小林康生氏講演 要旨
「農山村の文化を活かした体験民宿」
今日ふるさと村組合の組合長という肩書きで来ておりますが、本職は、手漉き和紙を作っております。座布団だとか壁紙ですとか、出来るだけ生活の中で自分で作った紙を使いたい、という事で、少しずつそんなお遊びみたいな事もやっています。
(紙の道を志ざす)
副業では私は五代目になるのですが、農耕の傍ら冬だけ少し3ヶ月か4ヶ月くらい、半紙の紙を代々漉いていたんです。実は紙をやるには、原料の「こうぞ」を買えるということを知りませんでした。知らなかったから、とにかく荒れ地を開墾して増やさなくちゃいけない。3年間荒れ地を開墾していたんですね。それから冬場は、出稼ぎと言う用語になりますが、いわゆるアルバイトですね。夜勤と昼勤と二交代の中でめいっぱい働いて。けちけちぶりの生活をして銭を一生懸命に貯めていた。今考えるとすごく貧しかったけれど、一番やりたいことに向かって、続々とこう何かもっとぶつかって行きたいというか。振り返ると何でもよく見えるものですから、なおさらですが、一番幸せな時期だったかもしれません。
(生きている紙「生紙(きがみ)」)
木の皮を使うという事が和紙の原料です。木の芯材を使うのが用紙の原料です。今は、手で作ればみんな和紙って言っちゃう。だんだん和紙という概念が曖昧になっています。本来、靱皮繊維という木の皮を使った光沢のある、強度のある、命を持っているそれは美しい原料なんですよ。だんだん和紙の言葉が定義できなくなっていると。仕方がないんで生きている紙です、生紙(きがみ)という言葉を使っています。
毎日呼吸しているから生紙と言うのです。呼吸の幅は、年数が経つとだんだん小さくなる。3年経つとかなり収まってくる。そうすると、枯れたという言い方になります。本当に枯れるには、500年とかそういう歳月が必要ですが、なじんでくるのに、強度も出てくるのにやはり3年以上かかると。ただ本物でも、出来たて1年以内の物は、水の中へ入れれば、残念ながら溶けちゃうんです。人間と一緒で、一人前になるのに時間がかかるということです
(自然との調和)
最初は、私も商売しなくちゃいけないので、使ってくれるお客さんにあわせる紙ばっかり考えていたんですよ。ところが、本物はだんだん良くなってくるのに、化学的に処理したのは、出来た時は最高で、だんだん劣化してくるんですよ。和紙というのは千年もつというのが、基本的に私は和紙の定義だと思っていますから。先程モノサシという風に梅原先生はおっしゃられましたけれど、この初期の頃の使い手のモノサシから、自分としては土の方に近い「こうぞ」の方のモノサシにある時から切り替えてきた。使い手の中には、数は少ないんだけど、そういった自然から生まれたものをさらに生かしてそれを作品として使いたいという人が同時に増えています。そういった人達と仕事をさせて貰うってことは自分の一番ありがたいことなのです。
(水曜会とむらおこしごっこ)
「ごっこ」という言い方は、深刻にこういうな事をやってやろうと首つっこんできたわけでなくて、勿論地域興おこしというのは背中にしょってはいるんだけど、どことなく「ごっこ」の域を出てなかったんじゃないかなと思ったので。
「水曜会」という水曜の日に集まるグループ。青年団を卒業した、或いは青年団にひっかかっている年代の層の人達が我が家の2階の自分の部屋に毎週水曜に集まりだした。毎週休む事はなかった。たった1人千円ずつ持って自分の飲み代を持って来いと。でも会長もいないし、会則もないし、出たくないのは、出なくてもいい。興味のある時出たい人は、それもいい。時間も決まっていない。くだらんといえばくだらん話で終始していたんですが、ただそれがすごく大事だったなと思うのは、その後に表れるんですね。
(海外からの目で気付いたこと)
外国人がよく家に居候で来るんです。我が家に一緒に生活をして、紙だけじゃなく日本のローカルな生活を体験したいというのも含まれるんですが。色んな国の方々の中で、どこにも属さないのが我が日本の民族的な文化と言うことになりますよね。どこにも見あたらない考え方。ヨーロパの石造りの何千年も保つもので絶対頑張ろうという考え方と、人類の思想といいましょうかね、ころころ壊すことによって、次へつないでいくというのは、かなり日本的なというか、季節感の四季がはっきりしている日本の文化だなという事も感じるわけです。そうやって、その中で自分が教わってきた事は、やがて「水曜会」の展開する都市との交流運動につながるのです。
