体験文集:外地で
タイトル | 戦争とわが道程 |
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本文 | 昭和十五年三月二十六日、十四才、身長百四十糎(センチメートル)に満たない私が、前日に高小卒業式をすませて郷里を出立した。実は校長先生の度重なる推めで、国策事業たる満州開拓青少年義勇軍の内原訓練所へ入所の為である。 三重・埼玉両県から三百名で中隊を編成して満州(中国東北部)へ渡る前の基礎訓練をする。農耕をしながら軍事教練、旧中なみの学課で、六時起床から夜九時消灯まで日課が詰まっている。 実は、家を出る朝、玄関迄送って呉れた祖父がその夕方脳内出血であえなく逝った。父は私の気持が動揺すると伏せていた。三か月余りの内地訓練を経て渡満の節、伊勢神宮参拝の時中隊長の計らいで帰郷を許され、祖父の墓参をしてきた。 大陸へ渡りハルピン訓練所で冬を越した頃、父より「一家を挙げて満州へ渡る」と速達が届いた。当時三重県で宮川上流十か町村から募って、満州へ二つの分村計画が推進されていた。しかし柏崎村からの参加者は至って少なかった。役場に勤めていた父に村長が「息子さんが行っているのだから村の為にも是非行ってくれないか。」と懇請され、引受けざるをえない羽目に立ち至り、.その為次々と参加者が増え一応村の体面が保たれた由、後で母から知らされた。「幼い六人の弟妹達には満州での気候風土は無理」「どうしても来るのなら父単身で」とたて続けに三通の航空郵便を父に送ったが、立場上かその決心を翻すことは出来なかった。私の渡満に反対した母までも、父に同調して私の忠告にも耳を貸さなかった。 とうとう十六年三月、一家八人挙げて故郷を捨てる結果になってしまった。ところが渡満一年を漸く越した春、母が高熱の風土病で仆(たお)れあえなく四十二才の生涯を絶ってしまった。後に残された六人の弟妹のうち二才に満たない末弟が、母亡き満州では育たず、母の後を追った。裕徳開拓団長の度重なる要請で中隊長から、「同じ開拓の途、何処で頑張るのも国の為、父の力になってやれ」と諭され、同じ釜の飯を三年喰って研き合った拓友と別れ父の許に移った。父が開拓団本部に勤めていたので弟と二人で、約十町歩の畠を耕作しながら弟妹達のめんどうを見、炊事、洗濯、青年学校とあわただしい日々だった。 徴兵年令一年繰り下げとなり、二十年春後ろ髪を引かれる思いで後を二才下の弟に托し、現役入隊東満州国境へ。八月ソ連軍雪崩を打って侵攻、巨大なソ連戦車群の前には無敵の関東軍もあえなく総崩れ。いざ開戦となっても吾軍の飛行機は一機も飛立たず、満州放棄を決めていたか東満州の兵器、軍備の殆どは軍によって本土決戦の為に移されて裳抜けの殻だった。わが部隊は戦車群を迎え撃つべく爆雷を抱いて突入したものの、怪物の様な戦車には歯が立たず、接近すら出来ない儘(まま)、私も大腿部に弾傷を受け敗退、山中に逃げ込んで終・墲mらぬ儘、約一か月の山中徘徊の揚句捕われの身となった。 秋深まる頃、十日余りのすし詰め貨物列車に押し込められて、下された所はシベリアの僻地、十一月一日のシベリアの大地は雪一色だった。 収容された仮りの宿は、鉄条網で囲まれ、四隅の望楼からは機関銃を据え、自動小銃を肩から下げた赤毛のソ連兵が睨(にら)んでいた。冷えびえとしたさながら地の果ての捕虜収容所だった。人生僅か二十年此処が最期の地かと覚悟したら、やたらと老いた父、弟妹達の顔が浮かんで涙がこぼれてきた。 次の日からは容赦のない強制労働、豚より哀れな然も少ない雑穀の食糧、迫りくる酷寒。敗戦から逃避行、強制収容で衰弱しきっている私達には、地獄の日々としか云い様がない。加えて戦に負けて尚、旧軍隊の階級制度が厳然として持ちこまれ、上官の身の回り、洗濯、肩もみ、食糧のピンハネ、言訳の通らぬ帝国軍隊生活が日中の重労働から開放された夜迄、重圧として初年兵に強制された。衰弱しきった初年兵にとっては、重労働と同じ日本人たる上官の桎梏(しっこく)の二重苦のもとには生きる希望すら奪われ、無気力な放心状態に陥り、次々と斃(たお)れていった。二千名が春を越す頃、五百人近い死者を出し、その大半が初年兵で占められていた。 それから帰国までの四年、夏は四十度の猛暑、蚊、虻(あぶ)、蚋(ぶと)、蚤(のみ)、虱(しらみ)、南京虫と敵は多く、冬は最低零下五十度を経験した。貧弱な私が義勇軍で鍛えられたお蔭か、不思議に命永らえて、二十四年十一月初め舞鶴へ上陸した。援護局で用意した私の情報コーナーがあり、そこに並べてある戸籍謄本を開くと、両親以下六人の弟妹達の名前は全部朱色の×印で抹消されていた。 急に目の前が真っ暗になった。「何の為に俺は今日まで?」勿論終戦の開拓団の惨状を見てきただけに、全員帰っているとは思ってはいなかったが悔し涙がどっと出て、あたりかまわず大声で泣いた。周りは家族と抱き合って生還の喜びに沸きかえっていた。父は終戦時開拓団家族を警備中襲われて最期、次の弟はシベリア連行後行方わからず、四人の弟妹は帰国途次栄養失調と疫病で次々と斃れた由、とうとう天涯孤独となった。お盆には弟妹五人の五十回忌懇(ねんご)ろに弔おう。 |
