<目次>
寄稿にあたり
橋本心泉さんの歩み
1 幼少期
2 学生時代
3 「家庭の妻」
4 介護
5 修業
6 飛翔
7 国際交流
人材育成
寄稿にあたり
第58回 県民功労者表彰の文化功労として、日本画家の橋本心泉さん(本名:橋本三重子さん)が受章者となられました。
県民功労者表彰とは、最高位の知事表彰として、本県の「公共」「福祉衛生」「産業」「生活」そして「教育文化」などの各界において、県民の模範となり、かつ県勢の伸展に寄与した方を顕彰するため、毎年表彰するものです。
県民功労章
橋本心泉さんの「文化」における長年の功績が県民功労者としてふさわしいものとして、令和4年、三重県知事より、表彰状と県民功労章が授与されました。
そこで、この機会に、心泉さんのこれまでの道のりを、ご本人への取材に基づいてご紹介したいと思います。
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橋本心泉さんの歩み
1 幼少期
橋本心泉(三重子)さんは、昭和10年に津市に生まれました。
心泉さんのお父様は、当時、日本に一つしかなかった養鶏学校の経営者でした。そのお父様の教えで、心泉さんは6歳から書道をはじめます。お父様は書の専門家ではありませんが、簡単なメモ書きや、趣味のイラストなどのため、常に筆と墨を手元に置いていました。心泉さんの生活には、書道がとても身近にありました。
お父様は、幼い心泉さんに、超一流の道具を与えました。そのおかげで、人間国宝の職人が作った筆や、端渓(たんけい)の硯(すずり)などを当たり前に手にしていました。心泉さんは、「今より良いものを使っていたくらいです」と笑います。その時期は、間違いなく心泉さんの土台を作りました。お父様には、目の前の幼い「三重子さん」が、後に日本画の大家となる姿が見えていたのでしょうか。
さらに、お父様は、三重師範学校の書道教授を師匠に選びました。「足をブラブラさせながら書いていたら怒られた」という幼子が、後に日展作家になるような、はるか年上の兄弟子たちと机を並べ、書を学びました。
(左)心泉さんのお父様 (右)心泉さんが愛用する筆・硯
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2 学生時代
地元の津高校を卒業した後、杉野女学院に入学します。「日本で初めて日本人の手による本格的なファッションショーを開催した」と評される服飾の学校です。ファッションデザイナーを養成する本科と師範科コースで、デザインや色彩を学びました。心泉さんの色彩感覚は、国内はもとより海外からも高く評価されています。伝統的な日本画の画材や技法を用いながら、日本画の枠内に収まらない色彩を誇る作品が多く制作されています。この時期に学んだものが、そこに大きく寄与しました。
そんな計り知れない可能性を秘めつつ、心泉さんは当時の多くの女性と同じく、学校を卒業してすぐに結婚をします。両家のことをよく知る人のお世話で見初められ、お見合いをして4日後には結納を済ませていました。
自作ドレスを着た学生時代の心泉さん
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3 「家庭の妻」
14人の大家族との生活が始まりました。大家族ゆえの大変さはありましたが、結婚後の心泉さんは、とくに家に縛られる生活をしたわけではありませんでした。「嫁ぎ」先は大きな会社を経営する裕福な家で、お手伝いさんがいて家事に煩わされることもありませんでした。何より、大変進んだ考えを持っていた義理のお父様が、心泉さんのことをとても気に入り、「自由にさせてもらった」以上の援助を受けられました。
たとえば、心泉さんは戦前生まれの女性としては極めて珍しく、自動車の運転免許を取得しています。その当時、三重県では数人しかいなかったそうです。その頃に免許を取得するには、ボンネットを開けて整備もできなければいけませんでした。今以上に「女性は機械が苦手」と思い込まれていた時代でしたが、心泉さんはちゃんと試験をパスしました。義理のお父様が「これからの時代は車だ」と、心泉さんに免許取得を勧めた結果でした。
この時期、心泉さんはまだ日本画を始めていません。心泉さんは、高校で美術教師をしていた森谷重夫さんに絵を褒められて以来、絵を好きになっていたのですが、まだこの頃は書道に専念していました。森谷さんは東京藝大を首席で卒業し、後に三重県有数の洋画家となる人物ですが、このときはそんな出会いも活かされませんでした。心泉さんは高校時代に、今の「県展」の前身、「三重県美術展覧会」の書部門で最年少入賞をしています。そして、結婚後も書道を続けました。
