体験文集:留守家族
タイトル | 振り返れば |
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本文 | 終戦五十年。振り返れば永い永い、苦しい道のりでした。昭和十三年二月四日、二十二才で縁あって○家に嫁いでまいりました。主人は長男とはいえ姉四人の末っ子で、両親には四十才すぎての子でした。一か月前までは大阪に勤めていて、田舎になれていない私が山村の農家、鍬も持った事のない農業の経験のない嫁(見合いで来たのです)でした。 当時はまだ、戦争と言っても「支那事変」と言っていました。結婚して六か月、八月四日主人に召集令状が来ました。甲種合格で立派な体格で、軍籍ある以上、覚悟はしていたものの、あまり早いのにショックでした。その時、私は五か月の身重でした。久居三十三連隊に入隊して三か月訓練を受け、十二月十一日、寒い日でした、広島県宇品港から戦地へと出発しました。私は出産三日前で面会にも行けませんでした。十四日未明、男子を出産しました。行先も知らされず、船の上では子供の出生を知らす事もできませんでした。時節柄「勝行」と命名しました。一か月程たって、やっと華中に着いたとの知らせがあり、初めて出生を知らせました。連絡がつくようになり、生後三か月目の写真を送り、父子の対面ができました。所属した連隊名だけで場所はいつも「○○にて」ばかりでした。その後、いつ来る手紙にも勤務に忙しく便りがとだえても、心配するな、子供をたのむ、しっかり育ててくれ、年老いた両親をたのむ、母は体が弱いから、無理をしないようにたのむ、ばかりでした。 武漢三鎮攻略にて日本は大勝利で、戦争も終りとの噂も流れていましたのに、だんだん戦争も大きくなり翌年、昭和十四年七月十二日、華中にて激戦の中、壮烈な戦死をとげたとの知らせがありました。正式な公報を受けたのは、七月二十二日でした。両親の驚きと悲しみは大変なものでした。役場の吏員さんも公報の届け役がなくて困ったそうです。末っ子の一人息子。男親は特に頼りにしていた義父は、号泣しました。その時義父は私に「お前も若い身で可哀想だが、どうか辛抱してくれ。お前だけが頼りだから。」と言われ、どうしてこの年老いた両親と可愛い子供をおいて帰るなどと、夢にも思いませんでした。 なれない経験のない農業を、見よう見まねで一生懸命に働きました。当時は、農機械は何もなく、牛が唯一の労力でした。義父は年寄りで牛使いもできず、私が習って始めましたが、女の使い手では思うように働いてくれず、田んぼの中で、涙と汗でくしゃくしゃになり働く毎日でした。 昭和十六年、だんだん戦争も激しくなり、この村も戦地へとられて、男手も少なくなり、農繁期には共同作業が始まりました。やがてこの山村にも食糧難がきました。一方、大事な一人息子は弱く、医者通いばかり。当時名張には小児科がないため、遠い山坂をおんぶして上野まで通いました。その弱かった息子も小学生になると、丈夫になり大きく育ってくれました。ある日、農作業から戻ると、姑は泣いています。息子は「僕のお父さんの写真ではなく、しゃべるお父さん見せて。」と言って泣かせました。中学生にもなると農作業を手伝ってくれました。中学二年の年、義父は八十二才で亡くなりました。そして翌年、息子の高校入試の日、義母は朝起しに行くと返事をしてくれませんでした。若くして未亡人になった嫁を気づかい支えてくれた年老いた両親、特に姑には最期の見とりもできなかった。私は胸が痛みました。こんな私でも頼りにしてくれていたのに、親孝行もできないままで、申し訳なく思います。 姑を困らせていた息子も五十七才になりました。三人の娘に恵まれ、孫も二人授かりました。もう、おじいちゃんです。日本中、皆苦しい時代を乗り越えたお蔭で、今は豊かな生活ができるようになり、五十年前とは大違いです。老後は、誠に幸せに暮らさせて頂いております。家庭でも大事にして頂き、残り少ない人生を一日一日大切に生きたいと思っています。私もやがて八十才に手が届きます。お蔭さまで達者で、二人の曽孫と遊んで、老人会活動にも参加しています。 可愛い新妻を残して逝った天国にまします私の大事な旦那さまに申し上げます。たった六か月の夫婦でしたが、今度おそばへ参りましたら、そんな婆さん知らんぞ、なんて言わないで下さい。二十二才だった新妻の姿を思い出して下さいと、今からお願いしております。つたない手記ではございますが、私の体験を綴らせて頂きました。 |
タイトル | 私の戦争はまだ終らない |
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本文 | 今年八月終戦五十年の首相談話に「日本は国策を誤り……」とあったが、その誤りは私が生まれる前から始まっていた。私が生まれた昭和六年には満州事変(中国と日本との戦い)が始まって父は家に居ず、私の誕生を知らなかったそうである。父は海軍軍人で艦艇に乗り組み、中国東北部沿岸警備に出動していた。その後も上海事変ー支那事変(日中戦争)ー大東亜戦争(太平洋戦争)と参加して、日本は十五年間も戦争を続け力つきて敗戦に終った。 正に私の幼少期、少年期は戦争一色であった。その間父と暮らしたのは民間に勤めた三年間だけで父は私の成長を殆ど知らずに誤った国策とやらに服従させられて家を空ける日々が続き、兄弟は生まれていない。