タイトル | 忘れ得ぬ南京戦線中国人孤児 |
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本文 | 私は昭和十二年八月動員召集に依り第十六師団歩兵三十三連隊に属し、華北の戦線に出動、同年十二月南京攻撃のため上海上流の白邱口に敵前上陸、常州無錫の激戦を経て猛進撃する日本軍、退走する中国軍、逃げまどう中国人避難民とゴッタ返し、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の状態でありました。私達はこの戦火を潜りぬけて南京周辺の湯山鎭と言う所に到達致しました。ここは中国でも珍しい温泉のある所で蒋介石の別荘もありました。湯煙の立ち上る露天風呂の様な所で戦塵にまみれた顔を洗い出発しようとした時、附近の草原の中に日本軍か中国軍かの弾に当たって倒れている母親と三才位の男の子を発見しました。母親(ムーチン)はすでに絶命、傍に男の子供が「ムーチン、ムーチン」と母親の乳房にかじりつき泣き叫んでいました。私も其の光景を見て胸にジンとくるものがありました。昨日迄は親子共々楽しく暮らしていたのに、今日は死体の乳房を吸わなければならない。戦争と言うものは本当に残酷である。一緒におられた我々大隊付の軍医官○○○少尉も深く同情せられ、もし母親に少しでも息の根があればと脈を取られたが、首を横にふられ絶望と態度で表現せられました。 ○○○少尉は、三重県津市内で医院を開業中召集に依り大隊付の軍医官になられたお方であります。○○○軍医官は、津に残してきた子供の事を思われたのであろうか、孤児の頭を撫でたり胴上げをしたり盛んにあやしておりました。そうしている中に孤児も泣きやみ、笑いさえ浮かべる様になりました。 ○○○軍医官もこれで安堵したと思い、其の場を立去ろうと五、六歩歩き出した時、孤児がヨタヨタ歩きで○○○軍医官の後をつけて行きだしました。戦争を知らない又敵味方の知らない孤児、自分に優しくしてくれる人は父親とも思い、すがりつく気持であったと思われます。このいじらしさに○○○軍医官も涙ぐみ、我々の部隊は歩く歩兵部隊、第一線部隊、どんな危険があるかも分からないと、手帳を破りこの子供の保護を頼むと走り書きし、子供のポケットに入れてやりました。かくして我々は南京入城を果し、南京警備に服しておりましたが、あの湯山鎭で見た孤児は無事保護されたであろうか、無事保護せられていれば今頃は如何しているだろうかと私の脳裏から消えませんでした。 時日は流れて第十六師団は内地に帰還、私も再度召集を受け、フィリピンに出征、野戦、内地勤務と転々と繰返しておりました。三年後のある日の新聞に「中国の戦災孤児長崎の地で死す」と言う記事がありました。読んで行く中に私達が助けた湯山鎭の孤児でした。其の日後方部隊に拾われ、部隊長の計らいで長崎県に連れて帰り、名前は忘れましたが長崎県の人の養子として手塩にかけて養育中、不幸にして病魔に襲われ、養父母の必死の介護も甲斐なく異国の地で若き命をたたれました。洵(まこと)に悲しい事であります。もし今生きておられたならば立派な日本人として初老の期に達し、日中友好の為に貢献せられている事と惜しみても余りあるものがあります。私もこの新聞記事を見て思わず長崎の方を向いて黙祷を捧げた次第であります。 戦乱の南京戦線、さまよえる幼児をよくぞ助け、内地へ連れ帰り御世話戴いた部隊長様、当時としては敵国の子女を養子とするには相当な勇気がいったと思います、養育せられた養父母様、御二方様に深甚な敬意を表する者であります。 近時新聞やテレビでは南京戦線の殺伐な報道が流れておりますが、日本軍人にも人類愛に富んだ人もいたと言う事を後世に残したいためにこの記事を書いた次第であります。 |
タイトル | 満州国最後の日 |
