確認されたんでしょうか。

〇服部室長 全体の派遣調整は健康づくり室の方でしておりますので、宮城県からの情報についてお伝えをさせていただきたいと思います。
 ずっと派遣する予定で、6月も私ども、予定は組んでおったんですけれど、5月26日に宮城県から、精神医療機関が復旧しつつある、もう医療の部分については必要が少なくなってきとるんではないかということで、ともかく自立を図りたいと、そういうお話がございました。精神ケアの中では、地元の医療機関で診るということが最善ということもありまして、そういうお話がありました。三重県からの心のケアチームの派遣は辞退するということがありまして、そのときに県内で他の場所に行く必要などもお尋ねしたんですが、現時点では不明と。そういうことで、宮城県のお話を厚生労働省の方にもさせていただきましたところ、今後の派遣については、厚生労働省の方で必要があれば要請をするということで、それ以降は今のところ厚生労働省から要請がございませんので中断しておると、今、そういう状態でございます。

〇北川委員 先程、濵田病院長からも聞かせてもらっている話の中で、県の話と、それから現地の話との食い違いというのがあったもんですから、ちょっと確認をさせてもらったんです。その現地で、別にこだわるわけじゃないんですが、まだまだケアが他のスタッフで必要だなというレベルは特にはお感じにはなりませんでしたか。

〇服部室長 その部分について、災害対策基本法による派遣というのは、現地の指揮のもとに動くということで、当然、宮城県の方は石巻市の状況、県全体の状況も見きわめながら判断しておるということでございます。私どもに直接的にどこの病院がどう回復してという情報まではいただいておりませんけれど、私どもとしては要請があって行っておる部分でございます。そういう中で、宮城県の言うように、ある程度の回復はされとるんやというふうな認識は持っておりますが、直接的な具体的な話としては聞いておりません。

〇杉本委員 ストレスなんですけども、避難所生活によるストレスであるとか、そういうストレス状態がずっと続く中でのトラブル、事件性のあるものも含めて、そういうことによるケアの必要性であるとか、それから子どもに対するケアの必要性であるとか。私は、国がもうそこを打ち切ったと言われたけれども、現地に入られて、まだまだそういう部分で災害救助法によらないところのケアが必要な部分を、現地に行かれて感じ取られたことはありませんでしたか。

〇井上所長 子どもの部分といいますのは、現地では十分にあると思います。今でもあると思います。ただ、我々外から行く支援者は、1回話をして、次の保証ができないわけです。安心感、安全を与え続けるというのが大切だと思いますので、保証できないのにするというのは無責任といいますか、逆に負に作用することもあり得るということを我々行く側は認識しておく必要があるというのは感じております。
 あと、避難所でのトラブルです。長期にわたる避難生活、それからプライバシーがないとか、公平・不公平感があったりとか、格差があったりとかいうことに関しましては、心のケアでできる面とできない、カバーし切れない面というのがあると思うんです。話をしたりとか、薬を出したりとかいうことでは改善し切れないところの限界点も認識しておく必要はあると思います。

〇杉本委員 そのとおりだと思いますが、本当にお声を聞いて接していただいて、心に接していただいた、現場に行った方だからこそわかるこんな支援が必要というのもあるかと思います。ぜひまたそんなところは発信していただきますようにお願いをさせていただきます。本当にご苦労さまでした。

〇日沖委員 学校でのスクールカウンセラーの支援の役割の部分と、そしてこの心のケアの役割の部分と、もちろん医療としての専門分野であるのでそれはわかるんですけれども、お互いに、スクールカウンセラーや、臨床心理士のお仕事も、心のケアをしながら通常の、もとの生活を取り戻していくというケアをしていくお仕事であるわけです。この心のケアチームの内容をお聞かせいただいていましても、学校が始まれば学校へ出向いたり、教職員らの心理状態をケアするということも入っとったりします。大変連携というものが必要なのかなというふうに思わせていただくんですけど、スクールカウンセラーのところで医療的に連携で送るとか、そういう連携というのが必要なんじゃないかなというふうに感じさせてもらったんです。現場では実際にそういうところはどうとらえていただいて、現場でもしそんなところが反映されとるようなところがあれば教えてもほしいんです。どんなもんですか、そういう部分については。

