<目次>
寄稿にあたり
プロフィール
本文
寄稿にあたり
第57回 県民功労者表彰の文化功労として、声楽家の稲葉祐三さんが受章者となられました。
県民功労者表彰とは、最高位の知事表彰として、本県の「公共」「福祉衛生」「産業」「生活」そして「教育文化」などの各界において、県民の模範となり、かつ県勢の伸展に寄与した方を顕彰するため、毎年表彰するものです。
県民功労章
稲葉さんの「文化」における長年の功績が県民功労者としてふさわしいものとして、令和3年、三重県知事より、表彰状と県民功労章が授与されました。
そこで、この機会に、稲葉さんのこれまでの道のりを、ご本人への取材に基づいてご紹介したいと思います。
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プロフィール
声楽家・稲葉祐三さんは、数多くのリサイタルを開催するとともに、いつくものオペラに出演し、各種音楽界のソリストとなって、長年にわたり活躍しました。
また、音楽指導者として、県立「四日市南高等学校」、「津高等学校」で音楽教育に携わる傍ら、それらの高校の合唱部を指揮・指導し、県代表として「中部合唱コンクール」出場の常連校に導くとともに、各大会で多数の賞を受賞するまでに育て上げています。
さらに、「津女声合唱団」「三重ヴォークスボーナ」をはじめとする、地域の多くの一般合唱団で常任指揮者を務め、その育成に尽力しました。それぞれの合唱団で、数十年にわたり腰を据えて指導に取り組み、幾度となく全国大会に導いています。
そして、「三重県合唱連盟」理事長として、県内の合唱界を牽引するとともに、平成6年の「国民文化祭」オペラ公演では、合唱・オペラ部門実行委員として活躍し、公演を成功に導いています。この成功は、「三重オペラ協会」設立の機運に発展しました。稲葉さんは、初代会長として、その後もオペラ公演の継続に尽力し、三重の地にオペラを定着させました。
加えて、「NHK全国学校コンクール」三重大会、「三重音楽コンクール」声楽部門審査委員なども務め、三重県の音楽文化の底上げに貢献してきました。その門下から県内外で活躍する声楽家を複数名輩出したほか、県出身の音楽家の活躍の場として「三重新音楽家協会」を立ち上げ、会長として多くの音楽家の活躍を支援するなど、人材育成に顕著な功績をあげました。
これらの功績から、稲葉さんは、平成23年に、第11回三重県文化賞で「三重県文化大賞」を受賞し、令和3年には、県民功労者表彰における「文化功労者」として表彰されています。
(主な受賞歴)
平成6年 三重県教育功労者表彰
平成11年 文化庁・地域文化功労者表彰
三銀ふるさと三重文化賞
平成23年 三重県文化賞文化大賞
令和3年 県民功労者表彰(文化功労)
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本文
久居(現・津市)出身の声楽家・稲葉祐三さんは、画家だった叔父の影響で、当初は絵を志しました。中学3年の夏休みには26点もの絵を仕上げ、高校生で県展に作品を出展するほど、真剣に画家を目指していました。
しかし、シューマン作曲の歌曲「流浪の民」のレコードを、高校の音楽の授業で聴いたとき、その歌声が頭から離れなくなりました。音楽の下地がない家庭で育った稲葉さんでしたが、意を決し、高校生になってから音楽を習いはじめました。最初に師事した地元のピアノの先生の紹介で、奈良教育大学の先生に声楽を学びました。高校生が、月一回、先生の自宅のある奈良まで通いました。
1年ほどの遠距離通学の後、第19回「日本音楽コンクール(旧・毎日音楽コンクール)」声楽部門で特賞1位に輝いた、四日市出身の伊藤亘行(のぶゆき)さんに師事しました。
そんな努力の甲斐があって、「三重大学」学芸学部(現・「三重大学」教育学部)に音楽専攻の特待生として入学します。卒業まで同学に籍を置きましたが、実際には、3年生から「東京藝術大学」音楽学部に国内留学しました。まだ東海道新幹線が開通する前の話です。東京藝大で、たとえば山田耕筰のような、当時の一流の音楽家の活動に触れる機会を持ちました。
稲葉さんは、大変な苦学をして、東京で学生生活を終えました。そのとき、音楽を含むあらゆる文化の最先端である東京にそのまま残って、仕事を探し音楽にかかわっていく道もありました。しかし、稲葉さんはあえて三重に戻り、音楽教師になりました。そこには、「故郷・三重の音楽のレベルを上げたい」という思いがありました。
声楽を学ぶため奈良まで通う必要があったときや、東京に国内留学したときに感じたのは、「音楽を学んだり、音楽に触れたりできる機会が、三重には十分ではない」ということでした。音楽を学びたい、音楽に触れたいと思った人が、地元でそうできるチャンスを増やすことが、稲葉さんの目標でした。それは、その後の稲葉さんの音楽活動の根底に、常に存在し続けました。音楽教師として、合唱団の指導者として、そして、「三重県合唱連盟」の理事長や「三重新音楽家協会」の会長として、「音楽の仲間の輪を広げ、地域や団体の音楽活動の核となる人を育てること」に、稲葉さんは力を尽くしました。
稲葉さんは、自身の音楽人生を、「恵まれたものだった」と振り返ります。経済的にも環境の上でも、決して豊かではなかったにもかかわらず、四日市の伊藤先生をはじめとして、優れた師匠や仲間たちとたくさん出会うことができたと。
その「恵まれた出会い」は、すべて稲葉さんが、自らの力で手繰り寄せたものだと思います。稲葉さんの音楽人生は、「目の前にないものを遠くまで探しに行き、自分の場所で新しく作り上げること」の繰り返しでした。
1973年、稲葉さんが39歳のとき、ウィーンに短期留学しました。また、42歳のときに、演奏旅行でドイツの各都市を回りました。自身の声楽を高め、指導する合唱団を鍛え続けていた稲葉さんは、はじめて直に触れたヨーロッパの音楽との間に、技術の差は感じませんでした。現地の人たちからも、演奏のレベルの高さを評価されました。
ただし、ヨーロッパでは、演奏のレベルを上げることよりも、音楽の仲間を増やすことが大事にされていました。一人ひとりが音楽を楽しんでいました。レベルの高い演奏を、少数の人に聴かせることが多い日本と違い、クラシックやオペラの演奏会に、たくさんの人が集まっていました。地方新聞の記事に、日本のメディアではあまり見られない、音楽批評の視点が備わっていました。「音楽文化の根付き方が違う」と感じました。
日本でも、最近、ストリートピアノを置く場所が増えています。ネットで個人が動画配信できる時代になり、狭き門を抜けて演奏家になれた人以外も、人前で演奏する文化が育ちつつあります。そんな「まちかど演奏会」は、ヨーロッパでは、「昭和」の頃から当たり前に行われていました。その時代からストリートに自然にピアノが置いてあり、人々が勝手に蓋を開けてチューニングしてから弾き始めるのを見たとき、稲葉さんは心から驚きました。チューニングの方は、令和の日本でも驚く光景かもしれません。
「まちかど」に人が自然に集まって合唱を始めるのを見たとき、稲葉さんは、比喩ではなく本当に涙を流しました。自分の理想がここにあると思いました。日本にないものを、ヨーロッパで見つけました。
そのような状況を日本、そして三重に作ろうと、常に奮闘してきた稲葉さんは、今も全く満足していません。「皆に音楽を好きになってもらう」には何をすればいいか、一線を退いた今でも、ずっと考え続けています。
今、日本もそこに確実に近づいています。そうなる流れの中に、稲葉さんの功績が確実に存在します。
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