物心(ものごころ)つく頃から母と二人きりの生活が当り前のように続いた。今考えると、戦争さえなければ親子三人の楽しい思い出もできただろうにと思う。 昭和十三年春小学校に入学したときも、父は前年に再召集されて家に居なかった。母は私に「お父さんはお国のために頑張っているのだから、淋しくても泣き言を言ってはいけないよ。」また「お父さんはいつ戦死するか分からないから、気持をしっかり持っていなさいよ。」とも言っていた。 小学校での勉強は今考えると誤った国策による徹底した軍国主義教育で、マインドコントロールされていった事が分かる。学校の教育も、社会の仕組みも、すべて国をあげて戦争遂行のために流れていたようである。学校の先生は口を揃えて、男の子は皆大人になったら強い兵隊になれ、女の子は従軍看護婦になれと教えていた。子供たちは皆その気になって毎日体を鍛える事に励み、遊びは戦争ごっこに明け暮れていた。 昭和十九年春に旧制中学に入学した頃には、成人男子は体の不自由な人以外は皆召集(強制的に軍隊へ入る)されて、有無を言わさずどんどん戦場へ送り出されて行った。一方輝かしい戦果がニュースで流れる中、白木の箱に入った戦没者の遺骨(実は中はからっぽ)が英霊と称してにぎにぎしくぞくぞく帰ってきて、国をあげて名誉の戦死と言ってもてはやしていた。残された遺家族の生活は国が守ってやるとも言った。十三才の少年にも、一寸おかしいぞ、戦争は勝っていると国はニュースで言っているが、本当は敗けているのではないか、と疑う気持ちが少しあった。しかし口に出しては絶対に言えなかった。恐ろしい憲兵(軍警察) と巡査(警察)が始終目を光らせていたからである。口に出せば国賊(国策に逆らう者)として連れて行かれる、と母から聞かされていた。 そして昭和二十年に入ったら案の定である。サイパン・テニアン・グァム島と占領され玉砕(全員戦死)したと言うニュースである。次はいよいよ台湾(当時は日本の領土)か沖縄かと言ううわさが流れ、三月からはサイパン島を基地として発進するアメリカ空軍B29(四発の重爆撃機)による本土空襲が東京を始め、大都市、軍需都市(軍施設のある都市)から全国にわたって拡がっていき、主要都市は無差別爆撃によって一般市民も巻き込み、次から次へと一面焼野原となっていった。今年一月の阪神淡路大震災の神戸市長田区の焼跡をみて、当時の様子が頭に浮かんできた。 そして四月に我が家の悲劇がとうとうやってきた。学校から帰ると母は留守だった。午後四時頃役場の職員が父の戦死公報を持ってきて「名誉の戦死です」と言って無表情に渡して行った。読んでみると、「比島(フィリピン)方面に於て戦死」としか書いてなかった。しかも前年の九月に死んでいたのである。半年も知らされなかったとは何たる事か。ショックが大きすぎて涙も出なかった。ただ、くやしい気持だけであった。 そして六月、B29の空襲で隣家まで焼けてきたが、風向きが変って幸いにも我が家は残り、何とか生きのびたのである。母と二人きりの家が空襲で焼け出された親戚の人々で十人以上になった。毎日焼け跡の整理に出かけ、焼け跡から掘り出した米びつの缶から半焼けの米を持ち帰り、皆で座敷机の上で食べられる色の変りの少ない米だけより分け、お粥に炊いて飢えをしのいだ。日本はもう敗けると思った。情けなかった。 その後も八月まで何度か空襲があり、軍施設には大型爆弾も落ち、腹の底に響く炸裂音を聞いて昼と言わず夜と言わず防空壕へ避難する日々が続いた。いつも死を覚悟していた。学校は焼けなかったが、電車が不通になったりして、線路道を歩いて登校すれば、空襲で行方知れずの友達もあり、授業も混乱して落ち付けなかった。 そして八月十五日やっと終戦となったが、我が家は父の戦死と敗戦によって収入が皆無となり、母の筆舌につくしがたい苦労が始まった。海軍志望の少年の夢も打ち砕かれて、その後の人生を大きく変えてしまった戦争が本当に憎かった。今は命を賭けて国を守ってくれた父たちや先輩たちに慰霊と感謝の気持ちを忘れず、先の戦争の正しい意義を究明し続けながら、五十年かかって汗と力で築き上げた平和日本が後世まで繁栄できるよう若者達に期待する。 |
タイトル | 悲しかった戦争中の思い出 |
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本文 | 歳月の流れは早く最早終戦後半世紀を迎えんとする今日でさえ、私達には片時も忘れる事の出来ない永い永い悲しい苦しい人生でした。 突然召集令状が届いた時は昭和十九年八月、一年生を頭に四才と生後八か月の三人の子供と病弱の父を残して出征する主人の胸中は如何ばかりだった事でしょう。口では何の不平も言いませんでしたが、家を出る時のやり切れない主人の姿が、今も胸に甦(よみがえ)って来て胸がうずきます。 出征した次の日から、父は病の床につきました。出征する息子に悪い顔を見せまいと頑張っていたのでしょう。それからは子供を背負って父の看病と野良仕事に寝る間もなく働きつづけ、苦労して作ったお米は皆供出しなければなりません。病人にだけはお米を食べさせたい、と村の役員さんに泣いてお願いしても聞き入れてくれない時代でした。冬はお芋、夏は南瓜が主食で、子供の顔色が黄色くなる位南瓜を食べさせました。 又、道路も今とちがって細い坂道ばかりで乳母車が通るのがやっとの事でした。