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平成20年09月09日

三重県戦争資料館

体験文集:復興・新教育・女性の活躍

タイトル 橋のたもとの蔵は見ていた
   塔世橋のたもとに白い壁の蔵が建っています。この蔵は明治三十一年三重県農工銀行が設立され、明治三十四年に蔵は建てられ、昭和十二年三月二十五日合併により日本勧業銀行津支店となりました。その後昭和三十一年七月二日より長らく三重県町村会が使用いたしておりました。明治、大正、昭和、平成と津の街の移り変りを眺めてきました。
 私は戦後まもなく銀行に入行いたしましたが、この蔵の中で当時の支店長代理から七月二十四日の爆撃の話を聞かされました。空襲になると現金や書類を金庫にしまい、倉庫の扉を粘土で密封してから退避しますが、蔵の窓が開いているのに気づき、窓をしめようとしますと、窓の下に女の人が子供を抱いて伏せていました。子供の泣き声が中まで聞こえ気になったので、蔵の扉をしめると石垣をつたって川に降りてみました。その途端すごい爆風で必死に杭にしがみつき気がついてみるとその辺にいた人々は爆風で飛ばされてしまったのか、誰もいなかったそうです。私は蔵の窓をしめるたびにこの話を思い出していました。女子の先輩の人達の話によると、営業室はめちゃくちゃになりとても営業するどころではなく、そのまま家に帰ったそうです。その後の空襲で家は焼かれ、親戚の家へ疎開したりして、女子行員は一人も出勤することなく、休んだまま終戦を迎えたそうです。
 戦火が収まって後、国民を悩ませたのは食糧不足であり、今一つは急激なインフレでした。二十一年二月十七日預金の封鎖、新円切り替えが行われ、国民一人当り百円だけ新円と交換することとなり、手元に残った旧紙幣は強制的に預金させ、その払出しは一か月当り世帯主に三百円、世帯員一人につき百円と制限され、給与の支払いは月額五百円までは新円による現金払いとし、残りは封鎖払いとされました。その後封鎖預金は第一封鎖預金と第二封鎖預金と区分し、第二封鎖預金は補償打切りによる金融機関の損失補填に備えられ、第一封鎖預金は一口三千円未満のものはその全額、三千円以上のものは一世帯一人につき四千円に世帯人員を乗じた金額で、それ以上は第二封鎖預金となりました。二十三年三月三十一日再建整備を完了し、当行は第二封鎖預金も打ち切ることなく全額預金者に支払いましたが、当時インフレのため貨幣価値が下がり何にも買えませんでした。
 戦争中発行した戦時債券は十年経ち、満期が到来し額面の通り支払いましたが、満期から十年経って時効により消滅いたしました。
 終戦、とくに食糧の欠乏は著しく、夢といえば ゛おいしいものを腹いっぱい食べたい ″金より物といった切実な時代で、宝くじは、賞品にタバコがつき、爆発的人気となりました。そのなごりで今でもタバコ販売店が宝くじ売捌店になっています。又大変な人気を集めた三角くじ、正方形を二つに折って糊付けした三角形の被封くじです。ヤミ市に机を置き、米櫃(こめびつ)の罐(かん)の中に三角くじを入れて売り始めるとたちまち人が集まり、売り切れました。二十二年三重県復興宝くじが発売され、その賞品に一等が住宅一棟、地下タビ、カッターシャツ、カタン糸等で、特に土地付きの住宅には魅力がありました。地方宝くじは地方財政補填のために発売され、今年で五十年。この間宝くじ納付金として県の財政に少なからぬ貢献をいたしました。
 戦後農地改革があり、この農地改革に伴う農地買収代金支払事務には、現金支払外、農地証券が発行され、元利金支払、買上償還事務があり、全国にわたってその件数も莫大で処理上細部の点まで綿密さを要する仕事だけに苦労いたしました。
 新円切り替え後、再封鎖の不安を抱いてか「タンス預金」と言われる傾向になり、預金吸収運動を推進させるために、ミシン、タオル、サッカリン等の景品くじ付の福徳定期預金、復興定期預金、無記名式の特別定期預金といった新種預金が創設され、銀行は競って新円預金の獲得に努力いたしました。私達女子行員は事務の合い間や、土曜、日曜日に親戚を始め知人友人に預金の勧誘に歩き、骨身惜しまぬ献身的な奮闘をいたしました。
 政治経済金融諸制度の改革により、当行もこの激浪の中に立たされ、今まで債券発行機関としての特殊銀行でしたが、普通銀行に転換し、預金吸収に積極的な活動をいたしました。そして、明治の三重農工銀行時代より続いた、県金庫事務の取扱いも百五銀行に移りました。
 電話の普及にともないその架設に対して電話債券が引受けられ、電話債券発行事務取扱いをし、津支店は債券母店として三重県全体の取りまとめ店となり、そして電々公社が民営化されるまで行いました。この様に地域の人々の中に密着し親しみのある銀行となりました。
 三十一年七月「三重会館」が新築落成し移転、蔵は三重県町村会に譲り渡りましたが、塔世橋のたもとに私達のシンボルとして建ち、津の街を眺めています。

