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平成20年09月09日

三重県戦争資料館

体験文集:空襲

タイトル 平和を願う橋三瀧橋
本文  三瀧橋は、御在所ケ岳を源流として伊勢湾へ注ぐ三瀧川に架かる旧東海道四日市沿道の橋である。
 平成六年八月吉日、新しく架け替えられた三瀧橋の渡り初めの日である。中部中学生の吹奏楽が高らかに演奏されるなかを、山高帽に紋付羽織の三夫婦を先頭に生まれ変わった三瀧橋の渡り初めが始まった。私は心をはずませながら皆の笑顔に混じって橋を渡った。戦前の三瀧橋の姿を充分に残しているうれしさに橋の欄干に手を置いてみた。欄干からつたわってくる夏の陽射しが遠い日の思い出を誘うかのように胸の奥から湧き出るのを感じた。
 旧三瀧橋は、大正十三年市内初の鉄構橋で道巾も広く、橋の両端には大きく刻まれた石が積み重ねられ石柱をかたち作ってた。石柱の上にはモダンな外灯が付けられ、橋をいっそう瀟洒(しょうしゃ)な装いにしていた。橋の附近には消防車の車庫や、警察の派出所があった。夏の夜の橋の上は人影が多く、七夕や花火大会の日は人混みで賑わっていた。冬は雪景色の河原にかき舟の明かり(牡蠣(かき)料理店)が川面にうつり情緒豊かな風情であった。春は桜堤を楽しんだ。戦争が闌(たけなわ)になり、橋の袂(たもと)に立って、武運長久を祈り千人針の一針を願って女性の幾人立ったことか。そして戦災の惨めさを充分に体験した橋であった。
 三瀧橋の近くに住んでいた私は、昭和二十年六月十八日の四日市大空襲に出合った。六月・\七日午後十一時半頃、一亘解除になった警報が空襲警報に変わったとき、町内の警防団に詰めていた父の大きな声が戸口から聞こえた。
「今夜は危ない、早く逃げなさい。」
と言って出ていった。妹と私はかねて用意の非常袋を持ち、弟二人は各々の自転車に荷物を積んで羽津山の伯母の家に向かった。末弟(小一)妹(小六)と母と私は、前庭の防空壕に入った。まもなく、隣の○○さんが、
「○○○さん、そんな所に入っていてはいけません。早く逃げなさい。」
と、注意してくれた。○○さんは名古屋の空襲で焼け出され里帰りをしていた。私は早速弟と妹に二人で逃げるように言い、母と二人で家を守ろうと思った。家の中をうろうろしているうちに、裏の建福寺を隔てて第一小学校の方に火の手が上がった。私は逃げなければと急いだ。いつまでも家に執着している母を促し、母の手を取って家を後にした。家を出て十軒程きた所で焼夷弾の爆撃に出合った。焼夷弾は母と私のすぐ横に落ちた。幸いにも直撃をのがれたので、母の手を強く引っぱって通り抜け三瀧橋へと走った。橋の手前の髪結屋さんの家が燃えていた。私は橋を渡ろうかと迷ったが渡らず堤へと向かった。堤防は人、人、人で肩を触れ合い、押し合うほどで走ることも通り抜けることも出来なかった。四日市の多くの人が三瀧川をたよって集まっていた。B29の攻撃で照らし出された人々の悲愴な顔を見て、私は焦燥に駆られ母の手をしっかりと握った。
 人の流れに流されて知人の家の前に来たとき、○○さんの母親が乳母車の中に座って両手を合せ念仏を唱えていた。見て見ぬふりをした心残りが今も私の胸底に残っている。何回目かの焼夷弾が三瀧川へ雨のように投下され、シュシュシューと金属音をたてて砂の中に突き刺さる音と同時に上がる人声の異様さに、川の中を這うように川上へと移動していた母と私は抱き合って息をひそめた。
 川靄(もや)を通して見える薄明かりに音なき夜明けを感じた。暁光に浮かぶ三瀧橋、明治橋、近鉄鉄橋の残っているのを見て力強さを感じた。B29の爆音の消え去った東の空を燃やして真紅の太陽が昇ってきた。その時「生きていた」という喜びが一夜の悲しさを吹き飛ばした。太陽に勇気づけられた私は、父や弟妹のことが気になり母を堤に休ませて三瀧橋に向かった。
 明治橋に近づくと人の倒れているのが目に入った。明治橋と三瀧橋との間にはより多くの人が倒れていた。
息絶えている人、助けを求める人の声、なすことを知らない私は手に汗を握って走った。三瀧橋附近には人が重なるようにして倒れていた。三瀧橋は熱くて渡りづらかったが思い切って渡った。橋の上から見る街は焼け野原で、建福寺の墓地のみが寂寞(じゃくまく)と見えた。河原に降りて橋脚を見ると逃げてこられた人々が大勢集まっていた。私は近づいて妹と弟の名前を祈る思いで何べんも大声で呼んだ。すると、橋の下から真黒の顔をした子供が二人泣きながら私の方に向かってきた。私は駆け出して二人の肩を抱きしめて泣いた。三人は言葉もなく涙と埃でくしゃくしゃであった。
 三瀧橋から見るはるかな鈴鹿嶺の峯々は、優美な姿で今も私に語りかけてくれる。三瀧川の流れは、あのいまわしい戦争の犠牲となられた御霊に哀悼の祈りを捧げるかのように晶々と流れている。生まれ変わった三瀧橋は永久の平和を願う橋であるように思った。

タイトル 桑名が燃える
本文  昭和二十年七月十七日午前一時頃、警戒警報が発令されて、床から飛び起き着衣をおえると同時に、空襲警報が発令された。B29の爆音が、旋回しているように聞こえてくる。
 今日は非番であるが、空襲警報が発令されたら本部付防空警備員のため出動しなければならない。家から外へ出て驚いた。
 市内上空が、照明弾の落下により昼間のように明るい。一番先に三之丸地内三菱航空機桑名工場あたりに、火焔が上る。高度を下げているのか、爆音が高くなる。