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本文 | 昭和十五年(一九四〇年)九月十日、私は皇紀二千六百年の祝典に湧き立つ日本を後に、旧満州国ハルビン市にある国立大学ハルビン学院に留学しました。そして昭和二十年(一九四五年)五月二十日頃、現地召集の赤紙を受け取り、アムール河を隔てて位置するソ連の都市、ヴラゴヴエスチエンスクの対岸、黒河の街の近郊、孫呉の小高い丘の上にある兵舎に連れていかれました。この兵舎は、精鋭部隊と称された旧関東軍のものと聞かされましたが、部隊はすでに南方に転戦、まるで廃屋のようで、寝台のマットや、諸器具類が塵にまみれて散乱し、全く手のつけられない状態でした。召集された私たちの仕事は、先ず兵舎の掃除、整頓でした。連隊と称しておりましたが、軍服も小銃もなく、平服のままの中年者の集団でした。毎日私たちは、白木の小箱を首にかけ、仲間の歩いて引いてくる荷車を敵の戦車に見立てて、飛び込み自爆する練習で、全く児戯に類するものでした。こうした練習の合間には、何かの薬の原料にでもなるのか、山林に入り、タンポポの根を掘り集めにかり出されました。これでは日本ももう駄目だ、との感が一同の胸中をかけ巡りました。 このような生活が一か月余り続き、七月初旬になり、私は突然ハルビンの部隊に転属を命ぜられました。ハルビンでは、夜間だけ兵舎生活、昼間は平服で、白系ロシア人向けのロシア語新聞「ウレミヤ」 の記事執筆、編集に従事しました。 そして、八月八日朝早く、遠くで轟く爆発音、非常召集がかかりました。始めは、アメリカ軍の爆撃かと思いましたが、ソ連の対日宣戦布告と知り、いよいよ最後の日が来たと観念しました。直ちにウレミヤ社に出勤、数十人の白系ロシア人の社員に対し、各人は自由意志によって行動してよい旨伝えましたが、二、三人を除いて皆、新聞の編集発行を誓い合いました。事務机の中には、銃弾を装填したピストル、自決用の青酸加里を入れて、対白系ロシア人の宣伝記事の編集を続けました。そのうち、八月十五日には重大発表が行われるとの各国からの外電が入ってきました。 いよいよ昭和二十年八月十五日昼、終戦宣言発表のラジオ放送! 私は、ウレミヤ社屋三階の編集室の窓から、ハルビンの街を見下ろしました。全市全戸に青天白日満地紅の中華民国の旗が掲げられたではありませんか。まるで全市が真紅の炎に燃え立ったよう! そして、晴れ渡った北満州の秋空の下、意外なほどの静寂! 五族協和、王道楽土、鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の楽天地という歌い文句に踊らされていた虚脱感! ひそかに中国国旗をかくし持ち、五色旗掲揚を強要されていた満州(中国東北部)の人々の怨念が、今幻の満州国崩壊の送り火として、燃えたぎっているよう! この時の光景と感慨は、半世紀の日時を経て、今尚、あざやかに、私の脳裡に昇華しています。 ウレミヤの白系ロシア人は全く平静でした。直ちに全員で残務整理をし、十六日付の新聞を発行し、輪転機に封印し、夜中の十二時頃から朝までウオツカで別れの乾盃をして、社屋を退去しました。 軍の命令により一週間程自宅待機の後、八月二十日頃、武装解除をするからハルビン神社に集合するよう命ぜられました。ハルビン神社には一千名程の軍人、軍属、開拓団の人々が集合しておりました。詰所で銃声を聞きました。それはピストルで自決する人々のものでした。それらの人々の顔が皆平静で安らかなものであったのが、却って哀れでした。 進駐してきたソ連軍に兵器類を渡し、ソ連軍兵士の監視の下、ウラジオストツク経由で日本に帰還できるとの噂を唯一の心の灯として、行く先わからぬ行進と野宿を重ねて、約一週間程で牡丹江の街につきました。日ソ両軍の戦闘の第一線であった牡丹江は、一人の人間もいない不気味な死の街、ゴースト・タウンそのものでした。私たちが収容されたのは、牡丹江の郊外ハイリンの兵舎で、そこは、軍人、軍属、開拓団員、一般人の数万人にも及ぶ人々の一大集団でした。 ハイリンでの約一か月余りに及ぶ生活の後、十一月の初め頃から私たちの上に一つの動きが出てきました。それは一千名単位で毎日牡丹江駅に集合し、列車で送られて行くことでした。ウラジオストツク経由で、日本に送還されるものと信じていました。しかしそれは、はかない夢でした。十二月の初めになって、送られた人々は、皆ソ連の地で労働に従事させられていることが、わかりました。結局私も、家族と別れ、虜囚の身として、ソ連で足かけ五年の年月を過ごし、昭和二十五年四月下旬、ソ連のナホトカから舞鶴に帰国、焦土に、新しい人生の一歩を踏み出すことになったのでした。 |
タイトル | 後世に語り遺したいこと-極限のその時に- |