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4 介護
楽しかった家庭生活が突然終わりを告げました。義理のお母様が倒れたためでした。後に原因はキノホルムの薬害であると判明しますが、当初は全く原因不明でした。全く目が見えなくなり、下半身不随で寝たきりになるという重症に陥りました。またウイルス性の伝染病との説が出るに至って、お手伝いさんたちが橋本家に来なくなってしまいました。義理のお母様の世話は心泉さんが一手に引き受けざるを得なくなりました。大変な看病の中、合間に制作する書だけが心泉さんの心の慰めでした。その孤独な苦労は、義理のお母様の姉である伯母様が身辺の都合をつけ、介護の分担を引き受けてくれたことで、心泉さんの負担がほんの少しだけ楽になるまで、約10年続きました。
義理のお母様が倒れてもうすぐ20年になろうという頃に、ようやく入院できる病院が見つかりました。それまでの心泉さんの献身的な看病に対して、「この病に倒れた人が入院するとき、これだけ身体がきれいに保たれていることはほとんどない」と、医師は敬意を表しました。
義理のお母様を病院にタクシーで連れていくとき、春の雪が積もっていました。その風景を言葉で描写して伝えると、義理のお母様は涙を流して、「自分の目で見ているようだ、見えなくても満足だ」と心泉さんに感謝しました。その体験が、心泉さんに、「自分の目に見えたもの、感じたものを、どうやって人に伝えるか、どのように絵に描くか」という意識を、強く持たせることになりました。
また、義理のお母様は、心泉さんに、「目の見えなくなった自分に代わって、海外の世界を見てきてほしい」と頼んだことがありました。その言葉は、後に心泉さんが海外に日本画を発信していく際に、その活動を大きく後押ししました。病に倒れた義理のお母様との20年間の触れ合いは、後の心泉さんの芸術活動を大きく動かしました。
「早春」(橋本心泉)
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5 修業
入院してすぐに、義理のお母様が亡くなりました。その前後から、心泉さんの心は、本格的に絵に向かっていきました。その情熱の先にあったのが、橋本綵可(さいか)さんの日本画教室「彩潮会」です。
心泉さんが綵可さんから日本画を学び始めたのは、伯母様のおかげで少しだけ時間の余裕ができた頃です。介護に忙しい身であっても、いえ、むしろ介護に心身がすり減る中だからこそ、芸術制作に向かうことが心泉さんの心の支えになっていました。彩可さんと心泉さんは師弟関係を結ぶことになりましたが、二人が同じ苗字なのは全くの偶然です。そんな日本画の制作活動が、義理のお母様の遺した思いを受けて加速していくことになりました。
綵可さんは、常日頃から教え子たちに、「心の目で描きなさい」と伝えました。「目で見たものを形通りきっちり描くだけではなく、自分の心を通して表現することが大事である」という意味でした。基本的な技術が大事であることは言うまでもなく、そのことは、ファッションデザインにおける人のデッサンの重要性などから、心泉さんに深く染み込んでいましたが、基本を超えたものの重要性を綵可さんから教わりました。
その教えは、心泉さんの中で、義理のお母様との触れ合いの体験と強烈に結びつきました。心泉さんは、「『見る』ということの意味を、二人から学びました」と振り返ります。
(橋本綵可さんの作品)
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6 飛翔
綵可さんの下で初めて本格的に絵を始めた心泉さんでしたが、義理のお母様の看病と並行して制作した日本画で、入門から3年後に津市美術展で初入選しました。そして、その1年後には三重県美術展覧会で初入選します。そして、津市美術展初入選から5年後には、同展の最高賞である津市長賞に輝き、あっという間に専門の日本画家の仲間入りをしました。
義理のお母様が亡くなったのは、市長賞のすぐ後でした。お母様との触れ合いによって、改めて日本画の道を突き進むことを決意した心泉さんは、県美術展覧会の初入選からわずか7年後に、同展覧会の最優秀賞に駆け上りました。さらに、日春展や日展といった、全国規模の展覧会でも次々に優秀な成績を収め、三重を代表する日本画家となります。
それと並行して、書道家としての地位も得ていきました。三重県書道連盟展で次々と入賞を重ね、連盟入会から異例の速さで理事になります。また、現代詩を書にすることを提唱した近藤摂南さんの新書派協会にも入会しました。「自分の字で書ける」と心泉さんが言う同会のスタイルは、心泉さんと非常に水が合い、読売書法展入選など、さらなる飛躍のきっかけになりました。心泉さんが学んできた「心の目で描く」という信念は、書でも実践されています。
