人権教育推進管理職研修会 森 実さん講演 「管理職として自校の人権教育をどのように進めるか」(中編)
(2010年9月作成)
大阪教育大学教職教育研究開発センター教授である森実さんは、1980年代後半の「せいかつ」編集以来、いろいろな形で三重県の人権教育に関わっていただいています。
近年では、「人権問題に関する教職員意識調査」や人権学習教材「わたし かがやく」、そして2010(平成22)年3月発行の「人権教育ガイドライン」の監修もしていただいています。 今回は2010(平成22)年6月に開催された、人権教育推進管理職研修会(小中学校長対象)においてご講演いただいた内容の一部をお届けします。
( 6/1の講演資料はこちら )
(前編へ戻る)
3 国際的な「学力」観と人権教育について
(1)「正解」のない時代
ガイドラインが各学校の現場で活きるために、こんなことはどうかというのを紹介して、参考にしていただければと思います。同和教育と人権教育をめぐる動向について話をさせていただきたいと思います。
昨今、国内的には人権教育に、逆風的な雰囲気が結構あると私は思っているのですが、国際的な状況をみると、決してそうではないと感じています。
1980年代ぐらいまでであれば、ヨーロッパをみれば、あるいはアメリカをみれば、何らかの答えらしきものがあったのに対して、1990年頃からは、よそを見ても正解はない時代になりました。
政府関連の文書によれば、「勤勉観」にしても、昔なら二宮金次郎のような人が勤勉とされていましたが、今は働く時は集中して働き、休む時はきっちり休んで、緩急をつけられるのが勤勉なのだと言われています。しかも情報化が進むこれからの時代は、国際競争に勝つという意味でも、労働の生産性を上げるという意味でも、情報をぎゅっと集中的に集めて、新しいものをつくり出して発信できるような力こそが求められているとしています。
いわゆる新しい学力観というのもそういう流れの中で出てきたものだと、私は思っています。
(2)国境を越えるシティズンシップ
そういうような問題意識から、国連は「持続可能な開発のための教育( 略称で ESD =Education for Sustainable Development)」ということで、2005年から2014年までの10年間を、そのための10年として定めています。( 文部科学省が「持続発展教育」もしくは「持続的発展教育」という概念で言っているもの。)
これまでのやり方では地球は滅び、温暖化が進んで氷が溶けて、どうなるかわからない。だから新しい未来のつくり方をしなければならないというような教育です。その中身には環境問題もありますが、人権問題とか南北問題とかいろんな問題を含んでいます。こういうことについて、新しい解決策を見出せるような教育をやるというのが一つです。
それとも関連して、この20年間ぐらい、世界中で言われているシティズンシップ教育が、以前と明瞭に違ってきています。以前ならシティズンシップ教育といえば国民教育であり、国民としてどう育てるかという教育でしたが、1990年頃からは、国境を越えたシティズンシップへと変わってきました。
先陣を切ったのはヨーロッパでした。ヨーロッパは、ご存じの通り国境の枠がだんだんはずれていって、ヨーロッパという経済圏をつくってきています。人もどんどん移動できるようになってきています。だから、どこの国の国民であるということよりも、ヨーロッパの人間である、もしくは、私は一人の人間だというアイデンティティを強くもって、そのための行動ができる人でないとこれからやっていけない。だからヨーロッパは1990年頃から、国境を越えたシティズンシップ教育というのを打ち出しています。
こういう動きが、ヨーロッパだけではなくて、アメリカでも、アジアでも、いろんな所で起きてきています。
(3)PISA型学力とインターナショナル・バカロレア
ニュアンスの違いはありますが、グローバル化が教育の変化の根底にあるというのは間違いのないところです。さらに、PISA型学力というのはまさにそういうものです。国境という枠を越えて、正解のない問題に自分なりの答えをみつけることのできる、そういう力のことです。
PISAの有名な問題で、こういうものがあります。「A さんの家は、学校から400m離れています。Bさんの家は学校から800m離れています。Aさんの家とBさんの家の間の距離はどれだけでしょうか。」こういう問題に出会った時に、日本の子どもたちは「1200m」と答えてしまったりします。しかし、正解は「400mから1200mの間のいずれか」となります。このように、答えが一つに決まらないような問題が出題されているのです。
インターナショナル・バカロレアをご存知でしょうか。国際的に通用する大学入学資格で、日本でも300ぐらいの大学がこれを入学資格として認めています、どんなものかと言いますと、日本人のもつイメージとはかなり違います。
この間ニュージーランドへ行った際に、オークランドにある、オークランド・インターナショナル・カレッジという、国際的な大学の入学基準にかなう教育を行っている学校を訪問しました。そこの学校には、台湾や中国、韓国や日本の子どもたちも通っています。インターナショナル・バカロレアには3つの柱があります。1つ目は卒業論文を書くということです。自分なりのテーマを決めて、卒業論文を書くのです。レポート用紙で10枚~20枚です。これを書かなければ、クリアできません。2つ目が「知識の理論」、そして3つ目が、芸術活動や社会活動、ボランティアなどの活動です。