タイトル 農家の悲願が実った日
本文  昭和二十二年九月九日は、いわゆる戦後の農地改革によって、三重県下で初めて、田んぼが耕作する者の手に渡った日である。
 幕藩時代以来、ほとんどの農家は収穫した米のかなりな割合を、「年貢米(ねんぐまい)」として領主または地主に納めなければならなかったから、生活は苦しく、農地はいつになっても自分のものにはならなかった。
そうしたことに反発して、大正の半ばごろから全国的にまき起こった小作争議の旋風は、三重県下でも各地で地主と小作人の対立抗争を招き、なかには大審院(いまの最高裁)まで調停を持ち込んだものさえあった。
 父祖何代にもわたって叫び続けられてきた「土地は耕す者の手に」というこの願いは、しかし思いがけなくも終戦による占領政策の一環として解決をみる運びとなった。
 もっとも、わが国でも農地制度の改善を図るため、自作農創設事業が大正十三年(一九二四年)以来実施され、三重県でも国の方針に従って、農政上の最大課題として、農地購入資金貸付の制度などにより推進されてきた。そして私は県職員として、昭和三年(一九二八年)三重県内務部農務課に勤務し、この自作農創設事業に取り組んできたのである。
 昭和十三年、農地調整法が施行されるに伴い、農地委員会の設置などによって、この事業は一層整備されたが、なんといっても地主の理解と協力による小作地の開放が先決であることから、市町村では該当地主にその旨要望の手だてをつくす一方、県では大地主の実状を調べた。すなわち十ヘクタール以上が二百三十戸、うち二十ヘクタール以上九十戸、五十ヘクタール以上十八戸、四百ヘクタール以上は二戸ということが分かった。
 そこで十九年八月十六日、県会議事堂に地主八十三名の参集を得て「自作農創設懇談会」を開催し、決戦下における食糧増産の根本策として、所有農地開放に一段の協力を求めたが、なかなか計画通りには進まないまま、終戦を迎えたのであった。
 ところが、占領下という特異な状況のもとで展開された今度の農地改革は、わが国の歴史に長く深く根を下ろしてきた地主対小作人の関係を、急転直下に解決し、伴う紛争にもようやく終止符が打たれることになった。
 昭和二十一年には、この改革の実行のため、新たに十一月に農地調整法、十二月に自作農創設特別措置法が改正施行され、それに伴って本県でも十一月十八日、新しく農地部が設置されて、私も従来の関係から、農地課でこの事務の一端を担当することになった。
 しかし、その第一線の執行機関は、新しく改組された市町村農地委員会で、その委員(自作、小作、地主別に選挙された十名)と、専任職員によって、まず市町村民大会、集落ごとの集会などで法令の内容を説明、とくに地主の理解と協力を求めた上、不在地主は小作地全部、在村地主は七アールの小作地を残して買収し、当の小作者に売渡すという手順で進められるのだが、在村地主の場合はどの小作地を買収するか、あらゆる角度から検討し、また買収基準価格は、国の定める十アール当たり県平均で田約六百円、畑約四百円などの問題で異議の申し立ても多く、そのつど前記の委員と職員は一体となって、厳正公平を第一義において解決を図られた上、県の農地委員会の承認を得るという事務処理に、言語につくせない苦労を重ねられたことも忘れるわけにはいかない。
 そうした過程で迎えた昭和二十二年九月九日は、三重県の農地改革にとって、まさに歴史的な日であった。
 それは、本県最初の政府買収農地の買主となられた○○○○○氏(現・一志郡三雲町)にとっても終生の記念すべき日で、三重軍政部バーンズ隊長、同ウィルス民間情報教育課長はじめ、県下各界代表の列席するものものしい中で、時の青木理知事によって第一号の売渡通知書が手渡されたのであるが、これは独り萩原氏ばかりでなく、多数の農家の長年の悲願が実った一瞬であり、自作農創設事務に半生を傾けてきた私にとっても、ひとしお感慨深く、感激極まる一幕であった。
 その後も私は、こうした行事や、農地改革完遂の記念式典に参加するたびに、旧地主の心情などあれこれと追憶にふけったことであった。
 こうして農地改革は完了し、多くの農家は生産力の向上増進、経営の刷新改善に努め、農村の発展と農家の福祉充実に大きく成果を上げ、改革の目的は達成されたのである。
 しかし昭和四十年代に入って、急ピッチで進展した経済成長の余波は、農業のあり方を一変させ、また外国との関係も多角化して、農業をめぐる状況がゆれ続ける現在、官民一体になっての強力な施策の推進が痛感されるなど、複雑な思いに駆られるこの頃である。

タイトル 戦災復興土地区画整理事業とともに
本文  太平洋戦争の末期に米軍による日本の都市に対し無差別爆撃が行われ、東京を始め、日本の都市の大部分が壊滅した。そして最後に、広島、長崎に原子爆弾が投下され、昭和二十年八月十五日に苛酷な戦争は終った。
 そしてこの年の十一月に、内閣総理大臣直属機関として戦災復興院が設置され、同年十二月に戦災地復興計画基本方針が閣議決定、それに基づき三重県内では、知事施行として桑名、四日市、津、伊勢(宇治山田)において戦災復興土地区画整理事業を実施することになり、直ちに疎開工事事務所の機構の中で調査を開始し、昭和二十一年五月に桑名、四日市、津、伊勢に都市計画復興事務所を設置して、事業に着手した。
 また、昭和二十一年十月、国は復興都市計画の手段として、法制的に新たに特別都市計画法を制定し、被害が極めて大きい都市百十五都市(桑名、四日市、津、伊勢を含む)を特別都市計画を行う都市として指定した。
 特別都市計画事業は、戦災復興土地区画整理による大規模な事業で、仮換地指定(換地予定地指定)、建物等の移転、宅地整地工事、街路工事を急速に進めていたが、国家財政及び地方財政の窮迫により、ドツジ・ラインに基づく経済九原則を樹立し、昭和二十四年六月戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針が示された。それに従い事業内容を縮小し、昭和二十五年度より五か年計画にて施行することになった。
 私が四日市都市計画復興事務所に臨時職員として就職したのが昭和二十三年で、工務係に配属され、工事測量、設計、監督補助を行った。
 四日市の復興計画は、市街地を分断していた近畿日本鉄道(諏訪駅から国鉄四日市との合同駅に迂回)の軌道移設を行い、東西に結ぶ中央道路(70m道路)に相対して国鉄(JR)四日市駅と近鉄四日市駅を設置し、市役所の東側を南北に50m道路、国道一号線を36mに拡幅する大都市級の壮大なものだった。
 工事測量現場へは、地下足袋にゲートルを巻いて行き、あちこち焼け跡が未整理となっている街に出て、計画街路の交差点杭を打ち高いヤグラと長い竹竿、そしてポールとスチールテープ(少し前までは竹テープ使用)を用いて測点杭を打ち、続いて縦横断測量を行った。
 事務所では、測量成果を基に原図を画き、これを日光による青写真で図面を作り、工事の実施設計をまとめ、工事請負業者が決まると、現場渡しとして中心杭を指示し、工事測量(丁張り)を行った。
 その当時の事で印象に残っているのは、近鉄四日市駅の予定地付近で三交の軌道敷をはさんで菜の花が一面に咲くのどかな田園風景で、収穫時に焚く菜種がらの煙と鈴鹿の山に沈む夕日で安らぎを覚えたものだ。
 又、昭和二十七年三月には、その敷地を利用して四日市博覧会が開催された。そこで展示された戦後の新しい工業製品等により、産業の躍進と復興の芽生えを感じた。
 事業的には、昭和三十一年度に実施した近鉄四日市駅前の植樹帯及び舗装工事の設計と工事測量では、施設の機能的な位置形状とか舗装の排水等で苦心したが、戦災で廃墟となった都市の復興、新しい道路、水路、公園が整備されてゆく喜びと誇りは私にとって貴重な体験であった。
 その後、経済社会情勢の変化と、県内における十三号台風、伊勢湾台風によるあいつぐ大被害の復旧のため、県市とも財政に窮し、当該事業は大幅に遅延し、そのため、事業の推進および新たな予算措置として、事業区域内において、公共事業である都市改造事業、街路事業、公園事業、失業対策事業、特別失業対策事業を行い事業の早期収束を図った。
 伊勢湾台風のとき、私は桑名に転勤しており、特別失業対策事業の施工中であった。現場は浸水のため約一か月間工事が中断し、更に資材(セメント)が水浸しで使用不能となり難渋したものだ。
 また、復興土地区画整理事業費は物価高騰のため増大し、追加補助は認められたものの、ついに、昭和三十四年度で打ち切られた。(その後、四日市および津は、事業の早期収束のため換地処分に必要な経費に対して国庫補助を受ける)それ以後は県単独事業費のみとなったが、その財源の一部として保留地処分金が充当され、事業の進捗が可能となった。そして、ようやく清算業務を残して昭和五十六年七月津の換地処分を最後に県内四都市の事業は収束した。長期間経過したこの事業の成果として、これらの都市の道路、公園等都市基盤が整備され、都市発展の礎となった。
 戦後五十年を迎えた今、私はあ・轤スめて平和の尊さを痛感し、絶対に戦争は起こしてはならないと思っています。