(左)「寂照」(橋本心泉) ※現在、三重大学・山翠ホールに展示中 (右)「寂照の白牡丹」(橋本心泉)
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7 国際交流
そんな心泉さんの絵と書の両方での研鑽は、津市の友好都市である中国江蘇省鎮江市との交流で大きく活かされることになりました。中国には書画が一体となった文化があり、水墨画などに讃(そのときの気持ちなど)を書くことが多くあります。その文化を背景に、心泉さんの作品が鎮江市で大いに受け入れられ、心泉さんのその後の国際的な活動の第一歩となりました。最終的に、心泉さんは鎮江市名誉市民の称号を授与されます。
そして、この実績が、さらに違う国での交流活動を可能にしていきました。
「杏花村汾酒」(心泉さんと「鎮江中国画院」画家との合作)
心泉さんはフランスでも各地で作品を出品しています。2002年には、起源がルイ14世治世下の1667年に遡るパリの国際公募展「ル・サロン」に初出品で初入選しました。その後3年連続で入選し、2004年に永久会員に認定されます。さらに2005年に銅賞を受賞、2006年に銀賞を受賞し、その後も入選し続けました。
また、ユネスコの創造年国際交流事業の特別併催事業として、UNESCOパリ本部ミロホールにて個展を開催する機会にも恵まれました。日本文化の紹介という点のみでなく、同本部で初の日本画個展としても注目を浴びました。
「居」(橋本心泉) ル・サロン銀賞受賞作
また、アラビア半島南端にあるイエメンの風景に魅せられた心泉さんは、何度もスケッチに出かけました。それまでの国際交流の実績から、現地の人に様々な便宜を図ってもらい、一般人ではなかなか立ち入れない場所も描き写して、優れた作品を次々と完成させます。その作品を国内の作品展に出品して、数々の受賞を勝ち取っていきました。傑作「イエメン」(通称・「イエメンの少女」)はその一つです。
「イエメン」(橋本心泉)
その他にも、キューバのハバナ、ベルリン(独)、ニューヨーク(米)、ニューデリー(印)、タヒチのパペーテ、イタリアのシチリア島、モロッコのラバトやケニアのナイロビ、ロンドン(英)など、70ヶ国各地に日本画を持ち込んで、人と文化の交流を育んでいきました。
そんな心泉さんのことを、心泉さんの夫も様々な面で応援しました。夫婦で力を合わせ、義理のお母様の夢を叶え続けました。
「交響」(橋本心泉)
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人材育成
橋本綵可(さいか)さんの日本画教室「彩潮会」は、綵可さんが亡くなった後、心泉さんが指導する教室となりました。綵可さんと心泉さんでは作風も個性も全く違います。それでも、心泉さんが最も大事にする「心で描く」という綵可さんの教えは、さらに心泉さんとも個性が異なる孫弟子たちに、脈々と受け継がれています。今、彩潮会は、心泉さんの薫陶のもと、個展を開ける日本画家が多く集い、独立して教室を開いた人もいる実力者集団となっています。
受け継がれる教えに加え、心泉さんは、彩潮会に「海外に目を向けること」をもたらしました。心泉さんの国際交流に多くのお弟子さんが付いていきます。単なるお手伝いではなく、それぞれが一人の日本画家として、海外の人に日本画を教え、文化交流を担います。そして、海外の絵画展に日本画を積極的に出品するのも彩潮会流です。例えば「ル・サロン」には、心泉さんに続いてお弟子さん5人が初出品し、全員が入選しました。
「ル・サロン」入選歴があり、彩潮会の事務局を務める古金谷初美さんは話します。
「会として、一人ひとりが、現状にとどまるのではなく、常に進化していきたいと思っています。日本画の伝統の技術を前提にしつつ、その時々の気持ちを表現できるように、新しいものに挑戦していきたいです。技術の上手い下手も大事ですが、それよりも、自分の描きたいものを描いて、それを外に広げていきたいのです。」
古金谷さんをはじめとして、何人ものお弟子さんが、日本画家として自身の作品を高めながら、後進を育成しています。その人たちを通じて、彩潮会と心泉さんの心は受け継がれていきます。
「彩潮会日本画展~彩潮会のあゆみ~(2022年)」より。心泉さんから見て右隣に座るのが古金谷さんです。
※「彩潮会」については、「みえの文化団体」として、県ホームページのこちらでも以前にご紹介しました。
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