〇井上所長 確かに要請されて我々が行って話をしたりとかいうのはありましたけども、スクールカウンセラーの方とお互いのできる部分、できない部分をカバーし合うといいますか、そういう体制が今回の派遣で十分にできていたかどうかというところについては、連携しているところもあれば十分連携できなかった部分というのもあると思います。今後、今回の派遣で得た課題として、さらにできるような体制づくり、ふだんからの連携づくりというのを折々進めていくのが必要かなというふうに感じております。

〇日沖委員 今のお話で、現場で必要性を実感していただいたというふうに受け止めさせていただきます。例えば極端な話ですけども、そうすると三重県同士で一緒に派遣いただいておれば、よりやりやすいとか、そういうこともありますね。極端な話ですけども、例えば。

〇服部室長 委員のおっしゃる部分ももっともかと思います。実は、例えば医療班は陸前高田市、保健師も同じく陸前高田市ということの中で、例えば心のケアなどですと、保健師と一緒に活動すると効果が出てくるような部分もございます。そういうような部分も含めて、今後の反省の中で厚生労働省とも話をしながら、そういうあり方も検討していくべきではないかと私どもも思っております。
 以上でございます。

〇藤田委員長 最後に1点だけお聞かせ願いたいんです。朝夕のミーティングをやられたということですが、これはどんなメンバーでやられていたのか。

〇井上所長 私どもが行きましたときは、石巻赤十字病院で行いました。実を申しますと、石巻管内というところには、石巻市、東松島市、それから女川町というのがあるんですけれども、石巻市と東松島市に派遣されているチームと、赤十字病院の心のケアチームのマネジャーと、チーム同士が集まってお互いの情報を確認したりとか、今日はどこどこへ行ってくださいとか、避難所から特にこの人は診察してくださいとかいう情報がありまして、それを話し合いました。帰ってきてから、薬を出す必要がある人がいたとか、医療へつなげる、入院をさせる必要がある人がいたとかいうことを情報共有しまして、市の保健師にもその内容を伝えて、翌日以降に生かすということをしておりました。

〇藤田委員長 ほかにございますか。
 なければ、これで健康福祉部関係の調査を終了いたします。当局にはご苦労さまでございました。

    ③当局から説明(防災危機管理部関係 山内推進監、河村主査)

〇山内推進監 防災危機管理部東日本大震災支援プロジェクトの山内と申します。よろしくお願いいたします。
 現地支援調整要員からの報告をお聞きいただく前に、この現地支援調整要員というものにつきまして、少し説明をさせていただきたいと思います。
 この現地支援調整要員は、宮城県の災害対策本部の情報を得るために、3月22日から宮城県庁に派遣をしております。現在、第20班目が活動中でございます。
 ここで、なぜ宮城県かと申しますと、発生直後に全国知事会によりまして物資及び人的支援の割り当て調整が行われ、その結果、三重県は宮城県を支援することとなったことから、以後、防災危機管理部に関する支援は宮城県を基本としているところでございます。
 現地支援調整要員は、ごらんのとおり三重県の防災服を着用して、宮城県庁の18階に臨時的に設けられました連絡員室、こちらの方に詰めております。そして公用車も1台現地の方に持っていっておりまして、現地の調査等々に使っております。連絡員室には、現在、山形県、群馬県、神奈川県、愛知県、三重県、兵庫県、岡山県、鳥取県、徳島県、愛媛県、そして熊本県、この11県が詰めております。
 現地支援調整要員の主なミッションといたしましては、宮城県の災害対策本部会議の傍聴を通じての情報収集、連絡員会議への出席や他府県職員との交流を通じての情報収集、被災役所や避難所を訪問しての支援ニーズの把握、本県あるいは市町から派遣されている職員の後方支援、県庁各部局からの要請に基づきます現地調査、被災地を訪れます職員等の現地活動の支援、そして調整要員みずからの業務に生かすための現地調査など、多岐にわたっております。
 ご記憶に新しいかと思いますが、6月の7、8両日に本県の県民ホールで行われまして非常に好評でございました「がんばろう宮城復興応援フェア」も、実はこの防災服を着て宮城県庁へ詰めていた現地支援調整要員に宮城県庁の職員から声がかかり、そして実現したと、こういった逸話も残っております。
 話は少し脱線をいたしましたが、発災直後の緊急対応のための災害対策本部からの情報が徐々に少なくなってきている反面、派遣されている市、町、あるいは県の職員の後方支援等のニーズが徐々にふえてまいっております。ミッションも被災直後とは少し内容が変わってきたということでございます。
 今後、復興支援のための長期の職員派遣や避難所の統廃合、支援の内容も刻々と変化してくるものと思われますが、この変化に対応すべく、現地支援調整要員の縮小、引き揚げ等々も視野に入れながら、今後とも情報収集活動、各種支援活動を続けてまいりたいと思っております。
 先程も申しました通り、現地支援調整要員にはいろいろのミッションがあるわけでございます。今後の県政に生かすために担当者みずからのミッションをもって活動してきました地震対策室の河村主査から活動の報告をいたしますので、よろしくお願いいたします。