 一か月前の四日市の空襲が思い出される。完全に桑名が攻撃目標だと、本署へと走るが、途中避難する人で大混乱である。いたるところから焔が上り、京橋を経て、寺町通りをと思ったが、もう火勢強く、通行不能。常磐町を直進、旭町から八間通りへ抜けようとしたが、これも通行できぬ火の海である。
 ようやく精義小学校の校庭を横断して、本署へ到着する。もうその頃、付近一帯は焼夷弾の落下により物凄い火煙の真っ只中である。
 完全に市中が、同じ情況であろうと思われる。当時としては相当巾広い八間通りでも、両側からの火焔と、火災とともに発生する物凄い風圧、ただでさえ真夏の七月中旬、暑い。そして煙が最大の苦痛であった。
 頭にかぶっている鉄兜が熱くなりたまらない。署内は煙の吹込みに、目は痛む、呼吸は苦しく、死が迫って来るような気がした。
 情報もなく時を待つしかない。
 頭がやけつくようになり、玄関口右側にある防火用水を、バケツで頭にかぶる。この用水があったので、命が保てたと思った。平素から水量が少なくなる度に、満水にして万一に備えたのが役に立った。
 二階の警備員が煙のため息苦しく、降りて来る。時々外へ出る。屋内にいるよりは少々苦しみがしのぎ易い。風の勢いの凄いのには驚く。安田代書人宅前の防空壕に、老婆らしき一人が、うずくまっているらしいので、署員二、三人で、その場へかけつけ本署へ来るよう誘導するが、大事な品物があるので離れることができないと応じない。しかし、命を失ったらなにもならないと、忠告してやっと従順する。あのままだったら、熱気で絶命である。
 長いような二時間余で、ようやく、B29の編隊も去り、火勢も弱くなる。すでに、延焼物はほとんど倒壊したためであろう、煙の心配もなくなった。
 東の空が明るくなると、やっと、無事だった安心感から身体がだるく、空腹と目が痛い。誰もが充血した目をしている。
 そろそろ各区域の雁災情況が入り、警防団員、署員もかけつける。市街の八十パーセント焼失である。すると、急に家族の身が案じられる。
 しばらくして、上司に話し許可を得て、朝食用に乾パン一袋支給され、それで空腹をしのいで、内堀の自宅へ向う。だが、八間通りは通行できても、寺町宮通り、魚棚は全然通行不可能。本署へ引き返し、各地の通行可能な個所を確認してから到着したが、どこの町を通って来たのか判らない程、頭の中が混乱していた。B29が去って数時間経ていて、鎮火していても焼け跡は熱気で巾が狭い道路は、とても歩行出来ない状態である。
 空襲警報発令直後、父は外堀、新屋敷の姉宅へ行き、家族は東野方面へ避難したらしく無事を確認する情報を知り安心したが、近所の谷口さん、水谷さんら数人の不幸を聞き残念でたまらない。心の中で合掌する。
 急ぎ本署へ戻る。
 署内では負傷者の問合せ、照会等、市役所員、救護隊員、警防団員と、連絡員の出入りが多くなる。また、死亡者が多く、その検死に、署員は大変である。死者約三百五十名だと思う、他に行方不明の方も。望楼から、桑名市街を眺め、感慨無量である。
 福島、新矢田、馬道、東方、修徳、駅前の一部、福江町、大福等が戦火をまぬかれた。ほかは、ほとんど焼野原である。部分的に残った家屋も所々見受けられたが。
 ……そして一週間後、再びB29の編隊の攻撃を受けることとなる。七月二十四日午前十時頃、爆弾との闘いである。

タイトル 私の知っている戦争
本文 日増しに空襲が激しくなった昭和二十年七月二十四日、津の町は二度目の爆撃を受けました。そのとき私は、津の殿町に住んでいました。
 その日、私の家のラジオが壊れていたので、何も気付かずに、両親は朝から、疎開させる荷物の整理と、荷造りに忙しくしていました。
 朝の九時だったでしょうか、友達の○ちゃんが本を返しに来ました。「長いこと借りていてごめんネ」と、本を私に渡すと「もう帰るワ」と、足早に帰って行きました。○ちゃんの家は、私の家から五、六分の所です。○ちゃんは「ただいま!」と外から声をかけ、母さんが家の中から「お帰りなさい」と出てこられたそのとき、艦載機の機銃掃射に撃たれ、戸口で死んでしまったそうです。またその同じ頃、同級生の○ちゃんも、機銃掃射に撃たれ、その上火災が起き、トイレに入ったまま黒焦げになって亡くなってしまったそうです。
 ○ちゃんと○ちゃんの死を知らされたとほぼ同時に、向いのおばさんが、怒鳴るように「○ちゃん(私の父のこと)何しとるの、早よううちに来てラジオ聞きなさいヨ」と呼ばれ、家内中で向いの家にかけ込みました。
 そのとき、ラジオから聞こえてきたアナウンサーの声は、うわずって「ただ今、B29が宇治山田上空を旋回中で……」と言い終るか終らないうちに、ガガガガァとひどい雑音になりました。とたんに、ドカーンと物凄い音がしたかと思うと、目の前が真暗になり、何も見えません。音と同時に地響きがして、家がゆれているようでした。暫くすると、ドスン、ドスンと音がして、土煙りが立ち込め、光が差し込んできました。爆風で壁が壊れ、開けてあった戸が塞がってしまったのを、父が蹴って出口を作ったのでした。そして父は言いました。「さっき落ちた爆弾の穴まで走り、そこで待機しなさい。一人ずつ出て行きなさい。その途中で何が起きても立ち止まらず、前だけを見て走りなさい。たとえ、父や母が死んでも、振り返らずに逃げなさい。今は非常時なんだから。」
 兄、姉、私、母と妹、そして父の順に穴に駆け込みました。穴の中には水が溜まり、その水は温かく、温泉のようでした。私達は穴の斜面にへばりついていました。頭の上をカランカランカランと、金属音を響かせてB29が飛び交っています。あとから穴に入ってこられた人も何人かいましたが、空から丸見えだと言って、すぐに出ていかれましたが、落ちてきた爆弾にやられてしまいました。