一人を背負い一人を乳母車にのせ遠い山田に通い、田の畦に子供を遊ばせての耕作は大変でした。当時の事を思い返せば唯哀れで涙が溢れ出るばかりです。でも、戦地の激しい戦を思えば、どんな中でも子供と父親だけは守り通さねばと頑張りました。 毎朝のように東の空にB29が隊を作って轟音凄まじくやって来る、ああ今日も又やって来た、と隣の人と話し合い、毎日の仕事に頑張らねば田植がおくれる、爆音の下で目につかぬよう黒い手拭いをかぶり、成るべく目立たぬ服装をして仕事に出かけ、余り爆音の激しい時、頭の上で討ち合いでもしている様な時は、何度も田の中からとび出して昔の炭焼窯の中に隠れたものです。 そんな或る日、今日はB29の爆音もないし大丈夫だと安心していた矢先、突然激しい爆音で、今まで見た事もない艦載機が急に低空飛行して田の畦すれすれに下りて来ました。もうやられると思い、田の中からとび出て怯える子供を抱きかかえ、山陰の洞穴にかくれ、一瞬の間でしたが、こんなせまい山間の田に下りて来るとは、家に寝ている父を案じてすぐ帰ると父は無事でした。「わしは枕元に猟銃を立ててあるから米兵が下りて来たらこれで撃つから、お前達はわしにかまわず逃げる様に。」と言いました。今思えば笑話のようですが、当時はこれが精一ぱいの考えでした。次の日のニュースで、隣村の娘さんが家の近くの苗代で畦に立っている所を撃たれて亡くなり、又、近くで走っていた電車が撃たれ数人の人が亡くなったことを知りました。 それからは、女手では完全な防空壕も作れませんので、家の近くの芋穴に中が見えない様に木の枝を立てかけ、飛行機が飛んで来たらこの穴に隠れるように、子供に言い聞かせました。子供は喜んでいつもその穴の中で遊んでいました。 そして八月に終戦になり、終戦になると父は息子が帰って来ると信じて床の中で毎日待ちつづけつつ、九月の末に亡くなりました。五十三才の若さでろくに美味しい食事もなく薬もなくて死んで行った父に申し訳なく、哀れでなりませんでした。 頼りにしていた父の葬儀もすまし、それからは主人の帰りを今日か明日かと待ちつづけた十月の末、ラジオのニュースで済州島の兵隊が十一月三日復員すると聞きとび起きました。「ああ有難い、お父さんが帰って来るよ。」と子供と抱き合って喜びました。早速主人の着物を出して揃え、何時でも風呂は沸かせる様に、又、黄金色に実った稲田を主人に見てもらってから、主人と二人で稲刈りをしようと準備をととのえました。 夕食前役場から村長さんがお出でになり、何も言わない村長さんの顔を見てびっくりして「うちの主人は戦死したのですか。」と私の方から聞きました。何も言わずに頷かれた村長さんのつらい姿が今も私の胸に焼付いています。卓袱台(ちゃぶだい)の上に泣き伏した私を三人の子供は何も言わずに見守っています。この子供の前で泣くにも泣けない私。今の今まで父さんの帰りを喜んでいた子供。戦争中なら覚悟の上でした。でも終戦となった今、どうした事か、懐かしい我が家に帰れる日を目前にして、主人はさぞかし残念な事だったろう。主人の気持ちを思う時、子供達にどう言い聞かせてよいか、なす術もなく唯呆然としていました。 後日戦友のお話では、食糧が届かず栄養失調で入院し、帰る間際に野戦病院で亡くなったと聞かされました。其後、遺骨は帰って来ました。すぐに葬儀をする所を、私は役場へお願いしてせめて半年位家で祭らせて下さい、と言って立派に祭壇を作って、毎晩子供と色々な事を祭壇の父に話かけ、お経を唱えて残念無念な遺骨を慰め祈りました。 想えばあの戦いに敗れた混乱の中で泣くにも泣けない毎日でした。幼な子を背にどんな苦難も一手に引きうけて切り抜いて行かねばならない仕事のつらさ。三人の子供の手を引いて英霊の墓前に幾度泣き伏した事か。又秋の夜長に無心に眠る子供の枕辺で内職の仕事に幾夜を明かした事等、皆可愛い子供の成長と靖国の妻の責任に支えられ同じ境遇の者同志、歯を食いしばり互いに助け合い、励まし合ってやっと今日まで耐え抜いて参りました。 |
タイトル | 戦地からの手紙 |
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本文 | 「ニイチャンオゲンキデスカ、ワタシタチモミンナゲンキデス。マイニチアツイクニデ、ニクイアメリカヘイト、センソウシテイルノデスカ?……」 生れて始めて、六才の私が戦地の兄へ書いた手紙です。昭和十六年に私が国民学校へ入学する年の一月兄は赤紙一枚で出征しました。十五才離れた兄とは、親子の様に慕い、可愛いがられていましたので、「勝って来るぞと勇ましく……」の歌声と旗の波の中へ、私は泣きじゃくりながら兄の後を追いかけ父母を困らせた事を、今も私の脳裏に強く焼き付いています。その後、内地で待機中には時々家に帰って来ると、必ず私を通学路まで自転車で迎えに来て喜ばせてくれました。当時父母は、兄の面会日を待ち兼ね夜が明けぬ内に家を出て、兄の好物を持って喜ばし、束の間の別れを惜しんだのです。私も一度付いて行きたいと父母に何度か強請(ねだ)っても無理でした。子供心では、お役目が済めば必ず帰って来るからと諦めていたのです。しかし、今顧みれば、あのまま帰らぬ人となり悔やまれてなりません。 そして、ある日突然、兄が外地へ出発した事を知らされと族は唯茫然と淋しい日々となり本当に悲惨でした。幼い私が痛感した位ですから、その時父母の淋しさ、辛さ、悔しさは想像も付かない程だったと思います。