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本文 | 三重県と姉妹提携が実現しそうな非核憲法の新しい国、パラオ、そこの清水村で私は昭和十一年末より二十一年一月末まですごしました。戦中のパラオは有名なペリリユウの他、更に小島のアンガウルまで早くに玉砕しました。しかし本島と殆ど隣接するコロール島は歓楽施設多く、ラバウルとか、あちらの方で戦った兵隊さんが一しきり休養する所で、少しの海軍と大部分の陸軍でかなりいた軍隊も、重火器の少ない戦力の小さな集団でした。 そんな事情から攻略をする意味もなかったらしく、ペリリユウを基地としての演習場として米軍は位置付けたようです。翼にF4Uと書いた飛行機が時たま一~二機で来襲し、二回位機銃掃射をしていく。兵も民間人も皆ジャングル内に居を移しました。したがって戦闘そのものの悲惨という点では余り遇っている方ではないと思います。 しかしパラオは私の家をふくめ農家もかなりありましたが、主食が穫れません。戦局がすすみ輸送が途だえると、軍、民間人、島民で数万はいたと思いますが、甚だしい食糧不足におちいりました。 軍政が施かれ、全耕地サツマ芋が作付けされましたが、小さい中に盗掘されクキ葉だけでもと思えどバイラス病の発生で伸びてくれない、追い打ちをかけるように米軍のドラム缶オイル爆弾で焼かれてしまう。そうなるといくら熱帯のジヤングルといえども、何とかでも食える木の根、草の葉は限られています。しかもビンロウ樹の若芯にしても、シダの大木ジヤ木の若芽にしても取るため木を倒せば再生産はありません。 数字で言うと分かり易い。二千人の部隊で二百人を残して餓死したと云われた所さえあります。やせている中はまだいい、それがむくんで腹が大きくなるともう駄目なのです。 青酸を含むが多収故に澱粉用に栽培された毒タビオカ(芋)を忠告しているのに食べて死んだ人、空襲の危険をおかしてリーフ地帯でシヤコ貝をとり食べすぎて死んだ人、非常用の米を食べてペリリユウに肉攻斬り込みをして死に度いと言いつづけた兵隊さん。あれもこれも忘れることができません。 私の後世に語り遺し度い言葉、それはそういう極限状態の中、権力者の軍将校はどうしていたかということです。 十八才以上は現地召集され、十二才以上男子は集められ少年隊として作業させられましたが、幸か不幸か私は父が村役をしていたため、体には楽な司令部のお茶くみ、走り使いをしていたので、一般の人の知る以上のことを知ってしまったのです。 別棟に住み、常に白メシを喰い、初期には情婦をかこう者さえあり、更には極高級将校は山の奥で酒まで作らしていたのです。勿論、全部の部隊がそうではなかったと思うし、私の知る限り海軍はそんなことはありませんでした。終戦がどんだけかおくれるかしただけで、パラオは餓死の玉砕をしていたことは確かだと思います。 終戦後米軍からは現地の余裕品か量は大したことはなかったものの、コンビーフ、ソーセージ、オートミールなど今まで名も知らなかったものをいただきました。 そして復員、引揚げ、軍は一番先に帰ってしまいました。残していった特作(特別作業隊)と呼ばれた朝鮮人が、数は少ないながら集団生活故にカが大きく、略奪暴力行為に出ました。島民も時の村役場に当たる南洋庁支所に怒鳴りこんで来ました。皆が逃げた。私がその陰に隠れていた父が独りふみとどまり酋長と話を詰め、理解を得るところになり、島民が内地人に付いたために、特作の暴力も治まりました。よく聞いて見ると、軍はごく僅か残った物資を、その三者すべてに「お前達にやる」と云って帰り、それがさわぎの元でした。権力のこの卑怯さ…。 そして引揚げ乗船の日、見送りに来て下さった最後の南洋庁長官細萱茂四郎氏(ミツドウエー海戦主任参謀)の顔が子供心にも淋しそうで今でも忘れられません。旧駆逐艦、「柿」「竹」が浦賀に着いた二十一年一月末日夕、雪が白く舞っていました。 人間のみにくい姿を思春期に見すぎ、その後の私はながく人間不信から抜け出すことができませんでした。それはその後の人生の半分にも当たると思います。だが、阪神大震災では素晴しい人間の助け合い、いたわり合いを見れて本当にうれしい。 島民部落への米軍の攻撃はなかったが、それでも若し玉砕していれば今日の姉妹提携の話も起きなかったような気がしてなりません。 かつて島民はそれなりに豊かだった気がしますが、時代は変わりました。海域は鰹の宝庫です。漁業協力など県民の皆様よろしくお願いします。末筆ですがパラオの発展を祈ります。 文中、元の呼び名で通しました。お許しを。 |
タイトル | 敵産農園 |