〇河村主査 現地支援調整要員として宮城県に派遣されておりました防災危機管理部地震対策室の河村と申します。現地で行ってきた活動の内容と、その感想についてご報告させていただきます。
 私は、この現地支援調整要員の第15班として、今から約1カ月前の5月24日から29日までの6日間、宮城県に派遣されておりました。第15班は、私と桑名県民センター職員、津県民センター職員の3名体制で活動してまいりました。震災発生直後は1班4名体制、現在は1班2名の体制で対応しているところです。私たちの前の班の第14班までは、防災危機管理部職員を中心とした本庁の職員のみで現地支援調整要員として派遣されてきておりましたが、私たちの第15班からは、本庁職員と県民センター職員を組み合わせた形での派遣が始まったというタイミングでした。この本庁職員と県民センター職員という組み合わせの派遣パターンは、現在も継続中であります。
 それでは、私たち第15班が対応した業務の内容についてご説明いたします。
 先程、山内推進監の説明にもありましたとおり、現地支援調整要員の主要な業務の一つは、宮城県災害対策本部員会議に出席し、情報収集を行うことです。この本部員会議、震災発生直後は毎日開催されておりましたが、私たちが派遣されていた5月末の時点では週2回、現在は週1回の頻度で開催されております。開催頻度が少なくなった理由といたしましては、応急的な対応が一段落して、復興に向けたルーチン的な業務に移行してきているためということです。
 私たちが出席した5月26日開催の本部員会議では、本部長である村井宮城県知事以下、庁内の部長級から成る本部員全員と、国の現地対策本部長である東内閣府副大臣、その他国の関係機関、報道機関等が出席し、それぞれの部局から報告がございました。報告の中で、会議翌日に、震災以来初めて仙台港に外国船が入港するという情報や、仙台空港で増便が決まったと、あるいはグループホーム型の福祉型仮設住宅の建設など、復興が進みつつあることを感じさせるさまざまな情報が提供されました。
 ここで私が特に印象に残ったのは、この会議の中で、村井知事から報道機関に対して、当時、宮城県が実施した放射線量の調査結果について説明がありまして、異常なしという結果だったんです。この異常なしという結果はニュースバリューとしてはすごく低いものかもしれないけれども、県民の安心情報のためにも積極的に報道してほしいというお願いがありました。その結果、当日のニュースや翌日の新聞を見てみますと、宮城県による放射線量調査の結果、異常なしという報道が大々的になされておりました。行政と報道との連携によって住民に安心情報が提供されたという、住民の気持ちを一番に考えたこういう情報の連携については非常にすばらしいことでありますし、三重県にとっても参考になる対応であるというふうに感じました。
 次に、現地での活動で最初に行った業務です。5月25日に議会事務局の現地業務の支援とあわせまして、三重県職員が派遣されております塩竈市役所に赴きまして、現地に派遣されている職員との意見交換を行いました。そこでは、派遣されている職員が十分に活躍できる環境を整えるために、健康状態や作業環境について聞き取りを行いました。聞き取りの時点では班が交代したばかりということもあって、体調不良等を訴える職員もなく、業務についても塩竈市の職員に丁寧に教えてもらっているとのことで、与えられた業務を順調にこなしているということでした。
 私も震災発生から3週間後の3月末から4月初めにかけまして、まさにその塩竈市への支援の第1班として派遣されていたんですが、当時は新幹線もまだ復旧作業中で、車で12時間近くかけて移動したり、食事も賞味期限切れのパンを食べたりとか、ホテルもおふろやシャワーが使えないという状況で活動していたのに比べると、復興が進んでくるに従って支援の職員の環境も徐々に改善されてきているということを感じました。
 また、5月27日には、三重県から多賀城市への派遣の第1班として、三重県内の市町職員、県職員が20名派遣されております多賀城市内の3カ所の避難所を訪れ、塩竈市同様、職員との意見交換を行いました。同じ市内にある避難所でも、その規模や運営方法、あるいはまた支援の内容が異なっており、派遣職員の負担もそれぞれの避難所によって大きく異なっているということがわかりました。
