三重県水産研究に100年(創立百周年記念誌)
三重県水産試験場・水産技術センターにおける研究史のトピックス
7.カツオ漁業に関する研究
明治時代の県下のカツオ漁業は、志摩、度会、北牟婁、南牟婁の4郡、34ケ町村47浦で行われ、漁船600隻余、漁夫6,000人、漁獲高67万貫(2,512.5トン)であったと、明治36年度の三重県水産試験場報告に記載されている。当時のカツオ竿釣漁船は肩幅7尺(2.1m)、長さ7~8尋(10.5~12m)、無動力で15~20人の漁夫が乗り組んで操業していたが、その後明治41年(1908年)に県下で初めて発動機を据え付けたカツオ船南島丸(ケッチ型16本、16トン石油発動機付帆船)を水産試験場が借り受け、試験操業を実施し、カツオ漁業における動力漁船の優位性を実証するとともに、石油発動機講習会を県下各地で開催し、普及に努めたことから、動力漁船が急増することとなり、また漁場も拡大していった。
漁場の拡大に伴い、漁況情報が漁獲量を左右する大きな要因となってきたことから、大正3年(1914年)以降、県関係漁船から漁場探査結果の漁撈情報を収集し、関係各漁村に速報するようになった。そして、大正9年(1920年)に本邦初のディーゼル式発動機を据え付けた遠洋漁業指導船五十鈴丸(38.49トン、50馬力)が建造されたことにより民間の漁船に先行してのカツオ、マグロ漁場の探査や漁況通信が可能となり、併せて船員養成等を積極的に推進したことから、本県のカツオ、マグロ漁業は、飛躍的に進展していった。また、大正12年(1923年)日本で最初の飛行機による魚群探査試験を水産試験場が試みている。
昭和に入って漁船の大型化が進み、100トンを越すものが見られるようになってきたことから、これら大型漁船の指導に対応するため、昭和2年(1927年)に無線電信電話や各種航海計器を完備した神威丸(138.3トン、ディーゼル275馬力)を建造し、海流や漁況等の情報を沖合各船に提供したり、ラジオ放送を通じ各漁船員の家庭にそれぞれの漁船の漁況情報を提供する等の業務を行った。このように、明治から昭和初期にかけての水産試験場は県下の最新の指導船、漁撈、航海術の普及等を通じ、先導的役割を果たした。
一方、戦後の水産業は動物性蛋白質供給源としての重大な使命を担い、戦時中、船を失ったものも更に優秀な船を建造して立ち直りつつあり、またカツオ、マグロを主体とする遠洋漁業への投機・進出が顕著であったことから、水産試験場でも、昭和24年(1947年)に遠洋漁業指導船第一大洋丸(196.5トン、430馬力)を購入し、北赤道流と赤道反流を主軸とした南洋マグロ漁場での資源調査や漁業実態調査を漁船に先駆けて実施したり、それまで本県船が殆ど出漁しなかった東経150度線以東のカツオ、ビンナガ漁場調査(昭和26~27年度)を実施する等、遠洋カツオ、マグロ漁場開発を積極的に推進していった。また、昭和28年(1952年)、30年(1955年)には熊野灘から伊豆諸島付近海域のカツオ、ビンナガ漁場探索に民間の小型飛行機を使用し、無線電信電話により沖合各船に通報するというようなことも試みられた。
しかし、戦後から昭和40年代前半の全国的な風潮はマグロ漁業に傾いており、本県においても昭和32年(1957年)、県内最大級のマグロ専用指導船大勢丸(579.62トン、ディーゼル1,200馬力)を建造する等、マグロ漁業の指導に重点がおかれるようになり、カツオ漁業の調査研究は、カツオ漁船間の漁況聴取簿の解析によるカツオ、ビンナガ漁況予測やカツオの回遊生態を究明するための標識放流試験が主体となった。