 父の考えは、一度落とした穴に、二度も落とさないだろう、との判断でした。その間も爆弾の落ちる音、カラカラカラザザザザッ、ザー、ドカン、とひっきりなしに続いています。
 やがて三方から火の手が上がり、みるみる火は広がりました。東は海の方まで火の海と化してしまっているのです。兄と父が話しています。
 もう一方も火の手が上がるなら、中心に居た方が良いし、急いで逃げおおせるものなら、津を脱出した方が良いが、どうしたものか、女子供を連れての脱出だから、できるだけ危険は避けたいのだが、と言う父。兄は腕組みをして考えていましたが、「○○○は僕がおびます。お母さんは妹を、お父さんは誘導して下さい。」と言い、家族は歩き出しました。
 道には、電柱が倒れ、電線や瓦が散らばり、ガラスはあめのように熔けて、散らばっていました。道は寸断され、家は崩れ、その中を逃げました。途中父が、春ちゃんの死を悼(いた)む私に替って、私の気の済むようにと、お悔みに寄って下さいました。
 逃げる途中で、首が電線にぶら下がっているのを、また、首のない詰め襟の服を着た男の人が歩いているのをみました。爆風で上半身裸にされた女の人がいました。建物の下敷きになっている人もいました。
 ガレキの中、火の手を逃がれて、やっとの思いで町外れまで来たときは、もう夕方近くでした。母の里の家は残ってはいましたが、中は空っぽで、ガラス戸は飛ばされてありませんでした。道で人が話してくれました。爆弾で助かって、爆風で死んだ人。小川に伏せて息をころしていた人が、もう大丈夫と頭を上げたとたん首をもぎ取られた人もいる、と言うのです。
 逃げてくる途中、家の下敷きになり、助けを求めている人、うめき声、母の足を引っ張り助けを請う人、母は泣きながら「許して下さい。子供が、小さい子供がいますので、どうか許して下さい。どうか恨まないで下さい。」と、手を合わせていました。
 これらの光景は、今もなお私の脳裏から消えることがありません。戦後五十年経った今もなお。

タイトル 無くなって居た町(津市玉置町)
本文  ヒュルルルルーザザザザザー。何の音だろうと思ったとき、どこからか飛び出してきた母が私達四人姉妹を突き飛ばすように庭先の防空壕に押し込んだ途端、目の前が真っ暗になり何の音も聞こえぬ静寂が訪れました。
 どれくらいの時間が経ったのか判りません。当時四歳だった一番下の妹の泣き声に、ふと気がつくと、身動き出来ぬまで壕の土が私達の体を押し付けていました。一九四五年七月二十四日、朝から日差しの暑い日でした。私は四人姉妹の長女で十三歳。県立津高等女学校の一年生。母三十六歳。父は二度目の中国戦線から帰還し、県庁の職員として勤務中で、遠からぬ玉置町に住んで居た私達を案じ、駆け付けてくれましたが、辺りはただ瓦礫(がれき)の山で、見当も付かず、隣家に杉の大木があったのを見当てに、ここぞと思うところを掘ると、左半身を吹き飛ばされた母が居り、まだ息があって、右肺から搾り出すように声を出したそうです。私達はと言えば、身動きもならず真っ暗な中に、急に頭の上にぽっかりと穴が開いて光が射し、父の声が降ってきたのに、声も出せず、ただ呆然とするのみでした。父は、血塗れで内臓のはみ出た母を背に、瓦礫と、死体の山を踏み越え、救護所に向かいましたが、母は父の背中で、当然ながら事切れておりました。
 町内で、この現場に居て、生き残れたのは私達姉妹四人だけだったとは、後から聞いた事実です。近くの神社の境内に死体が丸太のように並べられ、暑い夏の陽にさらされて居た光景を今も忘れることが出来ません。爆撃で殺された人達は、広島、長崎の原爆に因る被害者だけではありません。東京、大阪、名古屋等々、大都会はもとより、地方都市にも被害者が、山程居たことを忘れないで欲しいものです。
 母が戦災で爆・€したと知り、「その頃の話を」と何度も求められてきましたが、被災当時、思春期だった私の心に染み付いた、残酷な光景と悲しみは、今の今まで、それを口にも筆にもすることが出来ないで来ました。とりあえず父の郷里、伊賀に、下の妹二人を帰した後、後始末に忙しい父と別れ、一日遅れて二番目の妹と二人、汽車に乗り、伊賀へ向かうときの心細さ、今も生ま生まとよみがえります。そして、そこで待っていた、物の無い時の人の心の冷たさ、貧しさ。家も土地も知らぬ間に人手に渡っていたり、そんなごたごたの中、終戦後、職を辞し、郷里に帰った父と十三歳から四歳までの娘四人。慣れぬ手に農具を握り開墾し、日雇いにも出、泥鰌(どじょう)取りまでし、後には霊山の頂上に出来たNHKの中継所に勤めて、長女の私だけは阿山高女に転入、制度切替え後の男女共学の上野高校にも学ばせてくれました。
 昨一九九四年、母の五十回忌の供養を伊賀の寺で行い、母の遺体は津市に仮埋葬され、その後都市計画で他へ合祀されたようなので仮埋葬させて下さった寺を探して、五十回忌の供養をして項きました。そのついでに、被爆した辺りを捜して見たのですが、既に玉置町という町は無く、ただ「たまき公園」の名が残っているだけでした。
 米寿を迎えた父もこれでほっと一息したように見えます。私も自分自身に課して居た禁則を破棄、思い切って書いてみることにしました。若い時から自分なりに努力してきた平和への行動の一助になるならば、五十回忌を終えた母も喜んでくれるのではないかと思いつつ。そして半年、否、一か月早く、当時の天皇が戦争中止の命令を出して居てくれたらと、心の底で今も恨みつつ……。

タイトル 駆け巡る恐怖-被災体験より-