 受け入れ側の自治体はさまざまな業務に忙殺されていて、受け入れ側として調整がなかなか十分ではないということもあって、派遣された職員の皆さんは業務の詳細が明らかになっていない状態で現地に派遣されたということで、最初はとまどったというお話も聞きました。しかし、避難所内でみずから仕事を見つけて積極的に運営業務にかかわってもらっていると避難所の職員からお褒めの言葉をいただきまして、同じ三重県の行政職員として大変誇りに思いました。
 ここでの聞き取り結果から、派遣職員に対して詳細な業務説明というのを事前に、多賀城市に来る前に行うことと、あと派遣先市町との綿密な事前調整の必要性について、今後の課題として本庁に報告して、この点については、もう現在は改善されているところです。
 それ以外には、被災地の避難所へ花を送る支援についてのニーズを把握してほしいという要請が本庁からありまして、宮城県庁担当部局から話を聞くとともに、宮城県庁に駐在している他県の担当者からも情報を求め、実際に避難所にも直接出向いて情報収集に努めました。
 このように、三重県庁各部局からの要請に応じて情報を収集して提供することで、各部局がその情報に基づいてより効果的な支援や対策の検討を行うことが可能になります。こういった意味からも、この現地支援調整要員というものは大変重要な役割を担っていると感じました。
 また、先程述べました宮城県庁に駐在している各県との情報交換は、大変有効に機能しておりました。毎朝9時から定例で行う朝会という場がありまして、ここでは各県が得た被災地の情報やどのような支援を行っているかについて情報交換を行うことで、三重県が単独で活動している場合の恐らく何倍もの情報を得ることが可能になっていたと思います。各県が連携することによるスケールメリットというか、相乗効果というのを実感しました。
 また、これらの業務の合間を利用しまして、被災地の現地調査も行ってまいりました。私たちの班では、先程述べました塩竈市、多賀城市以外では、仙台市、岩沼市、気仙沼市、栗原市、大崎市、女川町を訪れました。私がここで説明するまでもなく、被災地は大変すさまじい状況でありました。この光景を目の当たりにして、実際に行った職員は、今後の被災地の復興とその支援について、あるいはこの状況を三重県に置きかえたときにどのように立ち向かっていくべきかということをそれぞれ強く感じたのじゃないかと思います。
 巨大地震による災害を経験したことがない三重県職員にとって、被災地への派遣というのは大変貴重な経験になると思っています。現地の行政機関等がどのような対応を行っているのか、あるいは実際の被災地の状況はどうなっているのか、それは今後対策を進めていく上でも、支援を受ける側になった場合でも、必ずこの経験は役に立つというふうに考えております。
 地震対策等の計画は、例えばその被害状況の数値的な側面だけに気をとられてしまいますと、ともすれば机上の空論に陥ってしまう可能性があると思います。しかし、実際に被災地で支援を行った職員がそこで得た情報や経験をもとに計画の策定に参画することによって、実効的な計画が実現できるのではないかと考えています。現在、9月の公表を目指して作業を進めています緊急地震対策行動計画も、まさにこういったやり方で、策定作業を進めているところです。
 この現地支援調整要員は、当然、現地の支援が第一の目的の枠組みですが、これまで説明しましたように、三重県にとっても有効であるとともに、職員の人材育成という観点からもその効果は高いと思っております。今後もこのような形での支援を続けていくことは、被災された皆さんにとっても、三重県にとっても重要な価値のあることであると感じています。
 ただ、同時に、この点につきましては課題でもありまして、先程、山内推進監からも説明がありましたとおり、今後の状況の変化に対応して、どのような体制で、どのような時期までこの現地支援調整要員の活動を行っていくのかということについては、今後検討していく必要があるというふうに感じております。
 以上で、現地支援調整要員の活動内容と感想についてのご報告を終わらせていただきます。

