梅原真氏講演 要旨
「農業・林業・漁業をデザインする」
(一次産業をデザインする)
デザインという仕事をしているのですが、デザインという仕事が、いまいちカタカナで分かりにくい。最近いい言葉をみつけました。デザインというのは「表現する」ということでいいのではないかと。「自分は表現をする人だ」と思っています。
自分自身の身体を取り巻いている環境も、一次産業の部分が大きいですから、その部分が皆元気でないと、豊かでないと。自分も息苦しいよねというところで。
自分はそのデザインというものを一次産業に使いたい。一次産業は、表現が下手です。だから一次産業の表現を僕が代弁して出来るのではないか。一次産業が元気になってくる姿というのを自分の中で描いた。
(漁業をデザインする)
相手とコミュニケーションを交わし合う事というのは、大事な商品を売る時に大事な事ですね。それは相手にとって、その商品がどういう事なのかが分かる事。そして、そのものが短い時間で伝わる事。「漁師が釣って漁師が焼いた」という言葉は、「漁師が釣って漁師が焼いた」という、もうそこでほとんど商品が分かりますね。その時にシンボルマークというかな、言葉もそうだけども、一つの形というのが、コミュニケーションの道具になるわけですね。
「土佐の干物セット」よりも、「土佐の朝ご飯」という名前の方が2倍売れる。なんでしょうこれは。名前が変わっただけ。しかし、そこの所にちょっと謎というか、そこにポイントがある。コミュニケーションをやりとり出来る。干物セットと言われるよりも、土佐の朝ご飯と言われることによって、その商品性に付加価値が付く。つまりそんなにお金がいらないことで、その商品というものを相手に良く知って貰って余計興味を持って貰って、或いはご購入頂くという所は、実は、割にそういう簡単な所にもあるという話ですね。
「四万十川の青のり」。これをみやげとしても売っているわけですけれど、これが650円。だから、右から左へ動かしているよりも、付加価値が10倍以上付いています。という風に原材料にラベルを貼っても、一つの付加価値が付くものもあります。まあ、そうやって生きていきたいよね、っていうのが僕の考え方です。
ローカルというのは、お金が稼ぎにくいシステムの中におります。しかし、だから国が何とかしてくれるんであろうという発想よりも、自分達で何とか生きていく事を考えんとあかんでしょうという所が、先程の一本釣り藁焼きたたきでもそうですし、こういうものもそうですよね。
「島じゃ常識サザエカレー」。住んでいる人達が、コンプレックスの部分を持っているんやけど、「島じゃ常識ですよ」って、「お肉より美味しいですよ」というスタンスを持つためにパッケージにこの名前を付けた。飛ぶ様に売れたんですね。「この島じゃ常識」がなければ、サザエカレーだけではコミュニケーション出来なかった。心のチャンネルというか気持ちの持ち方は、こっちに変えるか、こっちに変えるかで随分違う。「島じゃ常識サザエカレー」の自信を持つか持たないかによって、事は変わるんです。
(農業をデザインする)
高知も茶所なんですが、それこそブランドじゃないですよね。全部静岡に送るからです。四万十川のお茶といわない、高知から来た渋茶ですね。95%静岡へ出そう、5%で自分達のブランドを作ろう、と言い始めて10年目にやっとできたのがこのペットボトルのお茶です。「四万十茶葉だけ四万十緑茶」というブランドが出来ますがホームページも作って注文を受けています。それで、コマーシャルを作ることになったけれど、お金が無いというわけ。演出を考えるものの一考に浮かばない。お金を使わない演出が。というので、おじいちゃん、おばあちゃんにお昼ご飯食べる時に縁側でご飯を食べてください、そして、今のお茶を置いといて下さい。その二人のやりとりをずっと見てて、はい出来ました、というて、そこだけちょきんと切ってコマーシャルが、15秒のやつ出来ました。
セミの声
おばあさん 「お代わりは?」
おじいさん 「いらん。いまんとこ。」
四万十茶葉だけ四万十緑茶~
たったこれだけのコマーシャルです。これは、広告フェスティバルというのに出したらしいけれど東京のステージ、ファイナルステージに行って大企業と一緒に戦っていましたね。こんな全部で予算が20万ぐらいしかないやつでよう戦った。と言う風に、この四万十緑茶のブランドを作っていくのにも、お金がなくてもできるでしょ、というそういう場面ですね。
美味しい物というのは、ものすごく面白いですよ。それはね、誰かが見つけてね、みんな買いに行くんです。ということで、少しずつそのシステムを作れば、そこから広がっていく。日持ちがする羊羹を今まで作っていたんですが、日持ちが持たないのをブランドにしようといったのが、先程の栗きんとん。
アイスクリーム屋さんが、アイスクリームが売れないというので、相談に来たんです。そこで、組み合わせたのが、どこの誰さんのゆずのアイスクリームという風に産地のわかる、その作った人がわかる農産物の柑橘でアイスクリームを作ろうという風に考えた。こういう産地と結び付ける或いは人と結び付ける事によって、アイスクリーム屋さんも一つの高付加価値を生むし、或いは、農家も、一つの出荷先になる。ここのアイスクリーム屋さん、今まで、年商6千万しか売れなかった。この展開をし始めて今2億になりました。パンフレット作ったんですね、その時のパンフレットの表紙に、「美味しいを走って探すカンパニー」。Aさんの文旦を探しに行く、できれば無農薬にして貰うという風な事をこの会社概要のパンフレットに会社のコンセプトとして、この3行を付けました。ここからまさに、引っかかってくるというかこの言葉に何かを求めてくる取引先が増えたという事ですね。