本文 小学校四年生の時であった。私は津市に生まれ、当時、三重県立師範学校男子部附属国民学校に通っていた。教生の方が一クラスに一名配置されていて、朝一番の教室での挨拶は教壇の横に祀られた神棚に向かって拝礼することから始まった。
 当時、制服を着用していたが、二十年、金の釦(ボタン)は陶器に替わり金具の物は段々と身辺から何処かへ持っていかれた。
 英霊室が、校長室の隣にあって一週間に一度は、そこでクラス一同は唄った。
「共同参の帰り道 みんなで摘んだ花束を 英霊室に捧げたら 次は君らだ分かったか しっかりやれよ頼んだと 胸に響いた神の声」
 文部省認定の教料書の紙がザラザラになってそれも更に薄くなった。お昼のお弁当は日の丸弁当、戴く前には必ず唱和した。
 「今日も学校へ来れるのも 兵隊さんのお蔭です お国の為に働いた 兵隊さんのお蔭です」
と掌を合わせて蓋を開けた。
 家を出る時も帰ってからも近くの御山荘橋の袂(たもと)に立って、千人針のお願いをした。世相の厳しさは様々な形に表れたが、体育の時間に手榴弾の投げ方も教わった。高山神社の道を隔てて師範学校前がお濠で、上空に敵機来襲の時には「このように飛び込むのだ」とその格好も教わった。
 七月二十四日、松阪上空にB29来襲、警戒警報が鳴り響いた。学校、家いずれか近い方に急ぐという事を指導されていた私は、ありったけの力で家に駆け込んだ。途端に「ズドーン」と凄い音、瞬間父の身体に覆われて階段下で蹲(うずくま)った。空襲警報は直後に鳴った。「防空壕に急いで入りなさい。」という父の声は上ずり顔がひきつっていた。壕の中は、見知らぬ人が入っていて私達兄弟の入る余地を僅かに残していた。それは安濃川の右岸の堤の下に作られたものであった。入った途端に「ひゅるるる」と音、爆弾が空中を落下する時の不気味な恐怖の塊の音で「ズドーン」と刺すように地を貫いた。爆風で頬は砂に痛い程叩かれ、耳を劈(つんざ)くその凄まじさに壕の中では男の人もすすり泣いていた。思えば、壕の両側が開いていたので生き残れた。沢山の生き埋め状態を見た。隣家は屋根の真中心に爆弾が落ちたので全滅であった。B29の爆音が遠のいた頃、壕から出て安濃川を見た時の驚き。人があちこちに浮いていた。母と子の抱き合った姿、乳母車、自転車、人人人。通りがかりの人が吹き飛ばされて命が絶えた、この世のものとは思えない地獄図であった。
 次女である姉が壕に居ないので、父と母はB29の飛ぶ中、探し回った。台所で、非常米といって当時米の炒ったのを缶に入れていたが、姉は火の後始末をしていて逃げ遅れ、直撃弾で顎が外れた無惨な死を遂げた。母の両腕、両脚は三箇所ほど爆弾の破片を受けてパックリ石榴(ざくろ)のような穴が開き、父が止血のために手拭で強く縛りヨードチンクか、粉の劇薬で応急手当てをしていた。母は蒼ざめた顔で失神状態であったが、私達兄弟は、その冷たい掌を握ることでその場の安堵を得ていた。
 夜、近くの知人宅へ身を寄せさせて貰った。電灯も断れ、暗闇の中、懐中電灯が鈍い光を落としていた。そして二十八日の夜、突如閃光(せんこう)が走って外の異状を感じた。焼夷弾が既に落とされていた。兄弟は手を繋いで逃げた。二十四日の爆弾の穴に落ちないようにと、すっかり変わった町の様子は、どこを今走っているかも解らない。不謹慎にも人の屍体を幾人跨いできたであろう。背中に焼夷弾が突き刺さった儘(まま)「お母さ-ん」と息絶えていく人をも横に見た。どうする術もなかった。地に落ちて炸裂する時の火の粉を避けるために防火用水に頭巾を浸しては唯、走るのみ。父母とはいつの間にか離ればなれになった。父は母を負ぶって逃げ回っていた。声を交わすと無線で敵に判ると禁じられ無我夢中でみんなの走る安全と思われる方向について駆けていた。
 二里半程も走ったのであろうか。そこは野田という地名の津の町はずれの山裾であった。露じめりを服に感じたが皮膚感覚は全く無い恐怖一点の夜明けの頭であった。長女である姉が見知らぬ一軒の家に頼みこんで、やっと畳の上に座り込んだ。馬鈴薯の蒸(ふか)したのを出して頂き口にしたとき、こうして今生きていることの不思議が先に立った。
 焼け跡に行けばきっと父に会えると信じた姉は一人で山道を昨夜の後戻りのように歩いて行った。父も現場に来ていて、子供達の安否を気遣っていた。この再会の様子を聞いた時、胸が圧迫され涙なしには語れない。
 母の郷里である鈴鹿に、みんなで身を寄せた。祖父と叔母の平穏な暮らしをまるで乗っ取りするかのように七人が雪崩れこんだのである。防空壕も掘ってない鈴鹿は、ひととき和らぐ事ができた。八月十五日終戦、玉音放送を聴いた。先の生活は何も掴(つか)めなかった。
 核廃絶、戦争のない世界を心から叫びたい。

タイトル 我が町津の空襲を思い出して
本文  忘るる事の出来ない七月二十七日の事です。今夜あたりはこの町も焼かれるかも知れないと町内に噂が流れていました。
 夕方も近くなって来たので今夜はどこで野宿しようかと、配給のかぼちゃやさつまいもなどを煮て弁当箱に詰めて出掛けました。
 乳母車に四才の長男を乗せて、一才の妹を背中に背負って、義母と四人で家を出ました。
 六月に昼の空爆に二回程いためつけられた我が家も、瓦は飛び壁は落ちてまるであばら家のような住家になっていました。日は西に落ちて暗くなって来ました。しばらく行くと警戒警報発令のサイレンと共に係りの人が大声で叫んで行きます。私達四人はいつの間にか久居の町を通りぬけて竹やぶのある所に来ました。こんどは空襲警報が発令されました。