    ④質問

〇藤田委員長 ただいまの説明に対してご質疑がありましたら、お願いをいたします。

〇三谷委員 山内推進監にお伺いするんですが、今、河村主査が、各部局からの要請等に基づいていろいろ現地で調整したり、またその対応を考えていくというお話なんですが、この各部局の中に三重県庁の健康福祉部は入っていないわけですか。

〇山内推進監 健康福祉部の場合は省庁からの要請ということでございましたので、直接はタッチをしておりません。

〇三谷委員 最初に全国知事会からの物資等の要請があって、本県は、防災危機管理部としては支援の対象を宮城県と決めましたというご説明があったと思うんです。防災危機管理部が宮城県という決定をするプロセスの中で、例えば健康福祉部と相談をするとか調整をするということはなかったんですか。

〇山内推進監 相談はしてなかったように聞いております。というのは、省庁関係、あるいは全国知事会関係、それぞれの動きがございましたので、とりあえず何が一番早く動けるかという部分で動いていると思います。どこかの指示を待ってとか言っている場合ではございませんでしたので、それぞれの省庁あるいは関係機関からの要請、あるいは自発的なマニュアルに基づく行動がなされたというふうに聞いております。

〇三谷委員 また改めて議論はさせてもらいますけれども、本県がどこをメーンとして支援をしていくかということを決定するということは、非常に重要な決定事項だと思うんです。その決定をするプロセスの中で、同じ三重県庁の中の例えば健康福祉部という、医療だとか救護だとか、さまざまなところで非常に大きなファクターを持った部局と相談をせずにどこをメーンで支援をするか決定したということになれば、これはその決定のプロセスに僕は大きな瑕疵があったと言わざるを得ないと思うんです。そのように考えて間違いないですか。

〇山内推進監 結果的にはそうかもしれません。ただ、私も当時、そこにおったわけではございませんが、もう戦場のような毎日だったというふうには聞いております。とにかくできることは何だというところから始まったというふうに聞いておりますので、この教訓をもとに、例えば1県集中型を多分おっしゃるんだと思うんですけれども、そういう方向で課題の整理をしまして、今後に結びつけたいというふうに考えております。

〇東委員 河村主査にお尋ねしますが、行ってらした期間は1週間程度ですか。

〇河村主査 はい。

〇東委員 この宮城県災害対策本部で情報収集をされているということで、あとは現地を、幾つかのまちを歩かれたということになるわけですが、他県との情報交換がすごく有効だとおっしゃるんですが、災害対策本部以外に復興対策本部みたいなものが宮城県庁の中にあるんでしょうか。これは多分、復旧がメーンだと思うんですが、復興をメーンに考えている部局というのは、そういう組織はあるんですか。

〇河村主査 私たちが行った中では、応急的な対応から復興への過渡期でありました。その時点では災害対策本部という形で動いていて、その中で応急的な対応をしていたんですが、その中でも当然、その次に来る復興の部分について何も考えてないということはなくて、その災害対策本部の中でも復興については準備をして対応されていたというふうに聞いております。

〇東委員 確認なんですが、この災害対策本部という中で、復興という考え方の部局というか、そういうセクションもあると。つまり今、復旧だと思うんですが、復興を前提に復旧の作業も同時並列でやってらっしゃるというふうに理解していいですか。

〇河村主査 はい。

〇東委員 ああ、そうですか。それはセクションが別に分かれているわけじゃなくて、一緒くたになって、災害対策本部の中ではそういう会議というのはないわけですか。何かちょっとよくイメージがわかない。

〇河村主査 先程も申しましたとおり、ちょうど私が行ったときには、その復旧と復興のはざまの時期であったのでそういう枠組みでやっていたと思います。部局としても危機管理部局が中心となって、その復旧についても復興についても考えられていた状況でしたが、最終的にはというか、復興のところは独立して検討されることになるというふうに聞いております。