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本文 | 昭和十八年十一月、河原田農学校卒業直前千種の陸軍演習場で、査閲の最中に盲腸炎となり入院、手術の経過悪く、十二月卒業式(戦時特例)の前日迄欠席した。卒業後も保養を兼ね、家で昭和十九年を迎えた。一月の半ば母校より「農業学校出身者で、南方農業指導員を各県で一人募集している。推薦するがどうか」との便りがあった。私も南方行きを希望していたので応募した。四月から高峰興亜錬成道場(神奈川県)で六か月間訓錬を受け、十月六日門司港で乗船した。十隻の船団を、駆逐艦一隻、海防艦二隻の護衛で大陸の沿岸を南進するコースであった。 十月二十六日夜、舟山(シウザン)列島附近で敵潜水艦の攻撃を受けた。爆雷投下の音で飛び起き、救命胴衣を着け甲板へ出てみると、曳光弾が花火の様に飛び交い、暫くして砲声が聞えて来る。私はこわさを忘れて眺めていた。私が実戦を見たのは、これが最初であり最後であった。曳光弾という弾のあることを、この時に知った。サイゴン・シンガポール(二十五日滞在)を経て十二月十日ジヤワに到着した。 敵産農園管理を命ぜられ、東部ジヤワのカリタケル農園に配属された。農園はラウン山の麓にあり、高所からはかすかにバリー島が見える処であった。 カリタケル農園は、面積一二九三ヘクタール、内ゴム園約六百ヘクタール、コーヒ園約五百ヘクタールという広さで、現地人と、その婦女子を入れて約三千人でその任に当たった。最初は先輩の路線に従って、古いゴムの木を伐採して、苧麻・玉萄黍(ラミー・ジヤゴン)の植付をするといった仕事にたずさわった。ゴムの木は植付後三十年以上経過すると樹液の出が悪くなる。 昭和二十年になると水田を作ることになった。当時十八才の私には稲の栽培法は少々知っていても、ダムを作って水路を開き、水田を作るなど全く無知の仕事であった。玉萄黍畑や、苧麻畑等で水の来る処は水田に変わっていった。失敗もあったがそれでも八月頃には約八十ヘクタールの水田を作ることが出来た。第一回に植付した稲が稔りはじめたので、支配人(ワキルプゴレス)と収穫の相談をしている時、終戦となった。 農園の支配状況を記すと次の様になる。支配人の下に部長(シンデリー)が居る。部長は二人居た。大農園になると三人の処もあった。部長の下に課長(カパラマンドル)が二人居る。その下に班長(マンドル)が数名居た。オランダ時代からの系列そのままで、各班長の下に労務者が十名居た。 他、工場長と要員二十名、事務所に数名。例えば私が支配人に「明日から水田の方を五十人程増したらどうか」と云うと支配人は、部長と相談して「誰の班は水田へ行け」と命令を出す。命令系統は正しく行届いて、翌日は必ずその人員が水田に来て作業をする。班長の中には字を書くことの出来ぬ者も居たが班長の命令には絶対服従する。作業は勤勉である。 三千人の中に一人の日本人というので、多くの武器・防具・自動車等を与えられていたが、私は丸腰で歩いた。従順な彼等には終戦まで、いや敗戦後も決してその必要がなかった。農園を離れる時には、送別会を催してくれたほどである。 農園の主な作物 パラ護譲(カーレツト(ゴム)) ゴムの樹というとビワの葉の様に大きく滑らかな葉で、幹の中腹部からいくつも根が出ている観賞用のゴムの木と思われがちだが、農園のゴムは葉も小さく、幹も白みがちで、「クロガネモチ」そっくりである。これをパラ護譲(ゴム)という。下には「わらび」が自生していて内地の林に居る様な錯覚をする。植付後六年目位から、幹の皮に魚の骨の様なキズをつけ、そこから流れ出る白い樹液を湯呑形の容器(マンコ)に受ける。毎朝九時頃に集めて精製・加工する。このゴムは海底電線の被覆に最適という。 伽排(コピー(コーヒ)) コーヒは青木の一種と思われる。日陰を好むので、コーヒの植付と同時にネムの木(ラムトウロー)の苗木を植える。この木は五メートル位となり、コーヒは三メートル位なので陰を作る。赤く実った果実を収穫し、皮をむいて乾燥する。収穫時には近くの小学校から「一日奉仕」の形で手伝いに来てくれた。目方に応じ賃金を支払う。 平成四年二月、農園を訪れることが出来た。私の住んで居た家も、彼等の家もそのままであった。我々が若さをぶっつけた水田には、ゴムやコーヒが植わっていたが、水路は変わらずに流れていた。 私を覚えている者が数人居て握手を求めて来た。在職中隣の農園とのバイパス道路を作り、大東亜道路(ジヤランアシアテムラヤ)と名付けたが、そのまま今も使われているのが嬉しかった。 |
タイトル | 日ソ開戦 長かった新京(現・長春)の三日間 |