 もう何機かの編隊機が私達の頭上を耳もやぶれんばかりの音で北上して行きます。津の方面を見ると天をも焦さんばかりの火、火、火です。火の海そのものです。阿漕駅近くに油の入っている大きなタンクがいくつかならんでいました。そのうちそれに火がはいったのか次々と爆発して行きます。ボカンボカンと遠くまで聞こえてまるで仕掛けの大花火を打ち上げているようです。焼夷弾を落とした飛行機は旋回して帰って行きます。何百機来たかは知れませんが、三角形に隊を組んで頭上を通る姿は今でも眼に浮かんで来ます。
 やっと夜が明けたので津の方へ帰って来ました。丁度青谷の岩田池の所まで来た所、昨夜逃げおくれた人々がやけどをした方、怪我をした人、抱いて逃げた赤ちゃんの死がいを布に包んでいられる人、皆横たわって泣いていました。
 まるきり地獄絵そのものでした。火もおさまって来たので町の中に行こうとした所、まだ灰が熱くて近よれません。しばらく待っていると、近くに製粉の倉庫があり、其の半分ぐらいに火が入って焼けつづけているのを引きつり出して、布袋の粉を皆に分けて下さいました。その粉を口にほおばったりしていました。やっと町の中に入り我が住んでいた町に来ました所、隣り組の方々も七、八人見えて、人数をたしかめた所、何人かの姿が見あたりません。後でわかった事ですが、熱いので井戸に飛び込んだ老人御夫婦、近くの神社まで行って煙にまかれて死亡された方、道路上で焼死なさった方、又防空壕の中で目ものどもやられて死にたいと泣いている人、その姿は残酷そのものでした。其の翌日柳山地区の一部分が残って、元の県立女学校でおにぎりをやるとのこと、並んでいた所急に大雨が降って来ました。近くの知り合いの家に雨宿りさせてもらいました。その時、住む家がなくなったのだから私のはなれの一間を貸してあげると親切に云っていただき、そこにお世話になることになりました。
 それからも北上するB29は何回も通過して行きます。其の都度壕にとびこんでいました。ある日、焼け出された人は市役所まで証明を取りに来るようにとの事で、丁度今の丸の内あたりを歩いていると、壕の中から飛び出して来た男の方が「皆寄って来なさあい」と大声でよんで下さいました。今から玉音放送があるからと、ラジオを持ち出して下さいました。しばらくすると何やら雑音の入ったラジオが、「たえがたきをたえて……」、そのあとはしっかり聞き取れません。中の一人が「ああ戦争が終わったのや、万歳々々」と大声をあげたものの、其の場に居た人々は皆泣いていました。早速家に帰り、それからは四人の生活が始まりました。
 食料の配給はアラメヒジキばかりで、米など夢の夢でした。少し知り合いの家にあずけてあった衣類を一枚又一枚と米に換えて、子供達も栄養失調にもならずに生活してきました。
 戦争は終わったが、出征している夫の行方がさっぱりわかりません。県に世話課が出来たので聞きにいった所、この部隊は南方ルソン島で全滅しているとのことです。近所の出征した人達がポツボツ復員して帰って来られます。でも、信じる事が出来ない私は、夜の物音にも飛び起きたりもしました。ある時世話課より、この隊の本部付き数名が残ったのみで、全員最後の総攻撃で名誉の戦死をしたと返事が来ました。今思うと、なぜ隊長が助かって東京に帰って、兵達は全滅とは考えられません。悔しい思いが胸いっぱいなってまいります。
 それから後日、公報の戦死の通知があり、白木の箱を長男が胸にかかえて、妹を私が抱いて家に帰りました。近所の方々が涙をながして迎えて下さいました。それから身につけていた洋裁をして一家四人の生活をしてまいりました。
 私も今は老いの身となり、息子夫婦と孫二人に恵まれて、幸せに感謝して一日一日を大切に暮らして居ります。
 これからは残酷なこのような戦争が二度と起らないで、全世界がいつまでもいつまでも平和でありますよう祈りつつ。

タイトル 戦争の爪跡
本文  一九四四年から四五年にかけて空襲も一段と激しくなってきました。ある日叔父が訪問することになっていました。母は食糧事情の悪化で頭を悩ませていました。側で見ていても困惑の色は隠せませんでした。叔父は日帰りの予定でしたが気が重いと云って泊まることになりました。私は母の苦労も分かっていましたが、なぜか空襲の恐怖が和らぐ安心感がありました。だがそれも束の間、その夜は大空襲となりました。サイレンが不気味にけたたましく鳴り始めました。瞬間、B29が編隊で爆音を響かせながら接近してくるのが恐ろしく胸に迫ってきます。その時パアッと昼間のように明るく感じました。まるで津市内が見渡せるごとく、照明弾だ。アッすずだ。電波妨害のすずが、ジャラジャラ落ちてきます。
 叔父は、ここにいては危ない、海に逃げようと云いました。避難準備は慣れているから、叔父の命令に従いました。持つものは水筒だけ、防空頭巾の上から銘々ふとんを被りました。一目散に走りました。すると喉がカラカラで息苦しい。水を呑む悠長さなんてない。兎に角走った。家族とはぐれないように、死ぬのだったら一緒と云う意味で確かめ合いながら走りました。B29爆撃機から焼夷弾が雨あられの如く降下します。海水へ入って、ふとんを濡らして頭へかぶれと云うが、一旦水に漬けたら動かせるものではありません。とうとう身から放してしまいました。水筒も見当らない。沖から寄せて来る波は火の玉だ。焼夷弾の油が海水の表面で燃え上がる。追いかけてくる。砂浜に逃げると捨てられたふとんが、じゆうたんを敷きつめたようになっていました。それも燃え上がる。人波を縫って叔父が誘導してくれる。松林も燃えてきた。波が火の玉を押し上げ砂浜が燃え、松の木が燃え落ちてくる。焼夷弾が目前に落ちてくる。人が燃えだす。助けて、助けての声が耳に突き刺さる。私達の足元に這い上がってくるが、どうすることもできない。アー燃えて死んでゆく。それから何時(なんどき)過ぎたのか。B29爆撃機は、降下するものも無くなったのであろう。生き地獄だけを残して去って行きました。生き残った人々はみな唯茫然と屍のようになっていました。子供の名を呼び、親を探し求める子供、何と痛々しい、胸が張り裂けそうです。何の抵抗もできず、何の助けも出来ない弱者を、なんで、どうして、これ程までに憎しみ、こんなにむごたらしい目に合わせて、弱者はどうして生きればいいの!!やはり一生苦しみを背負(しょ)い込んで生きて行くしか道がないのです。