タイトル 玉音放送を聞いた「名張少女(なばりおとめ)」の五十年後雑感
本文  五十年前の八月十五日、敗戦の玉音放送を聞いた名張国民学校五年「は組」の「名張少女」四十三名の作文がよみがえった。当時の「は組」担任だった西出美津先生(上野市でご健在)が、五十年間、大切にしまっておかれたものである。今年(七年)の三月末、私に送ってこられた一束の黄ばんだ原稿用紙を見ておどろいた。時、まさに世間は宗教のマインドコントロールでさわいでいた。
 何人かの友人に尋ねても、そんな作文を書いたことすら覚えていなかった。読んでみると、殆ど全員が、初めて聞いた天皇のお声にもったいないと思い、負けたのは自分達の責任だと書いている。そして鬼畜米英に原子爆弾を先に使われて、くやしいと綴っているのだ。神国日本の三千年の歴史がけがされて残念。天皇陛下に申しわけがないと表現している。私の作文から抜萃する。
 「八月十五日 父が『今日正午に畏くも天皇陛下が御自ら御放送遊ばされるから、弘子も聞きなさいよ。』といはれたので私はたいへんもったいなく思ひました。それから私の心は早くお聞きしたいのともったいないのとでそはそはしてなかなか落着きませんでした。やがて時計が正午を打ちました。……君が代が奏されました。天皇陛下の御放送が始まりました。……私ははっきりわけがわかりませんでしたが、後で父に聞きますと、『天皇陛下はこの間廣島へ原子爆弾が投下されたのでこれからもあのやうな事があったらとたいへん心配しておられたが、將来に必ず日本民族がほろびるだろうと仰せられてボツタム(ママ)宣言を受け入れられたのだ。その事を今、和平の大詔によって明らかとなったのだ。』と、いはれた。……學校で先生からお話をお聞きして私達は皆、机の上へひれ伏して泣きました。さうして一そう頑張らうと思ひました。終」
 提出日が九月初めとなっているし、原子爆弾と表現しているところから、夏休みの宿題だったと思われる。提出していない人も何人かいるのだ。広島、長崎と落とされた直後、敗戦のあとは、ピカドンとか新型爆弾とか云われていたように思う。
 私達が一年生入学の時に国民学校となり、その十二月八日に大東亜戦争が始まったのである。それ以来、少国民、皇国民として、軍国教育を受け、日本は日一日と戦時色が濃くなっていった。十一才の時にこんな作文を書いた私達は、批判力もなく、思考力も幼い年頃で、唯、スポンジが水を吸い込むが如く、先生や両親、新聞の記事などに染まっていったのでした。
 最近友人達との会合の中で、これが建前か、本音か議論がふっとうしました。宿題として出すからには、こう書くのが極く普通だったのだと、その時の背景から思われます。しかし本音のところでは、子供の事ですから、灯火管制もなく、開墾作業などの重労働から開放されて、嬉しくほっとしたのも事実です。私など殊の他身体が弱かったものですから。
 玉音放送は、言葉遣いが漢籍の素養のある人ならいざしらず、又放送技術も悪かったようで、殆どの国民には理解出来なかったようでした。私達子供は、ラジオの前で大人が聞いている様子を、遊び半分に眺めていたと云ってよいでしょう。少なくとも私はそうでした。校長先生でさえ、まだ頑張るようにと仰せられているのだと、先生方に言われたとか、五十年たった今、聞きました。
 こうした状況の中、翌日か翌々日、登校して先生から説明を聞き、全員は青天のへきれき。そして、今で言うマインドコントロールされた作文を書いてしまったようです。
 教育はありようによっては、善にも悪にも影響する重要なことと、今更ながらに考えさせられます。戦時中はラジオの天気予報もなく、情報もかたより、一億一心火の玉と、戦地へかりたてられ、特攻隊員として散っていった先輩諸兄の犠牲には、本当に胸が痛みます。
 私達は国民学校在学中で、機銃掃射を時おり体験したというものの、牧歌的な田舎の小さな町で、比較的食糧にも恵まれた生活でした。しかし、見聞した戦争の惨状と、軍隊が政治までも支配していった歴史を後世に語りついでいかなければなりません。
 戦後、新制中学一期生として、男女同権、主権在民と、絵にかいたお餅のように、民主主義を教わり、おどろきましたが、今から思うと、戦争の経過や反省を教わることもなしに来てしまったようです。
 戦後五十年の平和は、有史以来はじめてのことですが、色んな未解決な問題が、ふき出しているようです。教育の問題、宗教のこと、……原点に立ち帰って、不熟状態の民主主義、主権在民など、地に足つけて考えていきたいものです。新制中学一期生も還暦を過ぎました。
 七年夏、作文集は「神國日本は敗けました」(東方出版)として出版されました。

