三重県は中部地方?近畿地方?
結論からいえば、三重県は中部地方にも近畿地方にも属していると考えています。
地方の区分については、法律などに基づいて一律に定められている訳ではなく、歴史的背景や地理的条件、経済的・社会的関係など、様々な要因を考慮して、適宜分類されているようです。
教科書や教材、辞書での分類につきましても、教科書会社で統一的な基準を設けてはおらず、社会経済情勢や学術研究の成果などからの、その発行会社のご判断によるものとうかがっています(三重県は地理的な要因から近畿とされている場合が多いようです)。
法令面では、近畿圏整備法(昭和38年)における「近畿圏」、中部圏開発整備法(昭和41年)における「中部圏」のいずれにも三重県は指定されています。なお、国土形成計画法では「中部圏」に指定されています。
国の省庁の所管区分では、三重県は中部・東海に含まれることが多くなっていますが、国の地方機関の管轄区域は各々異なっており、その取扱は一律ではありません。
< 国の所轄区分における三重県の例 >
- 中部管区警察局 …三重、富山、石川、福井、岐阜、愛知
- 中部経済産業局 …三重、富山、石川、岐阜、愛知
- 中部地方整備局 …三重、岐阜、静岡、愛知
- 中部運輸局 …三重、福井、岐阜、静岡、愛知
- 東海農政局 …三重、岐阜、愛知
- 近畿中国森林管理局…三重、石川、福井、滋賀以西(本州のみ) など
県行政の面からは、現在、三重県では、 中部圏知事会にも近畿ブロック知事会にも参画しています。
三重県は、中部と近畿の結節点に位置し、それぞれの中心都市である名古屋と大阪に近接していることもあり、生活や文化、経済など様々な面で双方との関わりを持っています。
交通手段、情報通信技術の進歩に伴い、私たちの生活範囲は県や市町村の区域を越えた拡がりを見せ、名古屋や大阪との距離感は縮まっており、特に北勢地域は名古屋の、伊賀地域は大阪の通勤・通学圏になっています。
本県が県民の方々のニーズに対応した県行政を進めるためには、中部、近畿のいずれか一方の立場からの対応では十分ではないということが言えます。
こうしたことから、本県は、中部、近畿の両圏域に属しているとの認識に立った、双方の視点からの県行政を進めているところです。
【参考:地理分類の歴史的な経緯について】
古代律令時代、大和・山城・河内・摂津・和泉国の5か国が畿内として定められ、諸国は七道に分類され、三重県に関係ある伊賀・伊勢・志摩国は東海道、紀伊国は南海道に属しました。諸国は畿内からの遠近によって近国(きんごく)・中国・遠国(おんごく)に分けられ、伊賀・伊勢・志摩・紀伊国はすべて近国に含まれていました。
近畿地方という呼称が使われるのは、明治時代以降になります。畿内と近国の一部がそこに入り、明治36年発行の国定教科書でも三重県は近畿地方として扱われました。
こうした経緯から、教科書や辞書類では三重県が近畿地方として区分される場合が多いようです。
国定教科書「小學地理」(明治36年10月発行 文部省著作)の記載
「小學地理 二」第五 近畿地方
「近畿地方は、本州中部の西南に連り、中に、山城、大和、河内、和泉、攝津、伊賀、伊勢、志摩、近江、丹波、丹後、但馬、紀伊、淡路、播磨の十五國あり。これを、行政上、京都、大坂の二府と滋賀、奈良、三重、和歌山、兵庫の五縣とに分つ。」 (日本教科書体系 近代編/講談社発行)
(「中部地方」については、この教科書では「本州中部地方」とされており、その編纂趣意書において、「関東及奥羽ト近畿トノ中間ノ地方ハ別ニ適当ナル名称ナキカ故ニ姑ク本州中部地方ノ名ヲ用ヒタリ」(同上)とされています。明治43年以降に使用された教科書では「中部地方」と変更されています。)