 翌朝は静かな朝となりました。私達は運良く助かることができました。気がつくと叔父はもういませんでした。恐怖に戦(おのの)いて、空腹もわかりません。そんな時、海から沢山の遺体が戸板に乗せられて運ばれてきました。全身焼け焦げた人、上半身焦げた人、下半身焦げた人、幼児を抱きかかえたままの人、幼児を背負ったままの人、肩に救急カバンと水筒の紐らしきものがクロスされたまま下半身黒焦げの人。私は暫(しばら)く運ぶ様子を呆然と見つめました。次は自分かも知れないと思いました。遺体は絶えることなく運ばれました。お寺さんの本堂の前が遺体の山となりました。それ以後は、糸がプツンと切れたように耳にすることなく、口に語ることなくみんなの体の中で秘め込まれているのだと思います。私もそうだからです。話して聞いてわかるような生易(なまやさ)しいものでは決してありません。身元不明の遺体は砂浜に埋葬されたと聞きました。
 それから十年後同じ日、中学生の水難事故がありました。遺体の埋められた場所の近くです。生存者の話によると防空頭巾をかぶったおばさんが呼んだと云います。私はその現場に駆けつけて見たのです。小舟の両脇に二ツ折れになった遺体がまるで昆布かわかめのように被(かぶ)さっていました。そうして静かに波打ち際に並べられました。まるで昼寝でもしているかのように目に映りました。この学生さんは私が恐ろしい焼夷弾攻撃をさ迷うた時の年令と同じです。振り返って思い出す恐ろしさ、心が凍る思いでいっぱいです。
 最近物忘れが多くなってきましたが、悲惨な戦争の爪跡だけが鮮明に記憶に新しく感じております。戦争だけは二度と再びあってはならないと思います。戦争は弱者に重く伸し掛かるものです。この体験文は、体験したほんの一部分です。

タイトル 伊勢にも神風は吹かなかった
本文  昭和二十年七月二十八日。朝から何度も空襲警報が出た。その度に家と塀の間の小さな空き地に掘られた防空壕に入ってはB29の爆音が頭上を通過していく何時間かを過ごした。
 家族は国民学校一年生の私と四才の弟、浪人中の父の三人だった。ほんの二十日ほど前に母と赤ん坊の弟を病気で失ったばかりだったが、人が死んでいくことは日常的な出来事だった。あちこちの家に戦死公報が入っては「おめでとうございます」と挨拶されるような狂った世の中だったから。
 夜になると何を思ったのか父が「靴を買ってやろう。」と言いだした。私達一家は灯火管制の敷かれた真暗な道を曽祢の商店街へと出掛けていった。
 靴屋の店内はガランとしていて数個の箱があるだけだったが、父はその中からやっと私に合う靴を見つけて買ってくれた。茶色の豚皮で足の甲をベルトで止める可愛い形の靴だった。私の履いている布靴は粗悪なゴム底のためひび割れていたから、父はそのことを気にしていたのだろう。靴が手に入った親子は久しぶりに豊かな気分で家路についた。
 その真夜中、父のするどい叫び声で目をさますと空襲警報のサイレンとB29の爆音が同時に飛びこんできた。せかされるままに防空頭巾を被り買ってもらったばかりの靴をはいた。B29の轟音が頭上をおおい、ザザーという豪雨のような音が飛び交う。恐ろしさに足が前に出ない私に向かって、「逃げるんだ!」と父は私の手を引っぱって走りだした。照明弾が炸裂すると、街中が昼間のように明るくなった。焼夷弾は何十本も一かたまりになって落ちてくる。それがなだれ込むように落ちてくると同時に家並から火の手が上がった。
 私達は防火用水で頭巾を濡らすと火と火の間をぬって闇の方へ闇の方へと逃げていった。
 高向の踏切を渡ると道が左右に分かれてる。逃げる人達はつかれたように一様に左へ曲っていく。父も人々の行く方へ曲ろうとしたが、私は理由もなく「こっち、こっち!」と父を呼び止めて右へ曲った。左は宮川の河原に続く道。右方には日赤病院の大きな建物が建っていた。病院を廻りこんで裏手に出ると広大なとうもろこし畑だった。
 「ここはなかなかいい。」と父はいい、弟を背中からおろした。焼夷弾が落ちるたびにあたりの風景が浮かび上がる。あまり遠くないところに宮川の河原があり、そこにひしめいている人々が見えた。人が群がっているところをねらって焼夷弾を落とすのだろうか。河原で悲鳴が上がった。今逃げてきた方角を眺めると台形や三角形の形をとどめたままの家並が真赤だった。空はいつ見た夕焼けよりも赤かった。
 「家はもうないかも知れない。しかしみんな無事でよかった。ここは全くいい場所だ。私達は神様に守られてるねえ。」と父はいい、私達を両脇に抱きかかえてくれた。
 父は二年前、兵士になることを至徳とする教育を拒んで教師をやめ、祈りの日々を送っていた。人間の生命の重さを知り、英米と戦うことの愚を知る日本人の一人だったと思う。
 太陽が昇ると、火の手の鎮ったのを見て私達は街へもどった。昨夜逃げてきた道を逆にたどっていくと、家々の残骸がるいるいと続いて、まだくすぶっている。真夜中に見た真赤な家並の最期なのだった。