タイトル 廃墟で若ものたちは元気だった
本文  第二次世界大戦は、幾十年調べ語り論じつづけてもつきない。極限を超えて深刻な体験と問題は今日もまだ続いている。そんな中でまさに青年期に戦争に遭い、学途中で軍服生活に入ったといえ、まだ四十五年八月のうちに、「臨時召集を解除され」と、「大きな声で現金な奴」と隊長に苦笑されながら、申告し、部隊のトラックで松本市南の駅へ送ってもらい、焼跡の名古屋を、夜行列車の窓の白む頃始めて見たという私などは半人前の戦争体験もない。むしろ帰り来て塔世橋から廃墟ごしに結城神社を遠望したり、母校津中が鉄骨の屑になっているのを見たり、無二の親友が爆死したお屋敷町を徘徊したりしつつ、切実に「後めたさ」を感じたものである。帰ったわが家も屋根が大破、晴れの夜は寝床から月見、降れば畳をバケツにかえしばらく呆然。
 そうこうして草茫々(ぼうぼう)の大学に「復学」はしたものの、ノートどころか食う米もままならぬ。陸軍の靴や袴(こ)(=ズボン)をはき古着の学生服、先輩ゆずりの角帽でその日食うためのバイトに忙しく、大学の講義もろくになく、二年で「早く出てゆけ」と、就職難どころか会社自体が大崩壊、国家自身が被占領の街へつき出される。「皇国」は消散し、マルクスはまだ押入れの中、岩波の本が出ると噂立つと寒空に学生たちの行列がつづいているという中で、思想の飢餓もきびしかった。
 しかし総じて当時の学生は軍隊帰りのタフさと新憲法のゆめを抱いて元気であった。学生自治会の組織化に熱中するもの、教会に集うもの、文学論に徹夜するものさまざまいたが、その背に日本国憲法が、草案、審議、公布、施行と太陽のように上ってきていた。
 私自身も、教育自治連盟という-今振返れば泡沫的な-教育運動に加わり、地方自治専攻の教授の室に出入りし、卒業とともに何の成算もなく連盟三重支部をゆめ見て帰郷する。ゆめはゆめに終わったが、七十三才の今日なお、若いひとと共生しておれるのは若い日の馬力に負う部分もかなりあろうと思う。
 帰郷した頃、三重の若ものも多種多様に元気な顔をしていた。新町小学校で激論していた三教組の若い闘士たちの顔、直接はふれなかったが松阪その他各地で「文化団体」が簇生(ぞくせい)していた。鈴鹿や員弁の教員のサークルもあった。すぐ近くには早逝した県議小田義重君らも雄弁をふるっていた。
 一方、軍政部CIEや新設の県教育民生部社会教育課も「公民館をつくろう」「PTAを進めよ」と、それよりはるかにラディカルな六・三・三制改革と併行して走っていた。ことにこの地方のCIEはラディカルであったと思う。とにかく右も左もごっちゃごちゃ゛軍国主義をのりこえろ、文化国家をつくり出せ、進め!進め!″の元気があった。その蜜月は短かったが。
 帰郷一年後、私は久居連隊跡の新制高校に迎えられた。県立一中と県立一女が対等合併し、しかも周辺の高校と対等の格で出発しているという点は全国的に珍しいことではないか。その上、女学校から来た青年教師が○○○、○○○、○○○○と賑やかで、私も実は彼らのすすめで久居に来たのである。加えて当時の津高には歌人川口常孝、弁論家小出幸三、やや年上に速水正等が賑やかであった。私も静かであったわけではない。
 これら青年教師はほとんど本気で、日本の新教育を創成してゆくのは俺たちだという自負心に燃えていたから、生徒の一つの問題行動をめぐって職員会議が夜までの教育大討論会と化し、余熱が宿直室での二次会になることなど珍しくなかった。
 生徒も雑多な経路をへて集まっていた。明朗で横着であった。「ゴキブリって英語で何というの」とカマをかけて新任教師をテストし、それを通ると「先生、教室なんかうっとうしい。木陰で授業しようよ」とこわしかける優等生も。「青い山脈」はここにもあった。しかしそんな生徒も引揚船の経験、空襲の夜の恐怖、そしてシベリア抑留の父への心配を抱いているので、青年教師らの理想と呼応する点は広かった。いま、その頃の卒業生たちが、多方面で頑張っていてくれる。「平和とか人権の尊さを私たちは高校生活の全体で学んだ。」と時おり聞かせてくれる。
 廃墟で青年たちは元気だったというこの感想が、現在の、未来の日本へ向ってどう結実しうるのか、思うことは多い。しかし戦後民主主義の不徹底とか矛盾とかも直視しつつ、その肯定面も確かな遺産へと練りなおす必要を痛感する。われらの民主主義はまだ創造の途上にある。

タイトル 戦後の教育民主化の忘れられぬ一駒
本文  八月十五日の天皇の戦争終結の詔書の放送を正午に聞いたのち、内閣は総辞職、その日のうちに新しい内閣が組織された。一億玉砕の抗戦から降伏への百八十度の転換、しばらくは国民は呆然としていたのが実感だった。
 何しろそれまでは民主主義という言葉など危険思想で英語も敵性語というので、学校の授業からは追い出され、京都帝大卒の英語の○○先生なども勤労作業の授業の監督をされていたのだから。女子中等教育のにない場である女学校でも、男子の中等教育の実施校である旧制津中学校とは著しく差があった。教師陣から教料書の内容、日常の教育、しつけなどでも一段低く、封建時代の家族制度の因習がそのまま家庭を支配し、女性の発言権はほとんど省みられず、女子は家庭に入ると同時に進歩を中止して夫に仕え、子を育てることが女性の本分とされた。県立津高女の校歌を見ると「おみなの道をおさめつゝ おみなの道をきわめつゝ のちに幸ある身の運を開くは今の時ぞかし」という詞がある。おみなの道とは何か、夫への忍従と無抵抗、子を生み育てる子育ての担当者ということである。女子が自主的な意見などを持ったり、口にすれば女だてらにとか生意気なとかいわれたのである。
 無条件降伏のあと連合軍が進駐して占領政策が矢つぎ早やに施行された。それは全く嵐のような民主化であったといってよい。教育政策についても婦人参政権、労働組合結成、教育民主主義の採用となり、十月二十一日には軍国主義教育者の即時解職追放令が出た。天皇「現神」の特権否認、学校にあった神棚はのぞかれ、御真影奉安殿はこわされて御真影は県庁へ返納された。男女平等が憲法に明記され教育の上での不平等は撤廃されることとなったが、深く根づいた男女の不平等の因習と意識は長い女性自身のたたかいと努力を必要としていた。
昭和二十一年の春、第一次アメリカ教育使節団が来日、教育の進路について示唆を与え、それに基いて六・三・三・四の新学制と新しく社会科の学習が重点とされた。教育の民主化、教育の機会均等ということが重点であった。津市には教育民生部という組織がおかれて、日本の軍国主義教育の解体と新しい教育政策の実施を見守っていたようだ。そうしたある日突然上山熊之助校長が軍国主義教育者として追放されることになった。戦争中の○○校長は戦争中の責任者負って辞職、そのあとに迎えた校長であった。戦時下の生徒会雑誌に書かれた内容が問題になったという。六・三・三・四制による学校の解体と統廃合がどう行われるのか、それが大問題で毎日放課後はその論議を果てしなくつづけていた。市内には県立津中学、県立津高女、県立津工業、津市立励精商業、津市立高女と中等教育をになうのは五つの学校である。新制中学は全部新設となるが、中等教育はどう新制高等学校に再編するかは大問題だったのである。○○校長辞任の後を受けて○○○氏が新校長として赴任された。
 教育の民主化政策の中で教育民生部は教育の国家統制を排除、学校にもPTAとして父母住民の声を、生徒会組織として教育を受ける生徒自身の声を反映させるよう、民主的な組織づくりや民主的な会議の持ち方などの講習、アメリカ式新教育の紹介などを精力的に行った。私もエセル・ウイード女史の講義を県会議事堂で今は亡き竹島とよ、大石あや、の両先生と三人で受講したのである。伝統ある、そしてある意味では保守道徳のにない手であった県立津高女にも生徒会が生まれるのは時代の必然であった。さてその生徒会がこの高校の再編に大きな関心と意欲をもって自分たちの問題として取組みはじめたのであった。彼女たちはそれまでのことにこだわらず全く原則に立って教育の機会均等と男女平等の上から旧制津中学校と旧制県立津高女の合併による新制津高等学校の成立を希望し、これを生徒会幹部が県教育委員会と教育民生部に自主的に陳情を始めたのである。正に新時代の到来を実現した快挙であったというべきであろう。時の教育民生部は近畿地方の中ではとくに原則に立ったラヂカルな考え方だったようだ。近府県では男子校の県立第一中学校は全く単独で新制高校となっている。旧制愛知一中は旭丘高に、北野中は北野高校に、京都一中、神戸一中も皆然りである。県立第一中学と県立第一高女が合併して津高校にというような再編は全国でも珍しいのである。
 津高女は激しい焼夷弾攻撃の中、杉野校長の必・€の消火でこのあたり唯一の焼けのこり校舎であったが、義務教育優先という教育民生部の意向により新制橋南中学に校舎を明け渡し、久居の三十三連隊兵舎跡へすでに焼け出されて入っていた津中学と統合すべく大移動、更に教員は中学、高等女学校より新制中学へ再配置され、嵐のような教育再編が始まったのだ。