しかし、当時の父母は、どんな辛さも全く顔に出さない根性と忍耐力の強さが印象深く心に残っています。父母の寝顔も見た事がなく、時々目を覚ますと、夜中に母が千人針の腹巻作りや、慰問袋に入れる物を揃えるのが必死の様でした。そんな母を見た時、「わたしにも何か手伝えないかな-」と言ったら、千人針の作り方を教えられ、うまく出来なかったが一生懸命に玉を作り、千人の真心が兄を守って下さる事も知り感激しました。 次の日に、母は私に手紙を書く事を教えてくれました。私は簡単にウンと言ったものの大変むずかしかった事を記憶しています。紙一枚無駄に出来なかったあの頃、消しゴムを使うと破れる茶色い紙に苦労して始めて兄に手紙を書いたのです。遠い国の兄が、一体どんな所でどんな事をしているのか私にはすごく興味深かったので、その気持ちを書き母に見せたのです。母は「これでええのや、上手に書けたな-、きっと兄ちゃんが喜んでくれるヨ!」と大変褒めてくれたので、私はとってもうれしくて毎日郵便屋さんを待っていました。 暫くして、学校から帰ると私に「ええものあげるから手を出して……」と母の笑顔に私はピンと来ました。「アッ!兄ちゃんからの手紙やろう?」と言って母の後手に飛び付き、待ち兼ねた兄からの絵ハガキを胸に抱き、ヤッタアと言ったとたんに涙が思わず溢れ、すぐに読めなかった事を覚えています。兄の便りには、漢字とカタカナ混じりで書いてありました。 「三枝サンオ便リアリガトウ、何ヨリウレシク読ミマシタ。皆サンモ元気デ何ヨリデス。兄サンモ元気デニクイアメリカタイジニ一生懸命デス。……」 手紙を読みながら兄の面影を想像し胸が一杯になりました。と同時に手紙の価値感を覚え、すぐに返事を書こうと自然に意欲が湧いて来る不思議な気持になりました。学校で賞をもらった絵や習字、成績表も慰問袋に入れました。戦地の兄が少しでも心の安らぎになればと、母と共に幼な心の私も願いがあり一生懸命に書き続けました。 二年生の終り頃、私が三年生になったら兄さんは帰ります……と書いてあり家族皆が大変喜んだのです。その後、だんだん戦争が厳しくなり、全く帰る気配もなく糠喜びでした。慰問袋が届かなかったり、手紙も途切れていつの返事かわからない状態になり、家族の不安は募るばかりでした。兄は眼鏡のレンズが割れると不自由なので、母は予備レンズを絶えず送っては必ず届いてくれる様に祈っていました。そんな矢先に、兄から突然「○○○島へ移りますから手紙は届かないと思います。」の一言が、最後の手紙となり三年余りの文通が途絶えてしまいました。本当に絶望そのものでした。泣いても悔やんでもどうにもならず、命令に従わされた軍国主義に対し、国民はどれだけ恨んだ事かと思います。父母も当分食事も出来ない程ショックの様でした。 十九年の夏頃、朝突然母が「兄ちゃんはゆうべお母さんのところへ帰って来てくれたからきっと戦死してしまった……」と目をはらし私達に夢の話をしてくれました。その日朝刊の一面にレイテ島玉砕の活字と、島が火の海と化した大きな記事に皆が絶句しながら仏壇にお参りし一分の無事をお祈りしたのです。 戦死した兄は母の心の中へ帰り、私の心の中には今も尚、若く生き生きとした兄がそのまま生き続け親の様に私を守ってくれています。五十年前の兄の手紙は私の唯一の宝物として大切に保管しています。二十一世紀に向けて、戦争を全く知らない人達に真の恐ろしさを語り継ぐ機会を是非今年中に企画して頂ける様お願い申し上げ私の体験文といたします。 |
タイトル | 遺されて |
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本文 | 夫の出征は昭和十七年一月二十二日、粉雪の舞う寒い日だった。召集令が来てわずか五日目。徴兵検査に合格して現役を二年務めたが、日中戦争中、義弟には二回も召集令が来たのに、夫には来なかった。周りからは籤ぬけと言われていたが、太平洋戦争に入るや否や赤紙が来た。 夫は数え年三十才、私は二十六才、そして五才、二才、生後百日の三人の子どもがいた。義父は六十四才、義母は六十才で、二町歩程の田畑を耕作し、養蚕、牛も飼っていて、夫の召集はまさに大黒柱を抜かれる思いだった。召集は覚悟していたとはいうものの、いざとなると、皆がうろたえた。 親類、知人、地区の人たちへの挨拶回りと入隊までの五日間はあっという間に経った。その頃、召集で征った兵は、二年経てば交替で還れるとの噂があったのでそれを信じた。 入隊当日は、近所や親戚の人々を招いて、別れの宴といっても昼食を共にするだけであるが、朝早くからその準備に大変である。姑は、二人までも戦争に征かさねばならぬのかと落胆し、子供の面倒もみてくださらないし、気丈な義父も火鉢の前に黙って座っていられる。何を聞いても上の空。私は二才の次女を背負って、里の母に手伝ってもらい三十人分程の味御飯を炊いた。急を聞いて、挨拶に来て下さる人にも食べてもらい、それは大変であった。でも、その忙しさに紛れて悲しみに耐えられた。「これからは、ぼやぼやとしてはおれない。人一倍頑張って生きていかなあかん。二年、二年待てば還ってくれるのだから、それまでの辛抱。」と自分に言い聞かせていた。 夫が家を出る頃は、またひとしきり雪が降って来た。長女は義妹に手を引かれて村役場まで送って行った。姑は人前にとうとう顔を見せなかったが、義父は見送りの誰彼に「名誉なことでございます。」