昭和41年(1966年)頃から北緯20度以南のいわゆる南方漁場での操業が活発になり始め、それに伴って餌イワシの確保が重要な課題となってきた。すなわち、漁場の遠隔化による航海日数の長期化や高水温による餌イワシの大量へい死対策である。この餌イワシのへい死を防止するため、昭和39年(1964年)に漁船の餌イワシ蓄養用活魚艙に酸素を補給するシステムを開発した。そして、大、中型カツオ船にそのシステムを設置し、普及を図った。これは、漁船の補助エアータンクから各活魚艙に配管し、カーボン製の酸素分散器を通し、活魚艙内に空気を補給する装置で、56隻のカツオ船にこの装置を据え付けた。その結果について、アンケート調査したところ、非常に効果がある43%、少しは効果があるが57%という評価であった。
餌イワシの確保のためいろいろな実験が行われた(昭和49~53年・伊勢湾)
民間のカツオ一本づりの様子(餌イワシヘい死対策試験中)
昭和44~45年頃、マグロ類の水銀汚染問題が生じたことから、カツオが見直され、カツオ漁業の全盛期を迎えるようになったが、一方では餌不足が深刻化してきた。浜島水産試験場でも三重県鰹鮪漁業協同組合からの委託を受け、昭和45年(1970年)に、南方餌料対策試験として南方での餌料採取のための集魚試験および餌料イワシの歩留り向上試験を実施した。試験の内容は南方海域領海外でのカツオ餌料魚の分布調査(カツオの胃内容物調査)、水中集魚灯による餌料魚分布調査および内地積込みイワシの歩留り向上試験であった。この南方餌料対策試験は、翌昭和46年(1971年)から昭和48年(1973年)までの3ケ年間、水産庁の指定調査研究総合助成事業の「カツオ餌料船内蓄養技術改良試験」として実施された。この研究では餌イワシの運搬技術の確立がへい死対策の重要課題として取り上げられ、活魚艙の改良や活イワシの蓄養管理、餌イワシの魚病に関する多くの知見が得られた。その後2ケ年間、本県独自調査としての餌イワシ需給状況等の調査を行った後、再び昭和51年(1976年)からの3ケ年間水産庁の指定調査研究総合助成事業として「カツオ餌料イワシの大量へい死対策研究」が実施された。その結果、大量へい死の主な要因は餌場の餌イワシの質と漁船活魚艙での飼育管理の不十分さにあることが解明された。このような調査研究と相俟って、民間企業による低温蓄養装置の開発と普及がなされたことから餌イワシの大量へい死問題もようやく落ち着きを取り戻していった。
餌料対策としてはこのほか伊勢湾分場が昭和49年(1974年)から53年(1978年)の5ケ年間にわたって実施した「伊勢湾カタクチイワシ活餌料化開発試験」がある。
この試験は、伊勢湾内のバッチ網で漁獲されたカタクチイワシ、マイワシをカツオ一本釣の餌料として利用しようというもので、バッチ網操業地点から蓄養場所までの曳航生簀網の開発等もあり、利用可能の結果を得た。また、カタクチイワシの代替魚種としてテラピア、金魚、イカナゴ、ドジョウ等について実験を試みているが、これらは普及するまでに至らなかった。
一方、カツオ漁況、海況関連調査研究についてみると、昭和51年(1976年)から平成元年(1989年)にかけて、中部太平洋西部海域の夏ビンナガ漁場の先行調査を県立水産高校の練習船しろちどり(389トン)や民間船に研究員が同乗して実施している。カツオ一本釣漁船の好、不漁は、春先から初夏にかけてのビンナガ漁に左右されるほど依存度が大きく、業界の期待も高いことから、業界船に先行して当該海域の調査を行い、漁況、海況情報として提供するというものであった。この情報は本県のカツオ一本釣漁船にとってカツオ漁からビンナガ漁への切替時期の決定や漁場選択の面から貴重な情報となった。
現在、カツオ漁業に関しては、別項(海洋観測調査)に詳しく記載したように、気象衛星(NOAA)からの情報を活用して、カツオ漁場の形成機構に関する研究を行い、熊野灘沖のカツオ漁場の変動と黒潮流路の変化との関係についての知見が得られつつある。