タイトル 学制改革と職業教育実践
本文  太平洋戦争の末期昭和二十年四月、中等学校への進学に胸を膨ませて私は農家の二男坊で兄貴も通学していた県立農林学校の林業科へ入学した。電車通学で宇治山田線中川駅乗換えで名古屋線へ、そして久居駅下車、駅から学校まで徒歩二十分、県立農林学校は周囲樟(くす)の木が茂り、運動場から眺めた校舎は実に美しく、校庭の樹木特にモミ、イチョウの緑が印象的であった。
 「君達は日本の国を背負って立つ軍人の幹部候補生になる有望な人達である。よく自覚して勉強に励んでもらいたい」教官のこの言葉通り日常生活は厳しく、勉強も熱心に教えられた。特に教官に対することよりも、下級生にとっては上級生に対する礼儀作法は手厳しく指導を受けた。小学校初等科から入学した新入生にとって、家を出て家に帰る道が規律正しい生活の日課であった。
 太平洋戦争の戦局は日本にとって不利と感じても、口に出せなかった。宇治山田市(現・伊勢市)、津市が空襲に逢い電車が動かない日でも登校した。松阪から久居まで電車の線路沿いに歩いた。津方面に勤めておられる人々も同様である。雲出川の鉄橋を渡る時は大変勇気がいった、狭軌道の鉄路が二本、その中央部に巾十五センチの板が二枚並べられている上を歩いた。現在の鉄橋の様にトラスはない、渡ることが困難な人は二百米下流にある橋まで迂回せねばならなかった。
 学校に着いても空襲の回数が多く授業にならない避難の毎日であり、ボーイングB29が日本の戦闘機と闘って青山方面へ落ちていったのを目撃したのもこの当時の出来事であった。実習等の作業は農林学校生徒全員の集団行動で学校行事なども行われたあの暑い夏の日、昭和二十年八月十五日全校挙げて演習林の下草刈り実習に参加した日であった。朝集合場所で教官からの連絡事項は「今日特別な放送が行われるが君達と直接関係のない事だ。一日下草刈り実習を実施する。場所は一志郡中郷村地内(豊地地内)南山演習林」であった。その日で日本は戦争に敗れた。神風の吹く日本が負けたのである。
 一学期末の軍事教練のテストは軍人勅諭の暗唱で、一人ずつ教官の中央に立って暗記したことの総てを発表した。一般教養科目の授業も実施されたが、特に軍事教練という科目の履習は特別で、履習した一つ一つの体験が明確に残っている。八月十五日以降、当分の間、学校で行われたことは教科書の墨入れで軍事に関係する文字、文章は総て塗りつぶした。
 昭和二十一年から昭和二十三年の間は戦後の動乱期であった。教科書を始めとする教材は不足し、その日その時間の授業を消化するだけの教材が与えられた。その時期の三月の卒業式の日、松阪駅を出発した各駅停車が火を吹いて焼けた。先輩はこの事故の犠牲者となって亡くなったし、同級生の友は身体にやけどを負っての災難であった。
 新しい教育制度の下で高等学校が発足した。昭和二十三年五月二十三日、中村一郎校長代行は新制高校の発足について挨拶した。普通科を併設、女生徒もいた。男女七才にして席を同じくせずという躾(しつけ)教育の大変化であり、質実剛健の気風を培ってきた男子生徒にとっては日常生活上戸惑いが多かった。
 旧制県立農林から新制高校に変化しても職業科としての教育内容は継続したものだった。旧制中学で二か年、付設中学で一か年、計三か年の職業教育は実に理論と実際が併行していたから高等学校が発足して学習することは半ば復習の観があった。
 「峨々(がが)たる山を測量し 荒野に溪に造林し わが日の本の山の美を育成するは吾等なり 農林の健児いざや立て 使命をおびて果さなん」 林業科の先生で○○○○先生は旧制中学の頃からよく歌われて生徒にその心構えを指導されたのは印象深い。万事がこんな調子で授業が展開されていたから、大学卒業の新しい先生の参考書に頼った教科書の授業では、誰も聴く者はなく幾度か先生を困らせたものだった。授業時間も単位制という新制度であったから授業時間全部受講する必要はなく、学級運営や授業運営で多くの先生が難しい学年であると指摘されたが、それだけに生徒の側も自覚していて、良く遊び良く学んだと感じている。
 高校三か年の学習は実に充実した時代であった。体験学習という名の職業教育はこの時代にすばらしい成果を挙げた。先生不在でも実習が進行し、計画に基いた成果が挙げられた。この当時の実習生産物を眺めるだけでも戦後復興の時代の中で生徒が学びとった生産技術は立派なものであったと自負してよい時代であった。学制改革は種々な点で人間教育を徹底したとも云える。男女共学という変化のある学校生活は時代の経過と共に定着したし、経験した職業教育六か年の成果は前後に比較することの出来ない教育実践であったことは当時の生徒達の一番の喜びであった。学校運営の点から問題点が多かったと記録されているが、教職員と生徒が戦後復興という困難な中で真剣に学習したことは確かであって、多様化した現教育と比較して意味が深い。有意義な生徒が社会に送り出された時代だったと回想している。

