みえ国際協力大使 山本敬典さんからの活動報告(2014年12月報告)
赴任国:タンザニア 職種:理数科教師 2013年1月派遣
極限の空腹状態の時に見えた月
こんにちは、山本敬典です。青年海外協力隊員としてタンザニアの南東部にあるマサシという町で活動しています。もうすぐ2年間の任期を終えて日本に帰る予定です。この2年間を振り返りながらタンザニアでの活動・生活をお伝えしたいと思います。
任地にある山の頂上、夕日が沈んでいく。
数学教育、無力感
私は日本でいうところの中学2年生から高校2年生程度の子どもたちが通うマサシ・デイ中等学校にて数学を指導していました。タンザニアに派遣される前は「アフリカの子どもたちは貧しさからちゃんとした教育を受けられない。だからみんな勉強熱心だろうな」とちょっとした妄想もありました。しかしここに来てみると子どもはどこも同じだということが分かりました。日本と同じで勉強が好きな子もいれば、嫌いな子もいる。数学の説明をすぐに理解する子もいれば、なかなか飲み込めない子もいました。
その中で日本と違うなと思ったことが少しあります。まず1つ目は生徒の「熱さ」です。生徒たちが問題を解き終えると、机間巡視しながら採点してあげるのですが回答が正解した生徒は、これでもか!というほど喜んでくれます。逆に間違っていたときは、こちらに何で間違ったんだ!というとても不満な表情をします。人数が多くて、採点できなかったときは、してもらえなかった子はいつも怒って文句を言ってきます。そんな風に1問1問にとても熱心に取り組んでいました。これは教師からするととてもやり甲斐がありました。そういった感じなので一人でも多く採点してやろうと授業中は全力で動き回っていました。
その「熱さ」との反面、数学に対する苦手意識をなかなか拭うことができませんでした。生徒は口を開けば「Math ni ngumu(数学は難しい)」と言います。もちろん、数学が好きで得意な子もいるのですが、それは本当の一握りです。これは赴任当初から感じていたのですが、この2年間で変化をもたらすことができませんでした。そういったこともあり、この国が抱える教育の問題にこれからも向き合っていきたいと考えています。
角度の問題の小テスト中
その中でも生徒たちに何かしら日々伝わっていることはあると信じたいです。教育はすぐに成果のでるものではないので、生徒が何年後かに私の授業や話、数学を思い出し生徒の人生に何かしらのいい影響を与えられれば、と願うばかりです。
きつかった食中毒と、タンザニア人の優しさ
任地のマサシは年間を通して過ごしやすい気候であり、この2年間大きな病気や怪我もなく過ごすことができました。しかしたまに体調を崩してしまうことがあり、大変な思いをしたことも何度かありました。
赴任して半年くらいが経過したころ、町の中心部にあるレストランで夜ご飯としてタコのスープを食べました。任地マサシは内陸部にあり、海産物は採れないのですがバスで6時間離れたムトワラという港町から魚やタコを運んできて売っています。たまに食べる海の幸は非常に美味しく、つかの間の贅沢でした。
しかしある日、そのタコスープを食べた夜にいきなり熱が上がり、お腹が痛くなってきて食中毒のような症状がでました。翌日の仕事を休み、熱が下がらず、一歩も動けず、朦朧とした意識の中、ただ横になっていました。体調を崩したときは近くにコンビニもないし、飲み物やヨーグルトなども簡単に手に入らないので薄暗い部屋に一人で寝ていると本当に気が滅入ります。
夕方になり仕事が終わる時間になると、同僚や生徒が心配して見に来てくれました。ベッドの上でグッタリしていると、大声で「大丈夫か!大丈夫か!」と起こされ、「ウガリ(トウモロコシの粉を練って作った料理)を食べろ」と全く食欲がない中、無理矢理食べさせられ「寝ると良くない、ここでしばらく俺たちと話しをしよう!」と言ってタンザニア流(?)の看病をうけました。きつかったけど、人々の温かさを肌で感じた日でした。
みんなで1つの大皿にのったご飯を食べる、この温かさがタンザニア流
心動かされた瞬間1 -シャツに空いた穴-
以上のようにこの2年間色々ありましたが、やっぱり青年海外協力隊としてタンザニアに来て本当によかったです。それはタンザニアの人々に心動かされた瞬間が何度もあったからだと思います。
