「新しい時代の人権教育の課題~人権教育ガイドラインを受けて~」
森 実さん(大阪教育大学教職教育研究センター教授)
2018(平成30)年6月1日(金)、人権教育管理職研修会を行いました。講師に、「三重県人権教育基本方針」や「人権教育ガイドライン」の監修者でもある森実(もり みのる)さん(国立大学法人大阪教育大学教職教育センター教授)をお迎えし、「新しい時代の人権教育の課題 ~三重県人権教育ガイドラインを受けて~」と題してご講演いただきました。ここでは、その一部を紹介します。
Ⅰ はじめに
三重県教育委員会発行の「人権教育ガイドライン」の作成に協力させていただいた立場から、これからの人権教育に必要なことについてお話をさせていただきます。
人権及び人権教育をめぐる動きについて、国内のことを中心にお話ししようと思うのですが、簡単に世界的な動きについてもふれておきます。世界では様々な問題が発生してきています。例えば、ヨーロッパでの難民への処遇、中東での戦闘・戦争状態、アメリカでの人種差別等、様々な人権問題があげられます。しかしそれらに対抗する形で、人権を大切にしなければならないという認識、或いはSDGs(Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)※という環境なども含めた、人類の生き残りをかけた取組が必要だという認識も広がっています。
「人権教育ガイドライン」は、2017(平成29)年に改定された「三重県人権教育基本方針」と同様に、現在の日本及び世界の動向を反映して、非常にタイミングよくつくり出されたものであると思います。
※この「持続可能な開発目標」の目標4.7は「2030年までに、持続可能な開発のための教育及び持続可能なライフスタイル、人権、男女の平等、平和及び非暴力的文化の推進、グローバル・シチズンシップ、文化多様性と文化の持続可能な開発への貢献の理解の教育を通して、全ての学習者が、持続可能な開発を促進するために必要な知識及び技能を習得できるようにする」であり、国連の「人権教育のための世界プログラム」第4段階には、この目標と連携した取組が盛り込まれている。
Ⅱ 人権教育の新しい時代とは
1「障害者差別解消法」の施行(2016.4)
2016(平成28)年4月に「障害者差別解消法」が施行されました。この法律は、国連総会において2006年に採択された「障害者の権利に関する条約」を基礎としてつくられています。この条約は、様々な意味で人権のものさしを大きく前進させたと思っています。その一つが、障がいの「社会モデル」
このことをもう少しわかりやすくするために、赤線を描き加えます。
こう考えると、階段というのは二足歩行の人のための配慮であることがわかるのではないでしょうか。図①は、二足歩行の人のための配慮はあるけれど、車椅子を使っている人のための配慮はないという状況です。これは配慮の不平等であると、「障害者の権利に関する条約」は提唱しています。
この考え方は、他の問題でも適用できます。例えば、男女共同参画の促進の問題です。日本の社会では、家事・育児を女性の仕事だという意識が強く、「女性は結婚して子どもができたら会社を辞める。だから投資しても無駄になる」という論法が陰に陽にまかり通っています。その結果、女性は昇進の道が閉ざされ、意思決定の場に女性がほとんどおらず、それがまた女性が参画しにくい状況をつくる、という悪循環を生んでいます。こんなことが起こるのは、社会が「家事・育児をしなくてもよい人」だけを基準にしており、配慮の不平等があるからだと言えます。
この問題を解決するには、女性が安心して働き続けられる状況をつくることが必要です。つまり、家事・育児等を夫婦で分担するなど、だれでも安心して社会生活を営み、持っている能力を発揮できるよう、社会環境を整えていくことです。
問われるのは、労働を権利と考えるかどうかです。権利であると考えれば、すべての人が労働の権利を行使できる状態をつくることが必要だということになります。
このように「社会モデル」という考え方は、障がい者以外の差別問題を考える時にも役に立つのではないかと思います。
2 「ヘイトスピーチ解消法」の施行(2016.6)