〇東委員 山内推進監にお尋ねをしますが、今、現地支援調整要員を派遣されていらして、いろんな情報が入ってくると思うんです。やがて3カ月以上たって、今度は、私、一番冒頭に申し上げた思いがやっぱり強くて、次、どうやってどういうまちづくりをしていくか、つまり復興計画をどうやってつくっていくのかというのを、例えば宮城県庁の中で考え切れるかどうかというのが、私、すごく心配しているんです。
 つまり、余計なお世話かもしれないけど、冷静に判断をして、冷静に次の世代のまちをつくるお手伝いをできることが三重県の役割としてあるんじゃないかと。せっかく絞って宮城県の復旧活動に支援をしているわけです。私はそのへんのところの考え方というのを、三谷委員もおっしゃったように、どうせやるなら集中して宮城県、いろんなアンテナも集中してやっていくという考え方が、私はいいと思うんです。そういった意味も含めて、次の宮城県の県土整備というか、まちづくりのお手伝いまで三重県としてはパートナーシップをとっていく方がいいんじゃないかと私は思うんです。そのへんの考え方はどうですか。

〇山内推進監 復興に向けては、先程、ちょっと私も補足をしようかと思ったんですが、たしか4月22日頃、宮城県で、ちょっと名前は、はっきり覚えてないんですけども、復興対策本部か何か、そういうものが組織されたように記憶しております。そこは、多分あれは危機防災対策やったか、いわゆる私どもでいいます防災危機関係ではなくて政策関係のセクションがそうなられたというふうに、ちょっと正確な記憶ではございませんが、いわゆる復興に向けての話ですので、まちづくり、県づくりという意味では、そちらの所管になったのかと私は個人的に理解をしているところでございます。
 委員が、今おっしゃいます復興に向けての、三重県が、今何を、どういうパートナーシップを持ってというお話なんですけれども、復旧段階までは確かに人なり物なり、とにかく要請、ニーズに応じたものを送っておったわけです。復興になりますと、宮城県のお気持ちというのが、まずどんなプランニングをされているかというところから始まらないとなかなかできないと思います。それをするにはちょっと今はまだ情報不足かなと思っております。
 最終的には、今行っています復興に向けての支援というのは、長期人材派遣というのを行っております。これは気仙沼市でありますとか、そういう漁港の復興支援、あるいは三重県でいいます建設事務所的な技術職員の長期派遣、これを今行っております。ですから、復興支援、何もしないということではございませんが、私どもが今、情報として知り得る限り、あるいは今行っているものというのは、それぐらいのものでございます。

〇東委員 ぎりぎりのところのご答弁だと思います。申し訳ない、ありがとうございました。

〇日沖委員 現地支援調整要員のお仕事というのは、まず情報収集だということなんです。現地で、これまでの今日の話の中にもあったけど、縦割りでいろんな分野の方々が、行政のお仕事なり、またボランティアも含めて、いろんなところでいろんな分野で支援に行っていただいている。それを横の連携というものもできるだけつなげていただいて、現地でより効果的な支援をしていただけるような役割も果たしていただけるんだろうというふうに期待しとるんです。そういうお仕事もあるんだろうなというふうに期待しとるんですけど、まず一つ、県の現地支援調整要員のチームの拠点というのは、何かどこかにお借りして別に独立したところがあるのですかということをお聞きしたい。それとさっき申し上げたことなんですけれども、現地でいろんな情報をとっていただいとれば、その分、課題も見えてきますし、また新たなニーズも見えてきます。そんなことを含めて、もう一遍県庁へ戻されて、そしてこれからの支援に必要なものを足してもらったり、また課題を解消してよりよい環境で支援に行っていただける体制を築いたり、そういうことに戻していただいて、また生かしていただくということをしていただいとると思うんです。例えば現地で情報を得て、得られた課題を一覧としてこっちに戻されるとか、何かそろそろ具体的な、そんなところをどうしてみえるかというところをちょっとお聞きしたい。さっき申し上げた拠点というのは別に独立してあるのかということと。