この3つが柱になって、授業内容が構成されているのです。
(4)自分たちが抱える問題を解決できる人権教育を
2つ目の柱である「知識の理論」というのはわかりにくいので説明します。
私たちは、総校長から説明を受けました。私はそのとき、学生を5人ぐらい連れて行ったのですが、総校長は「もしも『美』というものを表現する何かをここに持ってくるとしたら、何を持ってきますか」と学生たちに質問をしました。それに対して、家族の写真という学生もいましたし、絵や花を挙げる学生もいました。「一人ひとりによって『美』というものは違いますよね。けれども共通するものもあるでしょう。それは何だと思いますか」というふうに話を深めていきます。学生たちからいろいろ意見を出してもらいながら、その共通する部分が何か、一人ひとりの人間にとって『美』というものは何かを深めていくようなことをされたのです。そして、これが「知識の理論」という学びなのだと説明されました。
私は、この学校が受験教育をしていながら、卒業論文を書いて「知識の理論」を学び、社会活動やボランティアをするという、人生や社会において役立つようなことをしていることに注目し、尋ねてみたくなりました。
「受験教育に力を入れているはずの貴校が、なぜそんなふうに人生にとって役に立つようなことができるんですか、その二つをなぜそんなにうまく統合できるんですか」というふうに質問しました。
それに対して、総校長は日本でも校長をされたことがあるそうですが、「それは簡単です。受験がそうなっているからです。」これは、我が意を得たりのお返事でした。総校長は続けて「今どき、ペーパーテストで、点をとってそれで入学が決まるような大学は、きわめて限られています。」また、「他の国の、いわゆる有名な大学で、必ず問題になるのは面接です」とも言われました。面接の場面で、自分が何者であるのか、自分はこれまでにどんな経験をしているのか、自分は何ができるのか、そういうことを表現できなければ絶対受からないということなのです。
日本の大学は、卒業するのはわりあい楽です。でも諸外国の大学は、入った後で厳しくふるいをかけますから、入学の時はペーパーテストで厳しく限らなくてもいいというふうに言われていました。
私は、今のグローバル化のもとでは、日本での学力をめぐる議論というのは、どう考えても変わらざるを得ないだろうと思っています。
人権教育も、「これが正解だ」と覚えるタイプではなく、今自分たちが抱える問題を解決できるような、そういう人権教育をつくっていくべきだと思っています。
4 現在の人権教育の課題を克服する視点
(1)自尊感情だけにとどまる傾向
文部科学省が公表した「人権教育の推進に関する取組状況調査」について簡単に紹介します。
その結果ですが、都道府県の教育委員会は、三重県のようなガイドラインとか指針や行動計画をある程度つくっていますが、市町村でつくっているところはまだまだ限られています。
内容でいうと、人権教育といっても全国的には人間関係づくりだと思われてるふしが強いです。先ほどの、インターナショナル・バカロレアで通用するような行動力、問題解決能力、新しい問題にチャレンジしようとする意欲などを育てるような人権教育はなかなか行われていないということです。
自尊感情は決して悪いことではないと思いますが、それだけにとどまっているという傾向も全国的には強かったです。さらに、実感の喚起にとどまり、知識獲得も弱く、スキル、行動力育成が弱いということです。
「子どもの権利条約」についても、四本柱で構成されているとか、何年間かに一度、国がその取組等を国連に報告しなければならないというようなことはあまり知られていません。これを知らないということは、条約の何たるかを知らないということで、やはり、知識的側面にまで届いていません。
人間関係づくりとか、自尊感情とかの、極端に言えば「気の持ちよう」というような側面にとどまっていると思います。これは、私個人だけではなくて、「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」の委員みんなの一致した意見です。
それから、個別課題に関心をよせる学校も少なからずありました。自由記述で部落差別、アイヌ民族への差別、女性差別、障がい者差別などについて書いておられる学校は思った以上に多かったです。全国にある様々な学校が、個別課題ついて関心を寄せて取り組んでいるということはよくわかりました。
(2)「古典的な差別意識」と「現代的な差別意識」
今の日本の人権教育の進捗状況、取組状況にも関わるのですが、海外の調査も参考になると思います。それによると、「古典的な差別意識」(露骨型) と「現代的な差別意識」(巧妙型)があるという言い方をしている研究があります。
「古典的な差別意識」というのは、きわめて攻撃的な性格をもった差別意識です。それに対して「現代的な差別意識」とは、「別に差別するつもりはないが、ほかの人も差別しているし、ちょっと避けておいた方がいい。」みたいなタイプです。