と笑顔で応じていた。 私は家から遠ざかる夫の後姿に涙していた。忙しくて何も話す間もなかったが、話せば泣けてくるだけでお互いに避けていた。 「子どもを頼むぞ。」とだけ言い残して出て征った。 赤子が泣き出した。乳を飲ませていたら涙がとめどなく流れた。傍の二才の次女が「お母ちゃん泣いたらあかん。」と一緒に泣き出した。 義父は、田畑を半分に減らし、養蚕も止め、牛も手放し、「後は心配するな。俺が頑張る。」と言って下さった。しかし、やっと落着いてきた頃、体の不調を訴えられるようになり、程なく床につかれ十八年一月三十日亡くなられた。夫は何処に居るのかもわからず知らせることもできなかった。 待ちに待った夫からの便りが来たのは、苗代の用意をしていた頃、その軍事郵便の葉書には「南海派遣六二六一部隊奥田隊」とあった。元気でいるとの便りにほっとした。迷った揚句のはてに義父の死を知らせた。中隊長、戦友からも悔みと励ましの手紙が届き、夫は「姑と子供を頼む。何事も実家の父に相談して助けてもらえ。」と書いてきた。が父は所用のため旅行中に下関で亡くなっていた。 月に三、四回程の手紙を楽しみに家中で待った。同じ内容の葉書だったけど……。その都度、家のこと近所のことを知らせた。やがて夫からの葉書は来なくなり、新聞では、ソロモン群島ブーゲンビル島に敵が上陸したことが載るようになった。アッツ島の玉砕に続き南方にも攻撃が広がり日本の戦況、前途が見えたような気がした。神国である日本は敗けないとか、鬼畜米英とか、誰がこんなこと信じさせたのか、私は新聞記事丸呑みで生きていた。 多くの犠牲を国民に強いて、戦争が終わり、一年七か月たった昭和二十二年三月、夫の死亡通知が来た。住所のない宛名だけの茶封筒が玄関でない出入口の土間に落ちていた。そこには「近藤 朗 ソロモン群島附近で戦病死」とのみ記してあった。ペらペらの半紙に南方よりの引揚げ船が最終を迎えてからずい分経っているのに、今頃死亡通知とはと悲しみより腹立たしかった。覚悟はできていたというものの五年間ひたすら待ち続けた緊張感がどっと崩れた。出征を免れた夫の友人の「おだって征くでやわさ。わしらみたいに落付いておらんでやわなあ。」との言葉を聞いた時の悔しさ。この悔しさを何といって誰にぶっつければいいのだろう。三人の子どもの成長が生きる力を授けてくれた。 夫は、「俺は戦地に行っても絶対に生きて還る。三人の子供を残して死ねるか。」とよく言っていたけど、生死は本人の意地ばかりではどうにもならない。夫が戦死して、まるで罪を犯しでもしたように小さくなり、誰の手助けもなく、何の収入もなく、ただ夢中で働くより生きる道はなかった。 |
タイトル | 雨降りが好きな子でした |
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本文 | 娘が父親の五十回忌(仏教で言うところの)を弔うというように私の人生は、ずっと戦争を引きずって生きて来ました。 父は私が二才の時に出征し、中部第三十八部隊へ入隊しました。その後独立歩兵第十五大隊に転属し、「中華民国河南省鄭縣趙堡附近二於テエツ病ノタメ戦病死」したと軍隊手帳に記されています。万一中国戦線を生き延びても沖縄戦での生還は不可能に近かったと思われます。その父と過ごした記憶は全くと言う程無く、家に残された写真と母の話とで〃父親像″を創り上げて来ました。ところが三才の時に戦死者を村で弔ってもらった「村葬」の時のことは不思議と記憶があるのです。 小学校の運動場で行われた「村葬」に出席した私は、杉の木で囲いをして祭壇を設(しつら)えた所へ行く時、喪服を着た母に手を引かれてゆっくり歩いた気がします。他の事は思い出せませんが伯父(母の兄)が茅葺き屋根の葺き替えや庭木の剪定や米麦の収穫など、事ある毎に手伝いに来てくれ、飲むと口癖のように 「村葬の時、ひな(母の名前)が美澄の手を引いて歩く姿は、いびしょて(いじらしくて哀れでたまらないの意)見ておれなんだなあ……」と、よく言われました。 私の記憶の原点と言いますか、記憶と事実とが結び付いたのは三才二か月のこの時のように思えます。 私の家は祖母と親子三人で豊かではなくても食べて行けるだけの田畑があり、幸せに暮らしていました。父の戦死のショックで後を追うかのように祖母が亡くなり、母と二人の生活が始まりました。父に「後を頼む」と言われた母は、田畑の耕作や現金収入を求めて養蚕や他家の草取りなどをして身を粉にして働いてくれました。私は近所の親切な方々に″戦死者の家の子″として大事にしてもらったことを今も尚感謝の気持ちが大きく残っています。そんな時、世情不安で私の家に泥棒が入り、鍵をかけるようになり″鍵っ子”になりました。雨が降ると外仕事が出来ないので母が家に居て、「ただいま」と言うと「お帰り」という言葉が返ってくるので雨降りが好きな子でした。また、母方の祖母もよく手伝いに来てくれ、閉まっているはずの戸が開いている時は西側の道から走って表へ廻って帰ったこともうれしい思い出です。 こういう子ども時代を経て、当時では少なかった高等教育を受けさせてもらって現在も教員をさせてもらっているのです。残りの教師生活も少なくなりましたが、幸いにも母が仕舞っておいてくれた父の遺品の数々を「平和教育」に使わせてもらい、子どもたちに戦争の悲惨さと平和の大切さを語っています。 