〇山内推進監 まず、1点目の拠点でございます。先程も言いましたように、宮城県庁の18階に1部屋、連絡員室というのを設けてもらっております。そこで各県、先程言いました11県がそれぞれの、ブースというとあれなんですけども、机を入れていただいて、必要な通信機器、資材等々、その一室に集めてもらっております。ですから、基本的に行動としては、朝会等々の関係もありますが、そちらへ詰めてもらって、それからいろいろ各自のミッションでもって行動いただいて、また帰りにはそこへ寄ってもらって、1日の日報を書いて帰ってもらうという感じで毎日行動してもらっております。
 2点目でございます。課題、ニーズの把握でございますけれども、ちょっと今、休止はしておるんですけれども、派遣された職員にアンケートを、簡単なアンケートなんですけども、させていただいておりました。その中の1項としまして課題という部分がございます。残念ながらこれは言いわけになるんですけれども、課題を集計して、どんな点がどうのこうのという対応にまでは今、なっておりませんけれども、それは必ずしていきたいというふうに思っております。

〇濱井委員 日沖委員ので、申し訳ないんですけども、ちょっとわからない部分があるんです。今後課題をまた情報として提供していくことになってくると思うんですけども、それが一番大事かなと私は思っているんです。県にしろ、それからいわゆる被災地の市町、非常に職員が不足しているということです。当然ながら各市町からもそういう応援部隊が行っていると思うんですけども、この三重県内の市町の職員と、県の今回の現地支援調整要員との連携というのをどれぐらいやっておられるのか、考えられておるのかお伺いしたいと思います。

〇山内推進監 現地へ、今、派遣しております市町職員でございますが、これは三重県からのもちろん派遣ではございません。全国市長会あるいは町村会のスキームで派遣をされております。だからといって三重県が全然かまないのかということはございません。それは後方支援という形でご意見等々を伺ったりしております。
 ただ、そこで見えてくる課題というのは、三重県がもちろん解決していかなければいけない部分もあるかとは思いますけれども、現在は後方支援という形で現地支援調整要員が動いておるというような状態でございます。

〇濱井委員 ぜひ、今後の課題だと思うんですけども、積極的にそういう連携をとっていただいて、被災地、県あるいは市町の本当の貢献といいますか、復旧復興につながる支援ができるような形でお考えいただきたいと思います。これは要望でございます。

〇粟野委員 山内推進監とは個別にちょっと話をさせていただいたので、いろいろと情報はいただいとるんですが、その市長会であったり、知事会であったり、先程も濱井委員が言われておりましたように、町村会であったりというようなところで、本当にいろんなところから情報が入ってきたり、もっと言うと要望や、依頼があったりというような形になっていると思います。これを宮城県庁の方、いわゆる現地支援調整要員の方で情報の一元化はできないものなんでしょうか。ここのまちはこんなんが要るとか、もしくはここのまちはこんなん言うとるというのを、情報として一元化はできないんですか。

〇藤田委員長 宮城県でですか。

〇粟野委員 そうです。
 ちょっとつけ加えます。前もちょっと難しいという話はいただいとるんですけども、例えば、具体的な話です。これもしょうもない話だと僕は思うんですけども、伊賀市から派遣いただいている職員がいらっしゃいます。今、多賀城市に行ってらっしゃったりするんです。それはもう余り考えるなという話を僕はしたんですけども、伊賀市から派遣をされているという思いで職員は行っているんやけれども、どうも宮城県の方では三重県から来たというふうに思われていると。伊賀市はこんだけ頑張っているのに、何や、三重県からという思いを持たれているのかと。我々は伊賀市で、伊賀市の力でやっとるんやというような思いを持っている方がいらっしゃるんです。しょうもない話なんですよ。それはもう思うなっていう話なんですけども、ただ、三重県として、オール三重で行くんだという最初から意味づけができておればそんな語弊はないでしょうし、いろんな会からの依頼があるとしてでも、それを一元化してまとめられればそういうトラブルというのは起こらないと、みんなも快く、気持ちよく仕事ができるのかなというふうに思っております。