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本文 | 二十年八月八日夜、うとうとしている時無気味なサイレンが鳴り出した。時計を見ると十一時五十五分、米軍の空襲と直感し家族と共に近くの防空壕に入ったが、その途端ニブイ爆発音が二発聞こえた。当然引続き猛爆があると思い不安な十数分を過ごしたが、其の後予期した爆音も聞えず静かなので家族を家に戻し、私は取り敢えず上司の総務課長(後の駐トルコ大使)に連格を取るため急ぎ官舎に向かった。官舎に着くや課長から「今司令部から呼出しがあった。丁度よい、君も同行してくれ」とのことで二人は直ぐに迎車に乗り暗がりの中を飛出したが街は意外に静かであった。司令部に到着するや課長は参謀長室へ、私は事務所で待機した。(大使館事務所は関東軍司令部と同建物内にある)待つこと約二十分、戻られた課長は開口一番「戦争だ!!ソ連軍が国境の各方面から侵攻し我が軍と激戦中だ。あの空襲はソ連機で宮廷近くに二発の爆弾を落したんだ。今から帰って対策を考究する」と緊張の面持ちで話された。私は最近の異常な程のソ連軍の極東集結振りや関東軍の現状等の情報を知る機会があり、ソ連の参戦は必至と確信していたので特に驚きもしなかったが、然(しか)し予想よりは二月程早い結果となった。 二人は官舎に帰り直ちに館員を集めた。公使より非常事態の説明があり、先ず重要文書の焼却開始と来るべき空襲に対処出来るよう細かい指示がなされた。私は一まず帰宅し仮眠の後で平常通り出勤して早速十八年度以前の文書より焼却するよう手配すると共に、ドイツ降伏後欧州より引揚げ途上にある我が方外交官への便宜供与や、たまたま米軍捕虜慰問のため滞在中の万国赤十字社代表ジユノー博士とストレラー女史の日本還送手続等で一日中忙殺された。其の間時々空襲警報はあったが来襲はなく単に神経を昂(たかぶ)らせられるだけで開戦後の第一日は暮れた。 夜は宿直勤務で深夜に警報サイレンが鳴り軍司令部の壕に待避した。壕内で秦参謀長と同席したが、その際「元気で頑張れよ!!」と声をかけられ感激した。郷土の大先輩であり巨躯堂々、沈着な態度には特に敬服し親しみと安堵を覚えたが、此れがお会い出来た最後となった。 十日早朝軍用機で出発するジユノー博士一行を送りに課長と空港に向かった。早暁の空襲警報の余波で諸準備に支障があり予定より大巾に遅れて正午過ぎに出発したが、無事鳥取に着陸出来るよう願った次第である。空港で待機中ス女史から「二人だけでなく貴君も日本まで同乗して欲しい」との申入れがあったが多忙を理由に断った。彼等は飛行中にソ連又は米軍機の誤認攻撃を極度に恐れていたようであった。 事務所に帰ったのは午後二時頃となったが待ち兼ねていた職員から一時間程前に関東軍副官から指名で私に呼出しがあったと言う。休む間もなく副官部に行くと部付の少尉(後の外務次官、駐英大使)が「遅かったよ!!では命令を伝達する。『軍は予期される明払暁の大空襲に備え軍及び大使館家族と女子職員を隠密裡に疎開させる、各自持物は自分の手で持てる範囲のもの一個だけで午後四時までに此処に集合すること、疎開先は現在不明である』以上。」 私は急ぎ事務所に戻り命令事項を課長に報告したが時刻は既に二時半を廻っていたと記憶している。課長は「家族にとって晴天の霹靂(へきれき)の如きこの命令!!残る時間も僅少で考える余裕もない筈、在庁の職員は即刻帰宅し家族の疎開準備を助けるように」と命ぜられた。私も急ぎ帰宅し唖然とする家族を急がし、幼児の必要品を主に最小限の身廻品を持って司令部へ急行した。裏庭には数十台の輸送車が準備されており先着順に点呼乗車せしめていたが、此の時から家族は軍の輸送指揮官の統率下に入った。大使館からは三幹部職員が同行して午後五時頃司令部を何処へともなく出発した。 職員にとっては此の慌しい家族との別れが永別となるやも知れず一抹の不安を隠しきれなかったようだが、程なく家族等は駅に行ったと知り一同見送りのため駅に向かった。私は駅で家族と事後の打合せをしていたが、課長が近づき、「君も一行に同行せよ!!」と予期せぬ命令を受けた。身仕度のため自宅へ戻ると家は既に略奪を受け屋内散乱目ぼしい物は皆無の惨状で致し方なく手ぶらで駅に急いだが途中涙の出る口惜しさと情けなさを痛感した。 疎開列車の出発は午後七時の予定であったが、灯火管制下の入換作業にミスがあり復旧に手間取り、出発したのは十一日午前四時頃であった。列車は出発しても吾々には依然行先不明であり、北朝鮮平壌市が目的地と知らされたのは鴨緑江を越えてからであった。 後日此の避難列車が「関東軍は一般市民を捨てて軍人及び組織的行動力のある日系官公吏の家族のみを優先乗車させた」と(誤解も含めて報道)、非難の的となったことは周知のところである。 |
タイトル | 運命 |