タイトル 戦後三重県国民学校教員被追放者生残の記
本文  戦後の教育追放は、連合国軍の日本占領政策に基づく教育政策の一つで、中央(文部省)と地方(都道府県)に設けられた教員適格審査委員会による、不適格者の判定を受けた者への処断である。換言すれば、表面は、戦後における民主的、平和的な教育界への粛正であるが、内面は、教育上の戦犯者宣告であり、安政の大獄や、蛮社の獄とも相通ずる点があるとも言えよう。
○ 昭和二十二年度三重県教員適格審査委員会の設置と審査
 本県の第一次適格審査委員会は、三重師範学校教授某氏を委員長として、外十二名によって構成され、同年三月二十七日付で、不適格の判定を受けた十九名(国民学校の部)にそれを文書で通告し、校長は三重県では地方教官(一般教員)に降格された。これは、山形・長野県各二名、香川・広島県各三名、秋田五名、北海道六名、新潟七名に対し、本県は、全国で最多の比率であったのは、神宮鎮座の県では奇怪で遺憾ともいえる。
 本県の第一次審査委員会の審査の根拠は、第一に昭和二十一年勅令第四九号第七条の調査様式(三)による調査表である。これは個人の責任において提出を厳命されたものである。然るに、本県の第一次審査会は、奇怪にも無記名投書を実施し、それが内容を重視した事であった。これでは、公正な審査にならないのは明白で、同会の権威の失墜は勿論、三重県教育界を冒涜(ぼうとく)し、内部分裂を来す因ともなるは必定である。更に投書された者への損害は至大である。
 同会から不適格者の判定を受け、教育界から追放されるの悲運に遭遇した者は一同が団結して対策を立て、先ず各人への不適格判定理由を具体的に文書を交付の上、面接による意見の陳述を申し入れ、四月十四日付でその運びにいたったが、その不当な判定内容と委員の頼りなさに誰もが不服で信頼のおきようがなかった。よって申し合せて、各自が中央へ再審査請求書を資料と共に四月五日付で一斉に提出することに一決したのである。第一次審査委員会は、審査終了直後、一名を除いて辞任して、この会は解散。県第二次同審査会(構成員四名)が設置された。かくて、中央審査委員会から、再審査の結果、殆ど全員が原審査差戻しになり、第二次審査委員会で慎重に、公正に再審の結果、全員が適格と判定され(昭和二十三年十二月二十五日)、二十九日付の正式文書で適格の通知に接した。この時の安心と感動と喜びは知る者でなくてはわからない所である。私はこれを生涯の記念にと、貯金の全部を払い出して祖先の墓を新しく建てた。翌年一月十二日津市小森上野の故大広保三氏宅で、運命を共にし、協力し合った者が集合して小宴を開催した。この席で「今後どう生きていくか」を話し合ったが、殆どは、「平教員に格下げられて、面子(メンツ)上からいって、この際潔く勇退する。そして新しい天地の開拓にがんばり、第二の人生をより生きがいあらしめたい。」であった。この時、私は一同に頭を下げて、つぎの了承をお願いした。
 「私は、昭和二十一年三月末日付で、員弁郡十社村国民学校教頭から、同郡山郷村国民学校長に補せられました。僅かに一か年で、追放格下げの身となりました。妻は、開戦以来激しい労働と、私の追放による精神的打撃で、肋膜炎となり病床に臥(ふ)しています。その上子供が五人あり、祖先からの財産とてなく生活は苦しい実情です。それに追放の身とて、これという職場に就けず、先日も蔵書を売って長男の桑中通学用の電車賃にあてるようなことでした。そこで幸いにも教育の場が与えられましたら、以前校長、教頭で勤めた学校でも、その他の学校-妻の看護ができる範囲内でしたら、面子も、体面も、恥もかまわず一教員として一家を支えたいんです。私は、過去の校長一か年を『樹下一宿』の人生と思っています。この際、心機一転新任当初の初心に帰って、教壇の実践に邁進し、名利栄達以外の人生を歩みたいと念じています。これは私が退職するまで見つづけてもらえば、わかってもらえるの決心です。これによって盟友に対する節義の一貫となしたいと存じおります。」と声涙下る思いで申し述べたのである。
 「藤田君。よくわかった。われらの代表として、教壇に復帰し、いまの決心で忍び難きを忍び、耐え難きに耐えて生き抜いてくれ。」と激励と了承をもらったのである。かくして昭和二十四年一月中旬から、以前四か年間教頭であった東藤原小学校の平教員として教壇に立ち、その後、阿下喜の大和中学校(後の北勢中学校)教諭の平教員の身で、昭和三十九年三月末日退職したのである。これで、去る日、大広氏宅で申した所信の実践において男子の節義を果してきたことは、自ら省みていさぎよしとするところである。運命を共にした方々は、次々と死没されて、今は、わずか三人の生存者となってしまった。故人の霊よ安らかに。つつしんで合掌。

タイトル 新制中野球ばかりが強くなり
本文  昭和二十二年四月、わが国の第二次教育改革といわれる新制中学校の第一期生として入学した。
 名ばかりの中学校で教室は小学校の校舎の一隅に遠慮気味にあり、教員も寄せ集めの見切り発車のひどいスタートであった。それでも英語科でアルファベット・ローマ字を半年位かけて学んだことで、中学生という気分にはなった。
 戦中は、敵国のスポーツとして禁じられていた野球が戦後のアメリカイズムによって、全国津々浦々に流行し百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の様相を呈した。子どもの遊びにも野球の簡易化したものが入ってきて変化がみられた。
 巷(ちまた)には、灰田勝彦の歌う「野球小僧の歌」が流行し、いやがうえにも野球が子どもの生活の中に蔓延(まんえん)した。私も一端(いっぱし)の野球少年であった。
 しかし、当時は生きるための最低限の衣食住の確保が最優先され、野球用具の購入など全く考えられなかった。手造りの木のバットで、くず糸や毛糸を布で包んだボールまがいの球を打つ程度の遊びであった。しかし、戦中時代に集団で遊ぶことの少なかった私たちには、大変面白い遊びであった。来る日も来る日も狭いお寺の境内で遊びに熱中した。ボールが寺の障子を破ったり、近所の家の屋根へ飛んだりで、よく叱られたが懲りることなく遊び惚けた。
 やがて、徐々にではあるが生活にも余裕ができ、野球用具も整って本来の野球らしくなってきた。私たちは、遊びから試合へと夢が大きくなった。どの地区にも、中学生を主体に小学生の高学年も入ってチームが結成された。他から教えられたり強制されたものでなく全く自主的なチームづくりであった。だが、それだけに全体的な組織がないため、試合場の確保が難問であった。
 戦中は、食糧確保のため、さつまいも畑となっていた小学校の運動場も元の形になっていたが、休日は大人の野球チームが優先して使用していた。し方なく荒れ野原を整備して試合をした。イレギュラー・バウンドが多く野球試合の形態をなしてはいなかったが、それでも勝敗に熱中し愉(たの)しい時を過ごした。
 中学校の体育の時間は、私たち男子は毎時間ソフトボールの試合をした。体育器具の無い中学校では、バットとボールだけで出来るソフトボールは恰好の教材だったのであろう。クラス対抗戦も実施され、野球熱は一層校内全体に高揚した。
 また、部活動としての野球部も出来て、益々野球が盛んになった。当時の部活動は、部の数も少なく今日のような全生徒が部活動することはなかった。従って、技能の秀れた生徒だけが所属するエリート的な面がみられた。特に野球部はその感が強かった。それだけに、応援で全校生徒が参加することが要求された。私は技能未熟のため応援する方であったが級友の活躍に満足を覚えた。
一方、観る野球も多くの機会を得て、私たちの野球理論、技能向上のうえで大変参考になった。松阪、伊勢地区でも実業団チームの結成がみられた。松阪地区では、新日本工業チームが東洋紡富田チームを松阪市営球場に招いての試合に熱狂した。県下の実力チーム同志の試合であり、白眉の戦いであった。宇治山田クラブが法政大学を招いて宮川河川敷球場での試合もすばらしかった。地元出身の服部力投手や関根潤三選手の活躍も忘れられない。高校野球では、東海地区の雄で甲子園で好成績をあげた享栄商業高校と宇治山田高校・宇治山田商業高校とのダブルヘッダーが旧市営球場で行われた。甲子園に出場した享栄商業の水野投手に地元両校とも完全に押えられ残念ながら実力の差を見せつけられた。また享栄商業の一年生投手金田正一選手が少し投げたのも忘れられない。
 当時の県下の野球の隆盛を物語るひとつに「球界三重」という月刊誌が刊行されていた。県下の実業団野球、高校野球に関する記事を中心に編集され、多くのファンの愛読書だった。松阪北高校(現・松阪工業高校)のエース北村投手の勇姿が表紙を飾ったのも懐かしい想い出となった。
 わが国の戦後復興の歩みが野球の隆盛と同じ歩みであったと言えるが、三重県においても同じ事が言える。当時「新制中野球ばかりが強くなり」と揶揄(やゆ)されたが、一面では正鵠(せいこく)を得ていると言える。
 私たちの野球三昧の中学生時代を現在の中学生の置かれている受験中心の生活から見ると夢の様な感がする。