〇山内推進監 ご指摘のとおりで、現地へ派遣をされております市町の職員からは、そういうクレームは私の耳にも届いております。
 確かに、三重県がいいとこどりをしたという気持ちはないんですけれども、宮城県庁の中では県レベル同士の話になりますので、どうしても三重県からという話になります。ただ皆様方にもお配りをしている支援活動の実績の数字には、ちゃんと市町の数字として上げておりますし、私どもがあえて三重県をアピールするつもりはございません。ただ基本的にそういう声があるということは事実だというふうに認識をさせてもらっております。
 ただ、それを今からどう是正していこうかというのは、ちょっと難しいというふうには思っています。基本的にその方たちの後方支援といいますか、そういったちょっとぼやきたいなというような声も現地支援調整要員が避難所などへ行ったときに聞かせていただいて、それでちょっと気持ちが済むものがあれば、そういう部分ではかみ合っていただきたいという気持ちはしております。

〇粟野委員 本当に難しい調整だと思います。できる限りというか、そういったところにも一声おかけいただくというか、気遣っていただければと思いますので、よろしくお願いいたします。

〇藤田委員長 ほかにどうですか。
 なければ、1点、私の方から質問させていただきます。
 本日の毎日新聞なんですが、応援に来た他県を仲立ちする宮城県がパンク状態に陥っていると。宮城県としては、要望が多過ぎて処理できない。一方、他県の方が、応援に来た私たちにどういうことをしてもらいたいのかぜひとも言ってほしい、率直な意見交換が必要、先程お話に出てきた連絡会議で担当者に非常に厳しい指摘が相次ぐと、こういう内容が載っております。派遣をされて行っていただいた河村主査、この新聞記事は事実に反するんですか。それともこういう状況が起こっているんでしょうか。

〇河村主査 特定の県を指すのは難しいんですけども、実際に派遣されている各県等の関係の中では、大きな災害を経験されている自治体が、実際に経験がありますので、そのやり方に基づいて仕切ろうとされているという話がちょっとありました。それが宮城県のやり方と合っていないという話もお聞きしている部分があって、そういう意味では、その新聞に書かれているようなコーディネート的な役割をする、それは宮城県のニーズに応じたコーディネート役をするような自治体というのは確かに必要になってくるかと思いますが、現時点ではそういう状況にはなっていないのは間違いないと思います。

〇藤田委員長 ちょっと待ってください。確認しますが、宮城県が本来、コーディネートするべきですね。各地域の要望を集めて、それを各県にお渡しをすると。この機能はできているということなんでしょうか。それを受ける側に先程おっしゃられたようなことがあると、そういう状況がこんな情報になっているということなのか、現実的に宮城県が各市町の情報を集め切れていない、整理し切れていないという状況があるのか、どうお考えですか。

〇河村主査 先程、私の説明の中でもちょっと触れさせていただいたんですが、今回も多賀城市と塩竈市に派遣をしているんです。受け手側の行政機関、市役所、町役場が、まず災害対応というのに忙殺されていて、支援は受けたいんだけども、その支援の人たちの業務を事前に割り振るというようなところまでいってないという状況がありました。実際、市町村がそういう状態ですので、宮城県庁もそういうのは正確には把握できていない状況であることは間違いないと思います。

〇藤田委員長 わかりました。そうすると、県自体はまだまだ現場の正確な要望を把握し切れていない現状があるということですね。

〇河村主査 はい。

〇藤田委員長 わかりました。
 もう一点ですが、県の方から3名に行っていただいておるということですが、今は2名になっているんですか、この方たちは、河村主査がおっしゃったように、各市町へも行っていただいて情報を集めていただいておるというお話をいただきましたが、その情報は防災危機管理部の方へは、三重県の方へは伝わっておるということでしょうか。

〇河村主査 先程、推進監の説明にもあったんですけども、派遣職員は向こうで毎日どういう活動をしたかという日報を書いて、基本的には毎日、本庁の防災危機管理部の各室あるいは県民センターに送るようにしております。そういった形での情報共有は全庁的になされているというところです。

〇藤田委員長 先程、推進監の方から、いただいた課題の整理はまだまだだというお話もいただきました。このへん、非常に重要かと私は思いますので、ぜひそのへんのところ、改革をしていただきたいというふうに思います。
 ほかにございませんか。
 なければ、これで防災危機管理部関係の調査を終了いたします。当局にはご苦労さまでございました。


〔閉会の宣言〕


三重県議会委員会条例第28条第1項の規定により記名押印する。

東日本大震災に関する復旧・復興支援調査特別委員長

藤 田 宜 三

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