 彼方に田中病院の建物が何の遮蔽物もなく建っていた。「あっ!残ってる。」私は急に元気が出た。私達の住む町は病院の後側にあったから。病院前の通りを境にして商店街側は一軒も残っていない。勿論昨夜靴を買った店もなかった。
 「靴屋さんがないよ!」 「私達が最後の客だったねえ。この靴は昨夜のうちに買われて助かったんだよ。」父はしみじみ言うのだった。
 三人は焼け焦げた匂いのただよう商店街跡に立って真夏の空を見上げた。さえぎるものがなくなった街の上に、いままで見たこともない大きな空が広がっていた。
 焼け跡は何も彼も赤く変色していた。赤い土、赤い瓦、赤いトタン。がらくたの赤い風景の上に灼熱の太陽が照りつけた。大人達は日陰の無くなってしまった剥き出しの街の中を泣きもせず喚きもしないで歩いていく。何の罪を犯したわけでもないのに罪人のように黙々と歩いていく。私は七才で幼かったわけだが、それでもあの日のことはよく憶えている。
 隣家の主人は人のいい商人だったが、「土壇場になったら神風が吹くんや。ここは大神宮さんの土地やでな。」と言っていた。それがおじさんの口癖みたいなものだった。
 何年も後になって、あれはおじさんばかりか日本人の大部分の信念だったと知ったわけだが、そのことの方が焼夷弾の火中を逃げたことより恐いと感じた。そこまでも人心を誘導しうる力を持つものを恐いと思った。

タイトル あっと言う間に終戦五十年
-広島原爆救護へ出動した思い出-
本文  昭和二十年一月海軍軍医学校を卒業、同年二月別府海軍病院に勤務を命ぜられ同期生二十名と着任、同年六月広島県賀茂郡黒瀬村(JR山陽本線安芸トンネル東口の近く)の賀茂海軍衛生学校に転勤し後輩の指導に当たっていた。八月六日午前八時から診療開始、患者の血圧を計ろうと聴診器を耳につけた時、ピカッと雷の稲妻の様な光を感じ耳にツーンと圧迫感がきた。あわてて耳から聴診器を外した途端、窓ガラスがガタガタとゆれ出した。地震かなと思ったら数秒後にドーンと火薬が爆発した様な音がした。一同の者があわてて外に飛び出して音のした西北西にある小田山(標高七一九メートル)の方を見たら、山の向う側に大きなポールの様な丸い煙がムクムクと上がってくるのが見え、それがだんだん大きくなり高く昇ってゆき、熱気球の様な形になってきた。午前十時頃に部屋に戻ると、軍医部長と薬剤部長が居られ、「今朝の爆発は火薬庫ではないと思われる。おそらくウラニウム爆弾を米軍が落としたものだと思う」と言われウラニウムの説明を聞かされた。
(日本でも当時核爆弾研究所が現北朝鮮の元山市にあったとも後に知りました。)
 昼頃に庁舎前に全員集合。学校長より中央司令部よりの命令の伝達が行われた。
 「今朝広島市に米軍によりウラニウム爆弾が投下され広島市は壊滅、陸軍の救護隊も作業不能により、海軍は救護隊を編成し広島市へ出動せよ。ただし、ウラニウム爆弾による放射能があるにより、一泊二日の交替編成をなせ。なお負傷者の殆どが重症火傷患者であるので、治療器具及び薬品は重症火傷患者治療を主として準備し出動せよ」と。
 私たちは直ちに、十二救護班を編成した。私は三班の班長に指名された。総合班長は軍医大尉、私の三班は軍医候補生十二名、衛生兵三名の十六名編成となった。各班は早速火傷手当てに必要なリバノール肝油を一斗缶十五個、ガーゼ、三角巾その他の救護薬品をトラックに積みこみ、レントゲン撮影時に使用する放射線防禦服を着て、午後三時出発、市内に入るため猿又川を渡ろうとしたら、橋は全壊しており、市電の鉄橋を渡り市内に入った。道路の上や焼けた木の下に人間がバタバタと倒れているのを見つけた。車を降りて調べてみると、死体、死体ばかり、殆どの人が躰の露出部に三度以上の火傷が確認された。道路上の死体を横に移し車を進行させ京橋川にたどりつく。橋は全壊、市電の鉄橋もこわれて落下している。川の中に沢山の死体が浮いている。路上の市電が屋根は落ち窓は全部こわれていて中には死体、死体の積み重ねみたいになっており、調べたところ生存者は全くなし。広島の街の中心に近づくに従って、その状態が呉の場合の数倍になってきた。太田川の方にある産業会館の屋根の上が鉄骨が真っ赤になってムクムクと煙をあげている(現在の原爆ドーム)。果して生存者は居るのかと思いながら、レントゲン放射能測定器で放射能度を測定中、爆心地の陰と思われるビルの陰から多勢の人が現れ、「助けてー助けてー、水がほしい。兵隊さん水をくれー」と叫びながら手を振っているのに出会った。殆どの人が大火傷の状態、水筒の水を飲ませてやったら、嬉しそうな笑い顔をして静かな眠りに入っていった。
 放射能度の少ない所、爆心地の陰に当たると思われるビルのすき間に早速診療テント、救急処置テント、患者収容テントを張り、赤十字の旗を立てて救急診療を開始、テントの周りはまたたく間に数百人にのぼると思われる人、人、人。殆どの人が火傷三度以上のひどいもので、中には皮膚が外れて真っ赤な皮下組織が見えている人が多数、直ちに診療開始、リバノール肝油をその人の火傷の大きさに合わせ切ったガーゼに浸して張りつける。激痛を訴える人には鎮痛注射をした。次から次へと来る人、人でその処置しかできず、骨折とか打撲症等の処置は、後でするしかない状態だった。夜になる、電灯はない、持参した懐中電灯をたよりに、午後十時頃まで診察、救護班も疲れてこれ以上続かない状態、でも患者が次々と集まってくる。診療を止めるわけにはゆかない。班を二分して二時間交替で休息をとることにした。