2016(平成28)年6月に「ヘイトスピーチ解消法」が施行されました。この法律については、川崎市でヘイトスピーチに反対する活動に取り組んでおられる方から伺った話を一つだけ紹介します。その方は、「法律ができる前と後で、警察の対応が明らかに変わりました。法律ができる前は、ヘイトスピーチをしている人たちを守るかのような警備の仕方をしていたのが、できてからはヘイトスピーチに反対する人を守るような警備の仕方になりました」と言ってみえました。
この法律については、具体的な規定が弱い等の様々な意見がありますが、少なくとも川崎市で見る限り、明らかに変化があったということです。
3 「部落差別解消推進法」の施行(2016.12)
2016(平成28)年12月に「部落差別解消推進法」が施行されました。これまで日本には、「部落差別」という言葉が入った法律は一つもありませんでした。「同和対策事業特別措置法」では、「同和地区の福祉や経済力の培養」等については述べていましたが、「部落差別をなくす」とは一言も言っていませんでした。しかし、この「部落差別解消推進法」では、「部落差別」という言葉が20回も使われ、「部落差別をなくす」ということをはっきりと書き込んでいます。
この法律の作成に係わったある国会議員の方は、「この法律は、『理念法』と言われていますが、『理念法』というよりは『第一歩法』なんです」という意味のことを話されていました。つまり日本政府が「部落差別をなくすために正面から向き合って取り組み始める」とはっきり言った、取組の第一歩を踏み出した法律だということです。ただ、「第一歩法」は、前へ進むという面もありますが、第一歩でしかないという面もあります。それがどこに現れているかというと、例えば、「部落差別とは何か」という規定がこの法律にはないことです。このことについて、その国会議員の方は「私は、一刻も早くこの法律をつくる必要があると思いました。つくるにあたり改めて勉強する中で、『部落差別とは何か』を規定しようとしたら、大きな議論になって3年や5年はすぐに過ぎてしまうだろうということがわかってきました。だから、この際、部落差別という言葉だけを前に出して進めていこうと判断しました」と言っていました。
この法律でいう「部落差別」とは、1965(昭和40)年の同和対策審議会答申で「同和問題」と言っていることとほぼ同じだと言えると思います。政府がこの答申を否定したことはありませんから、私たちは「部落差別解消推進法」でいう「部落差別」とは、答申でいう「同和問題」のことだと思って取り組めばよいということになると思います。さらに法律では、「情報化社会の進展によって、差別の現れ方が変わってきている」と言っていますので、答申で言っていたことをさらに広げて取り組むことが必要になります。
「障害者差別解消法」や「ヘイトスピーチ解消法」も同様なのですが、この法律は「教育・啓発」を非常に重視しています。具体的な施策として「相談体制の充実」「教育・啓発」「実態調査」を挙げており、「教育・啓発」は三本柱の一つなのです。
4 「教育機会確保法」の制定(2016.12)
2016(平成28)年12月に「教育機会確保法」が公布されました。この法律は、小中学校の教育を受けられなかった人にその教育機会を保障するものです。夜間中学に関する取組と、フリースクールなど不登校の子どもたちに関わって取り組んでいる方たちの動きによって生まれた法律だと言えます。
2018年現在、公立夜間中学校は全国で31校しかありません。この内、11校は大阪府に、8校は東京都にあります。つまり、大阪府と東京都以外には12校しかないのです。この法律の条文には明記されていませんが、首相の諮問機関である教育再生実行会議は、すべての都道府県に少なくとも1校の夜間中学をつくることをはっきりと提言しています。
5 LGBTなどに関わる政府の動き
LGBTに関する法律は、超党派の議員によって準備されつつあると聞いていますが、まだ成案はできていません。しかし、この数年の間に文部科学省は4回にわたって各学校に対して通達やパンフレット・リーフレットの類いを出しています。加えて、人権教育リーダー養成の研修にも毎年LGBTに関する講義を組み込んでいます。