(住民みんなで交流運動に関わる事によって自分の姿に気付く))
その当時、何かイベント臭い様な、なんか一旗揚げる様なことしか頭にあまりなかったんですよ。方向がこうだったらいいなんていう議論が何もない。結局なにをやったらいいのかというのは、自分の姿が見えなかったら、どこに進んでいいか分からない。自分の姿を先ず客観的に見極めるという事は、絶対的に大事だから、そのために都市との交流運動を、住民のみんなが関わる事によって、良い所も悪い所も自分達の所を気付くと。そして、気付くと日本の中の高柳は、どういう事を分担しなければいけないのか、だから何をやりたいという事じゃなくて、何をやらなければいけないっていう事は必然的に見えてくるのですね。
(季節民宿への展開)
昭和59年頃から、農村というと茅葺きの家が象徴だろうということで始めていくわけです。夫婦げんかしても避難できる隠れ家を確保しようというような感じで、茅葺き家の修復をやったんです。最初10人位だったのが、丸2年間、日曜日はいつもそこ修復していたのですけれど、最後に30人位に膨れあがってくるんです。金は全然ないわけで、当然みんなボランティアです。予算がもしあったら出来ないのだけど、仲間の大工が、夜なべ仕事で1週間かけて階段を作っています。そのうちに6百万円位突っ込んで古い物を守るには、古い物で金を稼がなきゃいけない、という事に気付かざるを得ないっていうのかな。それで、おばさん達に時給500円で、ごっつおうこしらえをお願いするという様な事で季節民宿の宿として、昭和62年から始まっていったわけです。
茅葺きの方はその後平成5年だったかな、門出ふるさと村組合ということで、この集落が120戸位になるのですが、77、8名の人の出資金で、組合を作って、今現在は水曜会という私共のグループではなくて、門出集落に新しく作った組合運営で運営しています。
(萱葺き民宿の紹介)
「おやけ」というのは本家ということで、分家が「いいもち」という風に言います。「おやけ」は昭和59年からみんなで寄って修復をした基本的な寸法の茅葺きの家です。前はほとんど山の風景。裏の方ほとんど田んぼという立地条件です。食事は、みんな、おっかさん方が畑で獲った野菜とか、山からとってきたものを「ごっつおう」にこしらえます。唯一鮎だけがタンパク質でございます。棚田で「はさ」に干した天然乾燥のいわゆるコシヒカリ。皆さん方来られると、ずばぬけてこの米を褒めて下さいます。
(民宿のポリシー)
テレビもないし文明の力っぽいものがあまりないんです。私共はずぶの素人のお母さん方がやるものですから「料理は作らんでいいからごっつおう作ってくれ」と見た目やなんかがどうのこうのよりは思いの方がこもった、自分の子供や自分に孫が来た時に食べさせてあげたいという様なのが私としてはごっつおうのイメージがするんです。
看板についてもそうです。「来るに不自由だからもっと一杯看板だせ」というのと「看板が少ないのがいいよね」というのとあるんですよね。やはり「少ないのがいいよね」というの方にモノサシを合わせています。
それから、最初来た時はお客さんだけど、帰る時もお客さんで帰しちゃだめだよ、って言うんです。帰る時は仲間にして帰って貰おう。2回目からは「おっ母さんまた来たよ」という位。だから今、リピーターが65%位。ですから最初から、すごく打ち解けた感じで接しられる方の方が増えているんです。そんな事でやっています。
(地域住民と行政の思いが奇跡を生む)
昭和63年、平成元年に2ヵ年に渡って、高柳町が「ふるさと開発協議会」を作りました。その前までに行政は、絶えず文明を追っかけていた。その便利さを等しく平等に分け与えるところに奔走していて夢を追っかける事がなかった。ある程度条件が整えば次のステップの条件整備を繰り返すだけ。若い人達が、将来出来るか出来ないか分からない、夢を抱く様な提案をさせたらいいじゃないか。というのが「ふるさと開発協議会」という形になって、大学の先生とかを助言師さんに招き、約50名で分科会も入れると200回以上の会合を開いて「原風景を生かしたそこの必然性を強調した交流観光」という提言を出した。