 八月七日午前十時にまた総員で診療開始、十二時頃になって、持ってきたリバノール肝油の液が殆ど無くなってしまった。負傷者の人から早く診療してくれとの要望しきり。困り果てたあげく、収容テントを見に行ったら、何と何と昨日と今朝治療して収容した人が多数息を引取ってしまっていた。そこでパッと思いついて、死んだ人に張ってあったガーゼを外して集め治療に使った。交替班が来るまで、死亡した人を見つけてガーゼを外して他の人に張り、それのくり返し、やっと午後四時すぎに交替班が到着、申し継ぎをして帰路についた。その後、放射能障害による血液障害を先ず直すために、毎日、人参、ホーレン草、ゴボウ、大根等を生のままバリバリ食べて、週一回白血球数の検査をした。最初少し白血球数が増えたが、約一・五か月~二か月で正常にもどった。
 終戦後南方復員船の勤務につかされ、南方諸島を巡り、多数の人々に帰国してもらった。同年十二月二十日復員命令が出て自宅に帰り、現在に至っています。

タイトル 原爆被災者の極限的惨劇
本文  私は、昭和二十年八月九日、長崎市へ投下された原爆被災者の救援看護に従事し、原爆による生き地獄をまのあたりにしました。その中で原爆投下に至らしめた戦争!!こそ、最も恐るべき根本である事を痛感しますと共に、平和というものの尊さを、心底思わずにはおれませんでした。
 以下、私の体験は、昭和十九年初頭当時の徴兵制度により海軍衛生兵となり、長崎県雲仙公園にありました海軍病院勤務を命ぜられた処から始まります。当時の国状の一端を記しますと、雲仙は温泉の熱湯が強力な蒸気と共に常に噴出している処や、又雨の日には、街の道路のあちこちから蒸気や泡が吹き出すなど風情豊かな温泉地で、高級ホテルや観光客の多い街でした。ところが、当時はその殆どのホテルが国によって接収され、海軍病院に様変りしていたのです。或る日入院していた傷病兵の一人が「お前たちはもう船に乗る事はないな、日本の軍艦は殆どやられたよ」と、声は周囲を憚(はばか)りながらでしたが、実感もって聞いたのを今も覚えています。
 そんな八月九日十一時二分、突如ピカッと一閃光(せんこう)が走りました。長崎方面へ目をやりますとキノコ雲がムクムクと、順次大きくなりつつ上昇しているのが見えました。翌朝は私たち衛生兵に「被爆者救援の為、至急諌早海軍病院へ出向する様に」と指示があり、私も早速かけつけました。長崎市外の病院や施設へも怪我人が続々送り込まれてきたのです。私は余りにも悲惨な被爆者に只々驚きました。
 頭も顔も胸も赤く焼けただれ、その一部の皮膚がはがれて垂れ下がった儘の人、左側からの爆風だったのか、顔から左半身が一面焼け、頭に卵大の穴が空き血が流れた儘の放心している様な人、顔も赤く腫れ上がり、胸も腕にも大小無数のガラス片が一杯刺さり動けない人、又顔や腕や胸など全面焼け、乳の皮膚がベロッと垂れ下がり、全身小刻みにぶるぶる震えている二十才前後の娘さんなど、実に痛ましい人々が毎日送り込まれ、どの病棟も廊下も足のふみ場もない程になりました。そして、のどが大変渇くらしく、病床のあちこちから「兵隊さん、水、水」と小さい中にも必死に求める声に、私は本当に胸しめつけられる思いでした。
 又無意識の様な状態の中から、「お母さん、お母さん」と、懸命に呼んでいる子供や娘さん、そうかと思うと子供を呼んでいるかの様な母親らしい人。尚恋人なのか若夫婦なのか「○夫さん、○夫さん」 「○子さん、○子さん」など、うわ言の様に呼ぶ切ない声、私は可愛想で可愛想で、呼んでいる相手の人に成り代わり、返事をしたり、手を取って上げたりしたものでした。ところがそれで安心するのか、事切れる人がよくあり、やるせない心境で一杯でした。
 又時節が暑い夏の事です。間もなく、何とあの「うじ虫」が、包帯の隙間のあちこちから、うようよ出たり入ったりしているのです。いや耳の中、鼻の中、目にまで、固まりになって這っているのです。ところがそれを自分で取ろうとする人は誰もいないのです。実に憐れでした。本当に悲惨でした。私は鼻を突く悪臭の中で、人間の極限的生き地獄を見る思いでした。そして尚どこの誰だか分らない儘、沢山の人が息絶え、文字通り死人の山が毎日できたのです。私はあの一瞬の閃光によってこれ程までの惨劇が、と只々驚愕するのみでした。
 そして八月十五日、終戦の日を迎えるのですが、米軍は早速日本に上陸し、諌早病院へも進駐して参りました。私は勝者の誇りに対する敗者の惨めさを、侘びしい中で痛感しました。特に街の子供たちは、物不足の中で育ってきただけに仕方のない事でしたが、チョコレートやガム欲しさに、アメリカ兵に物乞いをする。アメリカ兵は、犬猫にでも与えるかの様に物をくれてやる。私は益々、敗戦の悲哀と屈辱感をどうしょうもありませんでした。
 本年八月六日の中日新聞社説に「戦争は必然的に狂気と非条理を生む」とありましたが、当時の惨劇を今思い出し、全く同感です。
 従いまして、既に広島級の何十倍もの破壊力ある原爆が開発されているという現在、愈々(いよいよ)核兵器廃絶は絶対でなければなりませんが、それにも増して恐るべき根源こそ、人類間の争いであってみれば、私達は戦争のない平和で高度な文化世界を、どうあれば築く事ができるのか、道は遠くても必ず到達しなければならない二十一世紀の最大目標であり課題である事を、被爆者看護の体験の中から痛切に思わされています。関係した沢山な犠牲者の冥福を祈りながら私の記と致します。

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