タイトル ぞう列車
本文  このセピア色の写真は私のとっておきの一枚です。ぞうの上に乗った、前から二番目が私です。ぞうの背中が本当に高かったことや、背中の毛がとても硬くてズボンを通してお尻がシカシカと痛かったことを今も忘れることができません。これは、一九四九年(昭和二十四年)、私が津市立高茶屋小学校の三年生、九才の時の写真です。戦争が終って、食べるものがなく、お腹がすいて楽しみもほとんどなかった私達にとって、名古屋の東山動物園へいってぞうを見ることがどんなに楽しかったか、この日の前夜は遅くまで眠れませんでした。
 戦争は本当に悲惨で残酷だと思います。戦況が厳しくなり本土空襲もはじまった一九四三年(昭和十八年)の夏。食糧が足らないし、逃げたら危険という軍の命令で、各地の動物園のぞうやライオンなどの動物がつぎつぎと殺されていきました。東京の上野動物園では、ぞうが毒入りのエサを食べないので餓死させたこと、最後の死の直前にはぞうが「エサをください」と前足をついて芸をして懇願したことなどは悲しい事実にもとづいて、「かわいそうなゾウ」と題した絵本などで今も多くの子ども達の涙をさそって読みつがれています。ところが、この戦争の中で、東山動物園では当時の北王英一園長らの必死の勇気と努力によってぞうの命が守られ、この写真にあるエルド(左)とマカニー(右)は生きつづけてきたのです。
 戦後、この生きのびたぞうを見ようと全国から名古屋に向けて「ぞうれっしゃ」が走りました。三重県からも多くの子ども達が国鉄の「ぞうれっしゃ」に乗って名古屋の東山動物園に出かけたのです。
 今ではちょっと想像できないような光景ですが、ぞうがオリから出て私達子どもらといっしょに遊んだり、しかもぞうの背中に乗せてもらって写真をとるなど、親しむことができました。この事実は「ぞうれっしゃがやってきた」という絵本と歌物語として全国の多くの子ども達に歌いつがれています。
 この写真は私の同級生の男子ばかりですが、この子どもらの中にも十人ほどの子どものお父さんが戦死をしています。戦後五十年、この父親をなくした同級生がどんなに大変だったことか、心が痛みます。
 私はこの写真を見るたびに、ぞうに乗せてもらった一人としても、このぞうを生命がけで守りぬいた人達の勇気と努力に学びながら、二度とふたたび戦争を起こさないためにあらゆる努力をしなければならない、といつも考えています。

タイトル 女性の自立と生きがいをめざして
本文  私は五人姉弟の長姉としてのんびり育ち、小学生時代も男生徒と同様に学習し活動した。女学校、女子師範学校でも「張りだ気品だ」「教師とは愛情と自己練磨」といった校長訓話は心に残っているが、大正デモクラシーの時代でもあったためか「没我随順」の女大学式の教育は受けなかったように思う。
 ところが昭和二年隣村の小学校に訓導として勤めた四月の給料日、男子の新任訓導は五十円、私は四十円、驚いて隣席の先輩女教師に尋ねると「女だから」とさも当然のような返事に複雑な気持ちになったが口には出せなかった。その後一志郡教育会主催の大研究会があると、「若手で」と推され公開授業や研究発表も何度かしたが、昇給期には男子は三円、女子は二円、男女差の壁の厚さに憤慨しながら社会は戦時体制となっていった。兵隊送り、空襲、学徒動員とあわただしくなる一方、家庭的にも夫の発病、死去、子供は幼く苦境の中生きるのが精一杯で、男女差の矛盾等考えるいとまもなかった。

◎女教師の母体保護と地位向上を
 終戦、民主国家再建の大きな流れの中、昭和二十二年六月三重県教職員組合が発足、私も一志教組婦人部役員に推され、県教組井阪湧子婦人部長のもと女教師の緊急課題解決運動に参加した。厳しい交渉により同年八月には母体保護規程として生理休暇三日、産前産後休暇十六週間、産後一年間の哺乳時間の保障が実現した。更に十二月末には前年からの三教組全組織による給与の凹凸是正交渉と関連して、長年の男女差も撤廃された。
 昭和二十四年秋になると教育界にレッドパージの嵐が吹き、婦人部の正副部長三名共やむなく退職、十二月の婦人部大会で東條しずゑ氏が部長に、山村ふさ氏と私が副部長に選出され、既に進められていた産休補助教員の獲得運動を強力に展開した。組織を挙げての署名を携え県教育委員会へ陳情、久居町出身の小原茂教育委員長は趣旨をよく理解され、積極的に財政部局と交渉、一月から漸定的に、順次正式に認められることとなった。
 私は昭和二十七年四月久居中学校から県教育委員会へ転出、社会教育主事、指導主事を経て昭和三十三年四月教育委員会制度下初の女性校長として久居町立桃園小学校長となった。この背景には当時県議会議員であった岩下かね氏を中心とした各層女性代表者による女性の地位向上運動のもと小和田県教育長、小山久居町教育長の配慮によるものであった。
 しかし着任直前から校区の一部有力者による拒否運動があり、半年余り困ったことがいろいろあった。けれども子供達は明るく、教職員は全員力強い協力姿勢を示したので、共に農村児童の教育課題と生活環境を確かめ、PTAを初め区長会や青年、婦人会等との連携を深め地域ぐるみの教育を推進した。お蔭で伊勢湾台風による大被害後の復旧に地区あげての協力も得られ、八年間落付いた運営を進めることが出来た。研究面、施設設備環境の充実共に前進、児童は生き生きと主体的に、感性も豊かに成長し、図書館教育や子ども会活動等の表彰も受け、県内県外からの参観者も多く、子ども達や、地区民に喜ばれたものである。
 私は少し落ちついた頃から後継者づくりにとりくんだ。幼、小、中、高の同志の女教師と図り、先ず幼、小、中の女教師宛に「身近な主任から教頭、校長への進出についても意欲をもってほしい」旨の文書を送ると共に県教育長はじめ校長会長、教育事務所長、市部の教育長に面接陳情した。趣旨は理解されたものの実現はむつかしかった。が松阪市の赤塚教育長は、「教育研究所に起用して育てていこう」と具体的に配慮されたことは今も忘れ得ない喜びであった。そして吉田氏が研究所主事から指導主事、教頭を経て松阪市柚原小学校長に進出したのは、私が出てから十八年目であった。続いて久松、中津氏と続き、各々実績をあげた結果年々進出するようになり、本年度は小、中で教頭百三名、校長五十三名となり感慨無量である。又中堅女教師も校内やブロックの各種研究主任として活躍し力強いことである。