将来のあらゆる役場の計画の中にその提言が憲法みたいにな形になっている。各省庁が非常に応援してくれる。何故応援してくれたかというと、高柳町だけは、この提言で1本まとまっていますと。町民全部の総意が完璧にまとまって、他のものがありませんというのが、大きな説得力だった。行政も地域住民も一枚岩だと。つまり、「思い」は奇跡を生むんだなー、というのは感じました。結局は人が人の思いに対して応援をする。最終的に、人ですよね。プランではなくて人なんですよね。
(文化と文明)
文明と言った時には絶えず変化して発展を求めなければいけない。だから変化することが非常に価値があるひたすらに向上していく、という響きがある。ところが文化といった時には、ある人だけが感じ取る感性、感覚的な世界。それは客観的な世界ではなくて、その人が持つ主体的な感性の世界の響きが、文化という言葉の中に私は感じるわけですね。
「文明」というのは「考え」、「考え」というのは「概念」。それに対して「思い」があるわけです。「考え」と同じ兄弟みたいなものが「知識」みたいなものです。それに対して「知識」と対角にあるのが「勘」の世界です。人は「知識」と「勘」と両方育てばいいんですけれども、残念ながらそれは許されないというのがあって。後進国といわれる所の人は勘がいいんです。例えば、時計っていう知識を得てしまったために、勘は、確実に必要としなくなったわけです。
(「心配り」は体験が伴わないと深いものになっていかない)
「気配り」はマニュアル的に訓練したりすれば出来る。「心配り」は自分で本当に痛い目をしたり、異論な経験を伴わないと、相手の痛みまで感じ取れる様な事まではできない。麻の布1枚見ても、その麻のなびいている植物の姿とか、或いはその今言った様に、麻の皮を包丁で1本1本削って下さっている方々まで、その布の中に思いを込めて見られれば、すごい、深い感銘を覚えるっていうかな、そういう見方になるわけで、「心配り」は、なかなか体験が伴わないと、本当の深いものになっていかないわけです。
(行動を起せば色んな気付きが出てくる。地域のやるべきことが必然的に発生してくる。)
一番覚えているのは、自分で体験して気付いた事ですよね。気付いた事は自分のものになる。「知識」は自分のものにならないけど、気付いたものはそこで、自分のものになる。何でも行動に起こせば、色んな気付きが出てくるから、色んな気づきの中で軌道修正しながら、それをやるのは自分のやるべき、或いはその地域がやらなければいけないこと、という答えが、必然的に発生してくるっていうのが当たり前なんじゃないだろうか、というのが、自分の思っていることです。
(一番大事なのは目的は何かということ。手段に一生懸命になりすぎないこと。)
人と一緒に動く時に、「思い」というのは大事だけれど、同時にその中に、経済的な裏付けをしなければならないというのを、常にリーダーは考える必要があるんですよね。身銭ばっかしを切っていつまでも続くわけはないんですよね。だから季節民宿の許可をとりながら、という展開の仕方になるんですけれど。
私は都市との交流をすることによって、客観的に目覚める様になりますという話をしましたが、実はそれをやって、その後でそう気付いたわけですよね。ですからそれをやっている時には、気付いてないわけですよ。ですから、とにかくやってみるということが絶対的に必要だと思う。
私は、その地域にその人が住んでいる価値、そこに居てよかったなあと思える人が1人でも増えることが、目的だと思っているんですよ。ここに居てとても良かったと思える人が、何人そこの村でいるかを増やす運動が地域おこしだと思っているんですよ。だから、地域おこしっていうのを起こさない方がいいことだって一杯あるわけですよね。だから一番大事なのは、目的は何なのか。そこに居て幸せ感っていうかな、居て良かったなと思う人を増やすためには、お金が必要なんですよ。金を稼ぐ事も必要だったり、或いは人を招く事も必要だったり、それはみんな手段ですよね。
だけど、手段に一生懸命になりすぎると、目的が吹っ飛んじゃって、金儲けだけとか人だけ一生懸命集めればいいみたいな。そのことが究極の目的みたいになっちゃうと、一体なんなの。哲学もないし、骨もなんにもない。文化もない。何にもない。原点になって考えるのは、やっぱりその目的っていうかな、何が思いでそこに到達したか、という事はいつも頭の中に置きながら、手段として、銭儲けも考えなくちゃいけないし、というのはあると思うんです。生きなくちゃいけないんだから。