多くの遺品の中に「大東亜戦争二於ケル功二依り勲八等白色桐葉章及金八百五拾圓ヲ授ケ賜フ」という書類がありました。母に聞いても八百五十円という大金を貰った記憶がないということなので厚生省へ聞きました。 「初め分割して渡され、マッカーサー指令により打ち切られやがて公務扶助料になった。」ということでした。 また、現在では信じられないような文書も見つかりました。それは、葬祭料や供物料などの表です。葬祭料は将官百五円、佐官八十二円五十銭、尉官六十七円五十銭、見習士官・准士官五十二円五十銭、士官候補生・下士官四十五円、兵・諸生徒三十七円五十銭と記されています。この他死亡賜金や供物料など全て階級に依(よ)りはっきりと金額が違っていました。父は兵でしたから三十七円五十銭、将官の二・八分の一の葬祭料だったのです。 さらに遺留品明細書に記載されているのに送られた中に無かったものは現金と、預金通帳と印鑑だったそうです。これも厚生省に問い合わせました処、当時の隊長は既に死亡に付き調べられない旨の返事を頂きました。 五十一年も経てば普通は死者への思いもだんだん薄れて行くと思います。ところが父の遺品の一つひとつに思いを寄せ、軍事郵便を丹念に読み、それを書いてくれた万年筆を私も使ってみたくなったので旧式のペンを洗ってインクを吸い込ませました。でも先が片方折れていて書けませんでした。その手紙は、いつも家族を思い、生活の心配をし、五十円送金したから保険金にでも使え(実際には届かなかった)と愛情が溢れているし、田畑やリヤカーの事迄も心配し、農作業を手伝って下さった親戚や隣近所へも礼状を出してくれていたことが判りました。父は恐らく無念の死であったと思います。多分無理であろうと思っても厚生省へ問い合わせたりするのは少しでも父の事を知りたいという思いからです。父への思いは年々深まっていくのです。 人権侵害の最たる戦争が起きない世の中にするために微々たる動きでも続けたいです。 |
タイトル | 父を偲ぶ |
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本文 | それは、昭和十八年の初夏のことであった。 私は、校長先生に呼ばれ、何ごとであろうかと胸中の不安を押えつつ校長室のドアをノックした。椅子を立たれた校長先生から、「谷さん(旧姓)、お兄さんが名誉の戦死をされました。」と告げられ、思わず絶句してしまった。ひそかに怖れていたものが、現実となってわが家を直撃した様な思いにうたれ茫然と立っていた。 私は、三男三女の末っ子で、その時十五才、中勢のある女学校で寄宿舎生活を送っていた。戦死したのは、八才年上の三男であった。兄は昭和十年、十六才で海軍少年通信兵として軍籍に入り、主として潜水艦に乗務、昭和十八年一月十三日、伊号第一二一潜水艦に乗務中、ソロモン海域で戦死、艦と運命を共にしたのであった。 遺骨は、英霊として呉鎮守府より派遣された下士官が捧持して郷里の的矢へ無言の帰還をした。告別式は、村葬として盛大に催行された。 父は、元海軍軍人で、寡黙な人であった。兄の戦死の前年、請われて的矢村村長に就任していた。 兄の戦死の公報が村役場に届けられた日、公報を机上に拡げ、「家内に何と言うたらええもんかのう」と、腕を組んで天井をじっと見詰めていたという。父は戦時の村長として村政のほかに、召集、戦死を扱わねばならず辛い勤めの中にあった。わが子の戦死も凛とした態度で受けとめねばならぬ立場にあったのである。 後日、ある人から「村長さんは、出征兵士を送る挨拶をしながら泣いて居たなあ」と聞かされたことがあった。厳格で、固苦しいとばかり思っていた父の隠れた一面に触れた思いがしたものであった。 母は、英霊の母として、悲しむことも赦されず、気丈に立ち回っていたが、「晃は、潜水艦と一緒に沈んだと聞いたが、あの遺骨は何が入っとるんかなあ」と、呟いていたのを憶い出す。 昭和十八年頃から志摩半島にも敵飛行機が飛来する様になり、本土決戦に備え村にも海軍の施設が構築され、軍隊が駐屯し、その対応に追われ、わが子の死を悼む暇さえ無い父であった。 年が変わり、翌十九年の春、徴用されていた父の弟が戦死した。私には伯父であるその人は、北海道汽船に勤め、甲種船長として商船(空知丸)に乗組んでいたが、船と共に徴用され、本土近海で潜水艦の魚雷攻撃を受け沈んだと云う。沈痛な面もちで仏壇に向かっていた父の横顔が今も眼裏に浮かんでくる。 母は、その頃から、比島(フィリピン)ルソン島に転勤した長男の身をしきりに案じていた。海軍通信学校高等科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受したという長兄は、海軍少尉で母の自慢の息子であった。無事を祈りつづけた母の願いも空しく、昭和二十年四月遂に任地に於いて散華したのであった。享年三十五才、妻と幼い息子二人が残された。そして敗戦。長兄の告別式は、三男とは対照的に静かなものとなった。 次男は、陸軍に召集され華北を転戦したが無事復員した。唯一の朗報だったが、次男は既に養子に出て他家の人であった。 悲運は、更に父に追いうちをかけた。終戦の年の十月、米軍GHQが、日本の教育関係の軍国主義者、国家主義者など戦争指導者の追放を指令した。父は、それあるを期して自ら指令施行前に一切の公職を辞任したのであった。 敗戦で、それまで国から給付されていた軍人恩給も打ち切られ、遺された長男の妻子、家族を抱え食糧を得るべく山畑を耕し、薪を伐り唯々働くだけの人になった。一段と老いの深まった父の姿は今も私の脳裏から消えることは無い。 寡黙の父が更に寡黙となり、失意のうちに六十八才の生涯を閉じたのだった。それから数年、気丈な母も小さな母となり父の後を追う様に静かに逝った。 今、戦後五十年として、戦争が語られている。村山富市首相は、改めて関係諸国に対し我が国の過去の戦争行為を詫びた。 二人の息子と弟を戦場に失い、自らは村長として戦時の国家に協力、それ故に追放、遺族年金も知らず他界した父は、今、天界で何かを叫んでいる様に思えてならない。 |