「現代的な差別意識」が今は強くなっており、逆に「古典的な差別意識」は弱まっていると言われていますが、これがいつ逆転するかわからないというのは、第二次世界大戦の時のナチスを見ればわかります。
ナチスが登場する以前は、ドイツでもどちらかといえば現代的な差別意識に当たるものが多かったみたいで、ユダヤの人たちは近所のドイツの人とそれなりにつきあって暮らしていたようです。ところがナチスが登場して、それが攻撃的な差別意識に扇動されて一挙に変えられていったというのがあります。ですから「『古典的な差別意識』は弱まって『現代的な差別意識』は強まっている。だから差別はあとちょっとでなくなるだろう」というふうに言い切れないところがあるのです。
また、人権学習においても、「現代的な差別意識」が多い中で、学習で取り上げているのが「古典的な差別意識」だけだったら、ミスマッチになるということです。巧妙な、「現代的な差別意識」にどうアプローチするかがポイントになるということです。
(3)「現代的な差別意識」克服のためのジグソーメソッド
「現代的な差別意識」の支えになっているのは、いわゆる実力主義です。
「人間は努力して頑張ったら何でもできる。だめな人は頑張っていないからだ」というふうな発想、別の言い方をすれば、「機会の平等」というだけの発想でいると、この巧妙な「現代的な差別意識」にとらわれやすいということが言われています。
また、「現代的な差別意識」では、不安や不快感による「回避的差別行動」が特徴です。人権や差別について学んでも、それが確信にまでならないと、他の人の差別意識に出会った時、差別する側に流れてしまいかねないということです。
柔軟に物事を受け入れるという姿勢は持ちながらも、自分の確信になるものをきちんと持てるような学習が不可欠になっているということです。一本調子な、堅い確信だけなら、それはポキンと折れかねません。芯はありながらも、柔軟に対応できる力を育てる必要があります。これは先ほどお話しした、国際的な学力とつながると思います。
さらに、協同的学習活動による回避的行動の克服、ジグソーメソッドという方法が提唱されています。ジグソーメソッドというのは、ジグソーパズルのように、いろんなピースがあって、そのピースを分けて勉強するのですが、それが一枚の絵になった時に全体像が見えてきて、新しく何かを発見できるようなタイプの学習です。
例えば、総合的な学習の時間を活用して、一つのテーマのもとでグループに分かれます。あのグループは部落差別、隣のグループは女性差別、向こうは障がい者問題、あそこは外国人問題、あちらは性的マイノリティの問題… と、いろんなグループに分かれて調べて、みんなが調べてきたこと寄せ合わせたら、差別というものがどのようなものなのか発見できるような学習がジグソーメソッドと言われる方法です。
そんなふうに、グループに分かれてそれぞれのテーマを追求し、最後に集まったときに、新しいものが見えるという学習をすれば、そのプロセスそのもので発見があり、結果においても発見があります。さらに、グループの中にいろんな人種や民族の人が入っているようにすれば、活動している中で新しい発見があり、それがいろんな意味で差別を越える力になるというのです。
そのようなものが、回避的行動、あるいは巧妙な「現代的な差別意識」を変えていく力になるのではないでしょうか。
(4)その他の大事な視点
それから「共感」「多様性」「被操作嫌悪」「一貫性」などがカギだということです。
「共感」というのは、学習によって「部落の人はこんな思いをもってるんだ」「『わたし かがやく』の松田さんは、こんな思いを持って暮らしてこられたのか」というように共感できるということです。
「多様性」とは、例えば部落にもいろんな人がいる、部落外にもいろんな人がいる。部落と部落外というように、白黒分かれるものではなくて、いろんな色あいがあって、いろんな人がいて、一つの集団ができているというような発想を持てるようにしていくということです。
「被操作嫌悪」について説明します。ワークショップや参加型の学習をした結果、学習成果が上がるという報告もある一方で、効果が上がらないという報告もあります。効果が上がらないのは、学習をした時に「自分はこんなふうにやらされている」「こんな意識を持てというふうに言われている」と学習者が感じている場合です。特に、人権などのようなきわめて大事な、自分の意識の部分について操作をされたいとは思わないので、そのあたりは注意する必要があるということです。
「一貫性」というのは、例えば先生の態度が国語の授業と、人権学習の時では違うというようなことがないようにすることです。
このようなことをどんなふうに学校として活かしていくのかがポイントになってきているというのが、ここまでの話です。
もう一度初めの所から繰り返しますと、どこかに答えがあって、その答えを教えたらよいというような時代ではないということです。
確信は育てなければならないけれども、新しい状況に出くわしたら、自分なりに判断をして、そこから新しい答えを導けるような、そういう力が求められています。それは学力全般でも、人権教育でもそうだということです。
(後編へ続く)