その他、外国につながりのある子どもたち、あるいは地域に住んでいる大人の住民の方のための日本語教育を推進する法律についても、現在、超党派で準備が進められているので、これも早晩、国会で成立するだろうと聞いています。
このように個別の人権問題について、法律も含めた取組が急速に進んでいます。現在はそういう、「人権教育の新しい時代」だということです。
6 人権教育に関わる文部科学省の審議会
(1)人権教育に関わる文部科学省の審議会について
2003(平成15)年から2016(平成28)年まで、「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」(以下「調査研究会議」)が設置されており、私も委員をしていました。2016(平成28)年になり「もうこれでなくなるのかな」と思っていたのですが、文部科学省から連絡があり、「『学校教育における人権教育研究協力者会議』というものを新たにつくるので、その委員になってほしい」というお話をいただきました。なぜ文部科学省は、一旦終了した審議会を復活させるようなことをするのかというと、先ほど紹介したような法律が議員立法としてどんどん制定されていることが背景にあると思います。これらの法律では「教育・啓発」が重視されていることもあり、文部科学省としても取組が必要になる。その一つが、この「学校教育における人権教育研究協力者会議」なのだと思います。
これと関連することとして、文部科学省の人権教育研究指定の事業における変化についてもお話しておきます。研究指定に応募した学校の方はご存知だと思いますが、2018年度から提出書類の中に、「取り組む人権課題」を具体的に選択する項目が新たに加わっています。これも、個別の人権問題に関する法律が次々とできる中、求められる人権教育が変わってきていることを示す一例であると思います。このことについて、もう少し詳しくお話していきます。
(2)三側面から見たこれまでの人権教育
まず、これまでの人権教育はどんなものであったかを振り返ってみます。資料1をご覧ください。これは「調査研究会議」が2008年に出した「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」(以下、「第三次とりまとめ」)に掲載されている、人権教育についての基本的な考え方を表したフローチャートです。一番上に「人権教育を通じて育てたい資質・能力」とあります。そして「自分の人権を守り、他者の人権を守るための実践行動」をするには、「自分の人権を守り、他者の人権を守ろうとする意識・意欲・態度」が必要であり、それを育むには「人権に関する知的理解」と「人権感覚」が必要である。さらに、それらを育むにはその下の知識的側面、価値的・態度的側面、技能的側面に関する学習が必要だ、ということを示しています。技能的側面の上の2つの項目だけ見ていただきます。一つ目は「人間の尊厳の平等性を踏まえ、互いの相違を認め、受容」する力、簡単に言えば多様性を肯定的に受容する力です。二つ目は「他者の痛みや感情を共感的に受容できるための想像力や感受性」。これらは、技能というよりも、価値的・態度的側面に含まれるものだと考えている人が多いのではないかと思います。
さて、文部科学省が「第三次とりまとめ」の活用状況を全国の学校等に調査した際、知識的側面、価値的・態度的側面、技能的側面に関するこれらの項目を選択肢にして、「貴校では、人権教育の指導内容として、どのような資質・能力を身に付けさせることに力を入れていますか。5つまでの範囲で選んでください」と問うています。その結果が次の資料2です。調査は2008(平成20)年と2012(平成24)年の2回実施されていますが、結果はそれほど大きく変わっていません。一番多く選択されているのが、「多様性肯定感」です。これを重視しているという学校がそれぞれ86%、84%です。「調査研究会議」としては「これは技能だ」と考えて設定しているのですが、答えた学校の側はたぶんこれを価値的・態度的な側面に含まれるものだととらえているのではないかと思います。次に多かったのが「自己肯定感」。これは価値的・態度的側面です。三番目が「想像力や感受性」。これも「調査研究会議」では技能として位置付けているのですが、答えた側は価値的・態度的側面だととらえているのではないかと思います。次は「コミュニケーション技能」。これは技能的側面。五番目が「自分の行為への責任感」。これも価値的・態度的側面。ここまでの5つが多く選ばれた項目で、それ以下の項目の数値とは差があります。次に資料2を下の方から見ていってください。一番回答の少ない項目は「法律・条約の知識」です。次いで「批判的思考技能」「社会参加の意欲・態度」「対立・問題解決技能」「差別や偏見などを見抜く技能」「被害者支援の意欲・態度」「歴史・現状の知識」など、知識、技能がたくさん下位にあることがわかります。