高柳の役場の方に、役場の仕事ではなく個人でその人が住んでいる集落のお米のデザインを作ってくれないかと頼まれたんです。それで、その方が送って来られた写真が一枚だけ。「じいさんばっかしやな」と思いまして作ったデザインがこれです。「じいの米」というので。どこにでも仕掛けがないといかんので、コシヒカリ100%でしょ、ここに生産者の名前が書いてあった。新潟県高柳町山中までは、皆一緒です。集落ですからその下に番地を書いて貰うボールペンで。そして、生産者の名前を書いて貰って認印を押して貰う。この認めの部分が、米のおいしさをどんだけ増すか。これも金がかからないことです。
(林業をデザインする)
四万十川の沈下橋、ここの回りは結構植林ばっかりです。そのヒノキが売れない。「売れない、売れない。売れない、売れない。」と、延々と言うてるんですね、何十年も。ひのきの板10センチ角。売れないなら僕売りますよ、っていうので作った商品です。板、これくらいの、それに焼き判を押す。においを持続させるために、ヒノキチオールという天然ヒノキオイルの中につけまして、出してくる。それをお風呂に入っていただいて、目つぶって開けてもうたら、ヒノキの臭いがプーンと。焼き判を押してあげて、オリジナルなグッズです。1個しかない。そういう手法でどんどん広げていきまして、四国電力とか、何とか生命とか、どんどんどんどんいきました。何と2年経ったとき、担当者が僕に言いました。「梅原さんヒノキ風呂1億円以上売れているんですよ」と。さっきの表現者に戻りましょう。ユニットバスがヒノキ風呂になれるという商品が1億円儲けている。
(ユタカナモノサシ)
自分の持っているユタカサノモノサシがある事が豊かな事であって、自分の豊かさが誰かに見られて査定をされる、そういう事ではなくて、自分の持っている豊かさがない事が豊かじゃないことである。つまり自分のモノサシを持っている事で豊かな事であるよね、と言うことなんだと思うんです。
ブナ林。実にこういうものを、人間、日本人はどうやって来たんだと。今でさえこれ捨てようとしていますよ。どんどんどんどん捨てようとしています。しかし、こんな物差しを捨ててしまって別のメジャーの所に行っているよね。
橋が架かった後は、沈下橋は危険だから壊すよと、で、壊した。なかなかそれは止まらない。どんどん、大きな橋を造る方にいったんですが、観光客の人がこの橋に集まりはじめたんです。観光客がたくさん橋を見に来る、タクシーを飛ばしてくるようになったというので、むしろ行政が沈下橋を残したんではなしに、時代の流れとか時代の価値観がやめさしました。というので、今この沈下橋は守られておりますけど、本当にここの橋は、自分の身の丈にあった身の丈をわきまえている橋ですね。川から泳いで飛び込むのが、子供達の遊び場になっていますし、この生活の空間、この川の水の豊かさ、ここで遊んでは魚を獲り、このおじさんは、多分鮎を釣りに来ています。こういうものの豊かさは、どんどん削られてきたけれど、どうもこの辺が、そのモノサシの中に入れておかなくちゃいけないんじゃないの、というのが今あるんじゃないでしょうかね。
ユタカサノモノサシっていうのの、物差し間違いをしてきたんじゃないかな。日本は。というのが、一つは僕の今考えていることですけれど。
そういう風にどこに目線を持っていくか。こういう広報誌は、王道を歩いているものに目線を持っていきがちですけれどここに持っていかない。誰もが、ひょっとしたら目を向けない部分に視点を持っていく。ひょっとしたら見逃されてしまうものでしょう、今見ていたのは。
要は、自分の町を楽しむ事やと、それが、全てやないのと。それを置いて、来て下さいの方に寄っていないかと。みんな。そして、何もない何にもないと言った上に、来てくれる事ばっかしの装置を作って、来てくれる装置を作ることにエネルギーを費やし過ぎて、自分達の所には、一杯あることさえ忘れてしまっているんじゃないですかというのが、この砂浜美術館の、「何にもないじゃないやん。むしろ何にもないのが、素敵じゃん。ポールと紐だけはずせば、大きな構造物に見えるひらひらしているTシャツの展覧会が、一瞬にして、元どおりに戻る事の方がかっこいいじゃん。もとに戻る事の方がええやん。あそこに何が建って嬉しいねん。」というところを表現したかったんですね。
皆何もない、うちの地域には何もないという様な言葉が良く聞かれます言うことからいえば、その例としては、「何にも無いんじゃない。あなたの心の中にユタカサがないわけであって、そういう風に思えないあなたの方が豊かじゃないんじゃないですか。」みたいな所に話はいく。
自分のスタンスのモノサシを持っている人の方が豊か。そのモノサシは誰にもある。色んな事言ってもだめ。そのモノサシは違うよと言っても、その人のモノサシですから。モノサシさえ持ってない人のほうが多いですよ。モノサシを持っている人イコール幸せな人。豊かな人。と言う風に僕はずっと思ってましてですね。行政の中にもそのモノサシがどこにあるかわからないでしょ。そのモノサシの姿さえ少しでも見られれば、そっちの方に行けるのになあと。そのモノサシが見えて無いことは、もう既に日本人は気付いているのだけど、しまったなって気付いているんだけど、少し後ろに戻るのか、気付いてしまっているんだけれども、行きすぎてしまっちゃえと行くのか、いま微妙な時。もうちょっと手当てがつかんかもしれない時にはおるんかな、という風に思うんですけど。