ある日、生徒の家に誘われて夜ご飯をごちそうになりました。エサウくんは小さい頃にお父さんを事故で亡くし、兄弟もいないのでお母さんと2人で住んでいます。家に電気や水道がなく、月明かりの下で食べたウガリ(先ほども登場しましたが、タンザニアの主食です)はとても美味しかったです。お客さんだからと、いつもはたぶん食べてないであろう、肉も少し振る舞ってくれとても嬉しかったです。ご飯を食べ終わり、家の中でエサウくんと話をしていると、「明日の準備をする」と言って部屋から出て行きました。少しすると彼はアイロンとシャツを両手に戻ってきました。電気がないのでアイロンは炭の熱を利用したものです。
炭の熱を使ったアイロン
時折、炭を補充するために外に行き、戻りを繰り返しながら1時間もかけてシャツ2枚とズボンをとても綺麗にアイロンがけしていました。たまに火の粉が飛んで、シャツに穴が空くこともあるようです。学校では穴の空いているシャツを来ている生徒をよく見ます。その度にいつもは「だらしないなぁ」としか思っていなかったのですが、その日から「この子、アイロンがけがんばっとるんやなぁ」と思うようになりました。
旅行で訪れただけでは、こんな細かいところまで知ることはできない。協力隊の2年間だからこそ、と言える瞬間でした。
心動かされた瞬間2 -空腹を分かち合う-
タンザニア、任地マサシの人々はキリスト教とイスラム教が半々くらいです。ですので多くのキリスト教会、ムスクが町には建っています。イスラム教徒たちは年に1回、1か月ほど断食します。赴任直後の1年目はイスラム教徒の生徒が「Nina njaa(お腹減ったー)」といつも言っていたのを聞いていただけでしたが、それなら自分もやってやる!と思って2年目は断食に挑戦しました。
簡単に説明すると、断食は朝、日の出前に朝食を済まし、日没後に夕飯を食べ、さらに夜中にもう1度食事をします。そして日中は何も食べず、飲まずといったところです。断食を始めて2、3日は喉の渇きが本当にきつく、特に1日7、8コマの授業があるときはカラカラで倒れそうでした。でもイスラム教徒の生徒も同じ状況なので、励まし合えましたし、同じ気持ちになれた気がしました。
断食という行がある理由の1つに「お金持ちも貧しい人もみんなが等しく空腹を感じる」というものがあると、イスラム教徒のおじいさんが教えてくれました。たしかに生徒や同僚、近所の人と「腹減ったなー」と同じ空腹を共有する喜びがありました。
とはいっても実際やってみると正直きつかったです。でもその中でイスラム教徒の生徒や近所の人が家に夕飯に誘ってくれたり、そこでイスラム教徒についての話も聞けたり、それがとても楽しくていつも夕方が来るのが待ち遠しかったです。
日が沈む頃、みんなで食事。一日の空腹を満たす。
断食最終日、とても細い月が空に見えた時、辺りから歓声が上がりました。ラマダン終了の合図です。ちょうど私は道を歩いていたのですが、子どもたちが空を指差してキャッキャ言っていました。「ああ、ようやく終わった…」と安堵の気持ちでいっぱいでした。
雲の切れ間から見えた月
そして次の日はラマダン明けの祝日でした。1人の生徒に「頑張ったからウサギを食べよう」と言われ、一緒にウサギを買いに行って丸焼きにして食べました。まだ15歳くらいなのにウサギを屠畜し、さばく姿はさすがタンザニアの子だなと思いましたし、命の有り難さや「食べる」ことの有り難さを噛み締めることができた1日でした。
おわりに
2年間、週に5日くらいは継続してランニングをしていました。日本ではよく音楽を聴きながらしていましたが、こちらでは何も聴きません。なぜなら目が合った人はあいさつしてくれるし、道端にいる人は応援してくれるからです。そして子どもが一緒について走ったり、大人もついてきたりします。常に応援されているような気分で走ることができました。ここタンザニア南東部は貧しい生活をしている人がとても多い地域です。ですが人々はいつも陽気で幸せそうでした。陳腐な決まり文句ですが、たしかに生活水準は低い、でもこうやって笑っていられればこれ以上のことはいらないのでは・・・と、夕方、いつも走りながらそんなことを考えました。
走り慣れた道、地元の人はみんな温かかった
食生活がきつかったり、頭にきて怒ってしまったりすることも多くありと大変なことを挙げればきりはありません。しかし多くの人に助けられ、とても多くのことを学ぶことができた2年間でした。
青年海外協力隊 H24−3 理数科教師 山本敬典