タイトル | 弟たちへの鎮魂歌 |
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本文 | 「三人まで国に捧げし丈夫の母は 老いたり尊くも老いたり」 これは昭和二十年八月八日、終戦を待たず九十三才で、この世を去った母親の悲しみを義父が歌にしたものです。 大農家の働き手の義弟を昭和十三年に、華中・大別山の野戦病院で亡くし、十九年には同居していた従兄弟もレイテ島で戦死しました。日露戦争でも義父の兄が戦死しており、わが家の敷居をまたいで出征した三人とも生きて帰ってきませんでした。わが子と孫二人を戦争で亡くした祖母の悲嘆を慰める術もありませんでした。 私の実弟は、昭和十七年、名高商卒業後、大阪の丸紅支店に一週間勤務した後、千葉の防空学校で訓練を受け、久居三十三連隊に配属となりました。弟は島崎藤村や斎藤茂吉、石川啄木など文学を愛好し、とりわけ、藤村の落梅集にある椰子の実の詩が大好きでした。弟と二人で「椰子の実」を合唱したのが昨日の事のように思い出されます。 「椰子の実の詩口ずさめば異郷にて 果てし弟の便りがかえる」 これは私が弟を偲んでつくった和歌です。 私の母は、陰膳を供え、弟と自らも大好物だったみかんを食べるのを絶って、ひたすら出征した息子の無事帰る日を待ちわびていました。息子を思う気持ちがつのり辛いとき、朗々と詩吟を口ずさんでいました。 昭和十八年、軍事機密のため日付が書けないので、「ケフハ、ミツコチャンノタンジョウビデス。イマ、マンマルイツキガデテ、オツキミニヨイトキデス……」と、私の長女が読めるようにカタカナで書いた手紙がきました。「南海派遣軍剛第六〇七八部隊・進士清蔵」検閲には部隊長である自らの印鑑を押した、弟からの軍事郵便でした。 終戦間際に、東京の「菅原道子」さんという方から父のもとへ一通の封書が届きました。その中には、「今日、海軍記念日に、この島を去る一潜水夫に託す……」と、弟の手紙が入っていました。手紙には、大好きな椰子の実の詩が綴られ、両親の身を案じ、私と私の夫に「くれぐれも、後のことよろしくたのむ。」とあり、文面には、弟の言うにいえない悔しさがうかがえました。 戦争中で交通事情が悪いなか、父は息子の消息を少しでも知りたい一心で、東京まで菅原さんを訪ねました。しかし、「私の弟から『この手紙を投函してくれ』と、頼まれただけで私はわかりません。」とのこと。父はがっかりして帰ってきました。間もなく、弟の戦死の公報が入り、父はがっくりと生きる気力すらなくし、風邪をこじらせ肺炎であっけなく、弟の後を追うようにこの世をさりました。これまで病気ひとつしたことがない父でしたが、こんな戦争さえなかったら、もっと楽しく長寿で過ごせたものをと、父の無念を思うと、私は心の底から腹立たしく思うのです。 昭和四十五年頃のある秋の日に、兵庫県の加古川から、朝四時起きしてきたと坂田最市さんという方が、「『三重県の進士さん』以外に詳しい住所が分からず、探し回ってきました」と、私の実家を尋ねてこられました。 坂田さんは、「戦地ニューギニアで私が歩哨に立っていた時、居眠りをしていました。その時、進士さんが見回りに来られ『敵地で歩哨にたっていて、居眠りとは何事ぞ!銃殺だぞ!しかし、このことは誰にも言うな。』といって、その場を去られました。」 「数日経っても、誰も何にも言わないので、これは命を助けて下さったのだと、心で拝んでいました。」 「その後、私は病気になり、内地の病院に送られ元気になりました。」 「一度お目にかかってお礼を言いたくて……」と、みえたのでした。その頃、母は軽い中風で床に伏していましたが、坂田さんは「あの体格のいい進士さんが、亡くなられたとは夢にも思わなかった。」と、母の枕元でおいおいと泣かれました。 食糧補給が悪いなか、原住民の酋長に弟が英語で話をして、沢山のさつま芋や食料になるものをいろいろもらって飢えをしのいだこと……などの話を聞きました。たとえ少しの消息でもと願っていた、母や私は心の安らぎを覚えました。 戦後、現地の方の協力と神戸の黒田様のご遺族や皆さんのお骨折りで、ニューギニアに立派な碑を建てて頂きました。戦中戦後、幾多の苦難を味わったといっても、戦争で肉親を引き裂かれた悲痛な思いはいまだに心から消えません。愛する親や夫・息子たちを奪った戦争を二度とくりかえしてはならないと、戦後五十年の今、心新たに胸に刻み、子や孫に、戦争の悲惨さ、愚かさを語り伝えていこうと思います。 私は八十才、腰は曲がっても日の出とともに起き、畑で野菜や季節の花ばなをつくり健康な日々を過ごさせてもらっていますが、なによりも、わが家から出征し、帰らぬ人となった伯父、義弟、従兄弟や実弟たちのお墓の守りや祖先を供養することは、本家を預かる私の大事な仕事と思っています。 今なお、戦火の中で悲惨な暮らしを余儀なくされている人たちが大勢います。何とぞ、戦争をやめて下さい! 世界人類の平和のために! 合掌 |
