尾鷲林業の沿革
尾鷲地方は、徳川時代には紀州徳川藩に属し奥熊野尾鷲組と呼ばれていた。紀州藩は私的所有林を広く公認し、林業生産を奨励したことにより、当時から木炭生産とともに用材生産も盛んになり、寛永元年(1624年)には初めて人工造林が行われた。
また、この地方は港湾をひかえ、古くからの海運の便に恵まれていたため、商人資本が蓄積され、その資本が企業的な山林経営を発達させていった。その頂点に立っていたのが土井家であり、当時スギを中心とした造林技術の発達に貢献したことから他の地方に比べて林業が著しく盛んになり、山林経営の企業化が進んでいった。
現在のようにヒノキによる密植造林が行われるようになったのは明治の中期頃からである。