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本文 | 私は今年七十七才の喜寿を迎え、元気で幸せな生活をおくっている。 当時、日本男子ならば、満二十才になると徴兵検査を受けねばならぬ義務があった。合格した若者は、一日も早く国の為に役立ちたい夢を持っていた。 昭和十三年四月、満二十才になった私も、徴兵検査をうけ、乙種合格となった。厳格な身体検査、出生や家庭事情、軍隊に入った時の心構え、そして口頭試問が実施された。 この口頭試問の時、私は試験官(当時陸軍中尉)に、三年余り英語の通信教育をうけて勉強していることを語った。このことが私の運命を左右するとは、その時は想像もつかなかった。 一か月後の合格通知が届いたその頃は、日中戦争の真っ只中で「日本軍が向かうところに敵なし」の勢いがあった。 昭和十四年二月、現役兵で広島電信第二連隊に”通信兵”として入隊した。同期の桜は百二十人であった。一緒に入隊した初年兵は、満州電信第三連隊への要員で、有線兵、無線兵そして初めて編成される特殊無線情報隊員の三班に配置編成された。私は奇しくも情報要員に配属されたことで私の運命が決まったのである。広島で十日間滞在し、満州(中国東北部)は新京(現・長春)にある電信第三連隊に配属となった。 何故、私がこの情報隊要員に選ばれたのか?無線の資格も経験もなく専門学校も卒業していないのにと不思議に思った。後日上官から聞かされたのは、徴兵検査の折りの身上調査に記入した「英語を独学で勉強した」ことが効を奏したということだった。銃ならずペンを持って勤務するようになったが、如何に学問が大切であるか、身を以て体験し、苦労して勉強した甲斐があったことがうれしかった。 情報隊教育は特別で人一倍苦労した。暗号の解読、ロシア語の習得である。情報隊の任務は、敵の情報電波を特殊な通信機で盗聴、それを翻訳し、速やかに作戦本部に伝える重要な任務でいわゆる情報スパイである。現役の時はソ連が対象で、召集されてからは米軍が対象であった。満州各地を転戦し、三年間の任を終え除隊となった。 妻を迎え、子供にも恵まれ、銃後の守りを固めていた昭和十九年三月、「東京電信第一連隊入隊」の召集令状が届いた。戦局から考えれば再び故郷には帰れない覚悟で家族と別れて東京に入隊した。しばらくすると、北方派遣軍首都隊の要員として北海道札幌の基地に配属命令がでた。私の情報隊は樺太、北千島、南千島の三班に編成された。私は南千島班に配属されて、南千島択捉島の基地に勤務することになった。 終戦時には、北千島はソ連兵の侵入で全員戦死、樺太班はソ連に抑留された。南千島班は情報のお蔭で、日本の敗北をいち早く知り、札幌本部に引き揚げ全員無事であった。 「運」という字は軍の道と書くように、軍隊ほど「運」に左右されるものはない。その「運」を導いたのが先に書いた英語の独学であった。 ここで、情報機関に勤務していた私の終戦前の秘話、未だ誰にも発表していないことを記すことにする。 南千島で一年六か月、僅かな人員で昼夜を問わず交替で勤務、綿密に情報を収集していたが、昭和二十年五月頃から、いくら情報を提供しても内地には、戦闘用の飛行機は一機もなく、沿海には潜水艦もなく、完全に制空権、制海権は敵の手中に納まり、成す術もなかった。私達情報隊員としては、やりきれない毎日が続いていた。ちょうどその頃、終生忘れることの出来ない「ことば」を聞いた。 勤務室でダイヤルを回していると、日本語の放送が聞こえてきた。よく聞くとマッカーサー司令官からの生放送であった。内容を聞いてみると 「日本政府に告ぐ。日本はポツダム宣言の受諾を第三国(ソ連)を通じて回答する準備を進めているが、そんなことをすると、日本は大変なことになる。どうか一日も早く私に直接申し入れよ。日本国は私が責任を持って守ります。」 この放送が一時間毎に共同通信を通じて流れてきた。しばらく経って本部から″今の放送は敵の作戦であるから、聞いたり記録に残すことを禁ず″との命令が届き、それから一過間後、再び放送があった。 「日本政府は私の言葉を信じてくれなければ、最後の手段を考えている。」 これが原子爆弾の投下のことであった。 日本政府は司令官の言葉を無視し、ソ連を通じて受託を申しいれた。ソ連はこれ幸いにすべて協定を放置し、日本に宣戦布告し、直ちに満州、樺太、千島に侵入し、ソ連の思うままになったのである。 私達の部隊はソ連が参戦する前に札幌基地に引き揚げ、その後、終戦となった。 戦後五十年間、私の脳裏から離れないのは、あの時の司令官の放送である。 若人よ!つねに向学心を忘れずに、と申し上げるとともに、私が今日まで生きながらえることができたのも運命であるが、戦時、他の地で軍人・軍属として散華していった人々のことを思うと無念でならない。 戦争は惨いものである、二度と起こしてはならない。 |
タイトル | 戦勝記念日 |