タイトル | 戦争と愛の青春 |
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本文 | 幾星霜経ても、絶対に忘れ得ぬ日、小雪舞う、昭和十六年十二月八日、津市立高等実践女学校在学中、全校生徒校庭へ集合の非常召集があり、異常事態を察知、寒さと緊張で震える瞬間、放送で宣戦布告の報せを受けました。その後は総てが、軍国主義に塗り潰され、女子学生の教科から、敵国の文字として、英語は抹殺されました。 「贅沢は敵だ」 「欲しがりません勝つ迄は」等質素倹約を旨として、銃後の守りに徹しました。食糧増産をと荒地を学校の修練農場として、殆ど毎日開墾作業で馴れない鍬や鎌を持つ手に血豆ができても、痛い、辛いの言葉は禁句として皆で歯を食い縛り、慰め、励まし合って、戦地の兵隊さんに申し訳ないと頑張りました。又裁縫の時間には、きものの袖を切り袖口は小さく締め、下はモンペの決戦服と、綿入れの防空頭巾を専門に作りました。私達の同級生は干支が寅ですので、出征兵士、武運長久祈願の千人針を緑色の太い木綿糸で縫いました。鋏は使えないとの決まりがあり、爪や歯で切る為に、指先は血が滲み血染の千人針ができた事も度々でした。 十八年三月卒業、向学心に燃え、たとえ餓死しても進学したいとの希望も空しく、諦めました。当時、学徒動員で男子学生は続々と入隊しました。女子も挺身隊として軍需工場へ徴用されました。私も家から通える距離の三井造船所へ就職しました。どうにか職場にも馴染んだ酷暑の七月二十日、病弱な母が突然他界しました。亡母の四十九日の法事を済ませ、親戚の人々も帰り、静かになった夜半、突如父に召集令状が来ました。正に晴天の霹靂(へきれき)。月の美しい、虫の声も澄んだ夜を父と二人で語り明かしました。私が十八才、弟と妹三人で末の妹は三才で歩き始めた頃でした。 ○ 亡き母の法事済ませて一息す 夜半に受けしお召しの報せ ○ 子等五人見捨てて征きし若き父 お国の為と勇姿残して 父は三日後慌ただしく、日の丸の小旗を手にした大勢の人々の歓呼の声に送られて、出征しました。両親のいない子供ばかりが残された家庭は、筆舌には尽し難い苛酷な日々でした。お国の為を、合言葉として五人が肩寄せ合い淋しさを紛らわしました。三才下の妹が家事を担当し、私は朝星、夜星を頂いてボロ自転車で四粁(キロメートル)の道を通勤しました。 ○ 苦しみも父を偲べば泡沫(うたかた)に 消えて晴れ行く我が心かな 戦況は激しく、玉砕を聞く度、動揺する弟妹達を宥(なだ)め、勇気付けて過していました。夜の空襲は頻繁になり、灯火管制で暗い僅かな灯の下で、通学用衣服の繕いや藁草履作りはどうしてもせざるを得ない日課でしたが、辛い、悲しいと思う余裕もなく唯今日一日の無事を感謝し、私を頼りに無邪気に眠る幼い弟妹の寝顔に、重責を感じ、父の陰膳に語り秘かに涙しました。 伊勢神宮の近くで軍需工場が標的となり、B29爆撃機の銀翼と、金属音を響かせての空襲は絶え間のない毎日でした。職場では、実戦に備えてと竹槍、救急訓練もしました。警報の発令がないので外出した時、不意に鈍い音と同時にグラマン艦載機の素速い機銃掃射が目前で、咄嗟に手当たり次第トタンの切端を被り伏せました。音が遠ざかり、助かったと我に返り喫驚(びっくり)、手を伸ばせば届く所に銃弾の跡があり、煙と火薬の臭いが立ち込めていました。自分が命拾いした喜びより、家で私の帰りを待つ弟妹の安否が気掛かりで生きた心地のしない長い数時間でした。 食糧事情も最悪の頂点に達し、主食は勿論、総て不足でした。育ち盛りの子供には目も当てられない惨状でした。神国日本は今に神風が吹き、必ず勝つと勝利を信じ団結して、励まし、助け合い、隣組の方々始め、出征兵士の家族として優遇していただきました。今でも忘却してはならないご恩を痛感し、返すべく努めています。 「精神一到何事かならざらん」を座右の銘として、強く生き抜いて、万一父が生還した暁には、弟妹の成長を自慢して褒めてほしい一心で精一杯頑張りましたが、甲斐なく二十年八月十五日敗戦の憂き目を見るに至り、余りにも悲痛な現実に想いは千々に乱れ、冷静を取り戻す努力に、時を要しました。一枚の赤紙でお国の為と召され、大君に捧げた命と覚悟はしていた筈ですが、憤懣(ふんまん)遣る瀬ない心境でした。 「二十年三月二十七日、西部ニューギニヤ・マノクワリ方面ニ於テ戦病死セラレ候。」との死亡告知書が、二十一年六月十日付で届き、私達五人の弟妹にとって一大悲劇の展開となりましたが、現在では過去の苦労は悪夢と消え、両親を知らずに苛酷な運命の仕打ちに耐えた弟妹も五十路の坂を越え、良い伴侶を得て健康に恵まれ、恙(つつが)なく暮らしております事を何より嬉しく安堵しています。 父の最期の地へ行きたいと念じておりました処、今年三月、政府派遣慰霊巡拝団に全国で四十四名の中へ妹と二人参加出来、有難く感無量でした。お蔭様で私も古希を迎え、平和、健康、善良な人々との出合い、総てに感謝一杯の毎日です。 ○ 逢いたいと思い続けて半世紀 声はなけれど会えた喜び |