◎新しい時代を創造する力を
 戦後女性の法的地位を画期的に高めたのは昭和二十年十二月国会での婦人参政権成立であった。翌年四月十日の衆議院選で初めて投票、全国で三十九名の女性議員が、又三重県でも澤田ひさ氏が当選した。翌年の統一地方選挙で石田マサヲ氏が、次期には掘川恵つ、岩下かね氏が県議会議員に、市町村議会にもこの頃二十七名が進出、力強い感を深くしたものである。しかし投票率は男子より十二%も低く一般女性の政治や選挙への関心は低かった。
 そうした時文部省は「人権尊重を基盤とした家庭や社会の民主化、青少年の育成に女性の新しい組織力の発揮を、又それに教職員の参画を」と指示し、各市町村へも通達された。そして私も久居町の婦人会、更に一志郡や県連絡協議会の結成、また未亡人会の結成にも参画、休日には精力的に活動した。
 軍政部が引き揚げた昭和二十七年四月私は県教委社会教育課に転出、婦人教育を担当した。女性自身の生活意識に又家庭や地域の慣習に根強い封建性が残っている中、婦人団体や婦人教室の拡充に努力した。
 男女共生時代を迎えた今、改めて女性自身が資質を高め問題意識をもって男性と共に進むことの大事さを痛感する。

タイトル 私の戦後五十年
本文  私は今七十八才です。敗戦当時、大阪に住んでいました。ですから大阪の大空襲も食糧不足も経験し、配給の豆粕やさつまいもの葉を食べて食いつないで来ました。
 夫と幼い子供二人の四人家族です。夫の会社は戦災に遭い再起不能で失職。私の実家(津市)は戦災で焼失し、両親は終戦後半年の間に疎開先で相ついで亡くなりました。
 幼い子供二人を抱えて、たよれる人も物もなくなった私は、今後どう生きて行くか方策もないまま夫の実家に帰らざるを得ませんでした。
 夫は会社のあと始末に大阪に残り、取りあえず私だけ子供を連れて夫の実家(現住所)に身を寄せました。姑と義弟の二人でひっそりと住んでいた静かな生活の中に幼な子を二人伴って帰って来た嫁です。居心地の良い筈はありません。姑の農作業を手伝う日々を送らねばなりませんでした。
 姑も飯米位は自分でと田一反と自家用菜園畑を耕していました。主人名義の農地は、農地改革により不在地主と云うことで二町あまりの農地を一反六百六十円で小作に解放し、わずかに姑の作っていた農地だけが残ったのです。かっては中地主で割合裕福に小作米で食べていた姑も、生活の糧をなくしてしまいました。私は町の商家に生まれ育って、割合のびのびと小学校の教師をして娘時代を過ごして来ました。はじめて経験する農村生活です。麦と草との区別も分らない嫁で、姑についての農業はつらいものでした。
 しかしそれにもましてつらいことは、旧家と云われた家の中にみちみちている封建的な空気でした。これには耐え難いものがありました。何度誰もいない畑の隅で泣いたことか。「このままずるずると過ごしていたら私の一生は駄目になってしまう。何とかしなければ」とあせりに似た思いを持っていました。
 そんな時、町で女学校時代の友達に逢い、今県が生活改良普及員(GHQの命令で設置されることになった)の募集をしていること、又、資格試験が近々行われること等を聞き、その仕事の内容は農村の生活を改善すること、農村の嫁の地位の向上も一つの目標となっていること等々を聞き、「これこそ私に与えられた天職であり、この仕事に自分の生きがいを見出したい」と試験を受け、資格取得と同時に県に採用になりました。
 現地を訪問して知る農家の実態は私の生活の比ではありません。事毎に驚いたり、憤慨したり、同情したり、事情を知るに従いますますこの仕事にファイトが湧いて来て、日曜日と云わず、夜と云わず、農村を駆けまわったものです。料理講習、農繁期の共同炊事、保育所作り、共同の味噌作り、わら布団作り、住居の改善、学童保育等々、仲間と共に励んだことが昨日の様に思い出されます。その一つ一つが嫁の地位の向上につながっているのだと、自分自身で確かめながら仕事を進めて来ました。そして自分の生活にも自信を持つ様になりました。自信を持つことが地位の向上に如何に大切であるかを身をもって体験しました。
 それから二十年。定年退職のあとは、労働省三重婦人少年室の特別協助員をして十年間やはり婦人問題と取り組んで来ました。
 つらく悲しかった思い出も今では貴重な体験であったと思う様になり、憎かった人や言葉も自分を磨いてくれた糧であったとゆるせる様になった昨今です。あれから三十年、永い様で短い年月でした。私の人生で最も充実した生きがいを持って生活した時期であったと思います。その間、知り合った大勢の人々に支えられ幸せでした。
 今農村に堂々と自分の考えをのべる婦人が育っているし、又、集まって来る主婦達の何とはれやかな顔つき。かつての農村には見られないものでした。時代の変遷と共に女は強くなっています。三十年前を思うと目をみはる様な変化です。何もかも豊かになって、こんな良い生活が出来るとは夢にも考えませんでした。
 私も来月誕生日を迎えて七十九才になります。何時迄生きられるか分かりませんが、その日まで元気で天寿を全うし、この世に感謝して生を終りたいと切に願う今日此頃です。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 子ども・福祉部 地域福祉課 保護・援護班 〒514-8570 
津市広明町13番地(本庁2階)
電話番号:059-224-2286 
ファクス番号:059-224-3085 
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