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本文 | 年月の流れは早いもの、戦後五十年の節目とかで、マスコミもさわがしい。私達引き揚げてきた者にとっては、つい此の間の事のようにも思える。未だに大勢の老若男女に襲われ、ソ連兵や、八路兵に銃をつきつけられている夢をみる。旧満州(中国東北部)の、彰武という街で、取り残された町の人達が十七日にソ連の機銃掃射をうけてから、慌てて引揚げが開始され、逃避行が始まった。錦県迄来た時に、それぞれの道に別れる事になり、私達は、兄夫婦が居る安東へ、途中こわいめにあいながら、やっとの思いで逢えて、しばらく其処(そこ)に居た。 昭和二十一年の年が明けてからだんだん安東の街もきびしくなってきて、男女共に何処へともなく連れて行かれる事が多くなり、安東の財閥達も反動分子として銃殺されるようになった。そんな或る日、我が身にふりかかってきたのである、男の人は労工という名目で、ある一定の期間がすぎると帰されてくるのに、女の人は帰ってこない。たまに帰ってくると、お腹が大きいという噂で、女の人達は極度に恐れていた。運悪く、つかまった二十余名の者は、剣付鉄砲の八路兵に、グルリと周まれて逃げる事も出来ない。私も、その時は悲壮な覚悟をしていた。鴨緑江江岸より、船頭が三名、八路兵一名、日本人指導員一名の監視のもとに、ジャンク船へ乗せられて、行く先も分からず、毎日、空と水ばかりながめて八日間、ゆられ、ゆられて着いた処が城子瞳(ジヨウシドウ)という街だった。 八路軍の「後方第七分院」という陸軍病院で、傷病兵の看護の仕事にあたる事になった。「あおれんが」の普通の民家を二軒程を一つにして、両側にベッドが並んだ粗末な部屋だ。二十一名の手、足の負傷で歩けない重症患者ばかりだ。全部世話をしなければならない。「小便」の時はまだいいのだが、「大便」の時は一人がいい出すと奇妙にあちらこちらでも云い出すので困ってしまう。爪を切らせたり、身体を拭かせたり、大変。今迄お風呂なんて入った事もないのであろう、その垢たるやすごい。中に一人、とても我儘な八路兵がいて、私達、看護する者も随分我慢して世話をしてきたが、余り無茶をいうので、此方(こちら)も遂にたまらず、幹部に云うと、すぐにその患者をこらしめる為に、ベツドごと空部屋に移し、「食事を運ぶ以外は、一切世話をしないでよろしい」という。自分では何もできない患者なので、少し可哀想な気もした。一日の予定が、半日で音(ね)を上げて、元の病室へ戻してもらったが、それからはとてもおとなしくなった。傷のなおりがおそく、長い病床にあるものだから、祷創(じよくそう)迄できて痛そうだ。包帯交換の時は、太ももや、足の脛等、貫通銃創のため、ゴム管をぬくと、ドロリと膿が流れてくる。はれ上がっていて、少しでも手荒くなると、悲鳴を上げる。看護人の中には、意地の悪い人もいてベツドの間を歩く時に、わざとベツドにぶつかると、それが傷にひびいて、大の男が泣きそうな顔をする。何時か、私が静かに痛くないように持ち上げて包帯をかえたのを覚えていて、包帯交換の時になると、外の人では駄目で、必ず私の事を呼ぶ患者がいた。私が行く迄、医者にもさわらせない。私も始めは八路兵の看護なんて、と思っていたが、国共戦で傷つき病床にあり遠く故郷をはなれている事を思えば、日本人も中国人もないではないかと、或る日、突然気持の持ち方をかえた。すると気持にも余裕が出てきて今迄と同じ事をしていても、イヤイヤでなくなった。言葉は充分通じあわなくても、何となくお互いの心にそれが分り、そんな感謝の気持ちを表わしたいと、日に僅かな配給のタバコを惜しげもなく貰ってくれという。吸わないからと云ってもただ「謝々」と云うだけではたりないからと、どうしてもというので此方もありがたくいただいて、部屋へ帰ってから、仲間に上げていた。 医者が回診に見えてベッドを一巡すると、患者達は、「我も我も」と医者の白衣のポケットへ押しこんで、ポケットはふくらんでいる。それだけ患者達も、早くなおしてはしい感謝の気持なのであろう。 再び、八月十五日がめぐってきた。この日、八路病院では、戦勝記念日と称して、患者達は勿論の事、工作員達にもご馳走をしてくれる事になった。夕食は皆も期待してきたとみえ、一度にドツーときてせまい食堂はごった返している。今日の炊事の人のご飯の盛りのいい事、私達の食事は、煎餅(チエンピン)や、粟(あわ)のオカユばかりだったので、皆も白いご飯にあこがれていたのだが、いざ今日のようにご飯をいくらでも食べさせてくれると、少し食べただけでお腹一ぱいになってしまう。患者の方も、お菜が八通りもある。 八路兵にとっては、戦勝記念日でも、一年前の此の日を境に海外の日本人はひっくりかえって無一物となり、逃避行が始まった。私達にとっては敗戦記念日、今日は無事でも、明日はどうなるか分からないという日がつづいていた事を思うと、おいしいご馳走も喉を通らなかった。 |