こうして見ると、「コミュニケーション技能」を除くと、日本の人権教育は価値的・態度的側面を重視していると言わざるを得ないのではないでしょうか。委員の間ではこの結果を見たとき「日本の人権教育は情緒的なんだ。情緒的なところに重きが置かれていて、技能や知識が軽視されているのではないか」と言っていました。
(3)現代の人権教育の課題
金子みすゞさんの「みんなちがってみんないい」という詩を取り上げて、このことを考えてみたいと思います。この詩は有名ですが、みすゞさんの人生については案外知られていないと感じています。私は初めてこの詩を読んだ時は、「この作者はとても幸せな人生を送った人なのかな」と勝手に思っていました。でも、彼女の人生を知ると全然違う。幼少の頃に父親が亡くなります。彼女には幼い弟がいたのですが、弟は母親の妹夫婦の養子になります。ところがその後、その母親の妹が亡くなり、母親は後妻として結婚することになります。みすゞさんも一緒にその家に行くのですが、弟さんに対して「私はあなたの姉だ」とは言えなかったそうです。弟さんは非常に小さい頃に養子になっているので、みすゞさんを実の姉とは思っていないわけです。そういう非常に複雑な中で育ちました。さらに自分が結婚するときには、政略結婚であることが明らかなのに断ることができませんでした。彼女はそれ以前から詩や児童文学を書いていたのですが、結婚相手は横暴な人で、それを許さなかったそうです。それ以外にも、彼女に暴力をふるったり、性病をうつしたりしたともいいます。そのうえ、夫から離婚を言い渡されます。子どもがいたのですが、当時は親権が父親にしかなかったので、子どもをとられそうになりました。それで、彼女は結局、自死します。死をもって抗議をし、それによって、子どもはおばあちゃん、つまりみすゞさんの母親に引き取られることになった。「みんなちがってみんないい」という言葉について考えるとき、こういう人生を送った人の言葉だと理解しておくことが、とても重要だと私には思えます。
「在日韓国・朝鮮人だと知られたら差別やいじめが始まった」「部落出身だと知られたら排除されるようになった」「LGBTだと知られたら袖にされるようになった」。そのようなことがいっぱい起こっている現実があります。「みんなちがってみんないい」と気楽に言っていられるような社会ではないわけです。「みんなちがってみんないい」と本当に言える社会をつくるためには、「法律・条約の知識」「批判的思考技能」「対立・問題解決技能」「差別や偏見などを見抜く技能」などが必要です。それを持たないまま、この上位に来た、「多様性肯定感」「自己肯定感」「想像力や感受性」などを育もうとしても、それは無力なものにとどまらざるを得ないのではないかと思います。
先ほど、日本の人権教育は情緒的だという話をしました。そういう状況の中で、2016(平成28)年に法律が次々とできました。まだこれからもできると思います。個別の人権課題の解決に向けた具体的な取組が進もうとしているわけです。だとすれば、人権教育も大幅に姿を変えなければならないのではないでしょうか。資料2の下に出てきているような、知識的側面や技能的側面をきちんと学習に位置づけて、すべての子どもたちがこういう力を身に付け、自分の権利を守ることはもちろん、他の人の権利も守る行動ができる力を育むことが現代の人権教育の課題だと思います。現在は、そういう変わり目だと思っています。
Ⅲ 同和教育の歴史と核心を振り返る
1 部落解放をめざす教育の時代区分
次に、同和教育の歴史を振り返ってお話したいと思います。同和教育の歴史は、4期くらいに分けられると考えています。
(1)第1期 1950‐1970年頃
第1期は「原則確立の時代」と言えます。この時期に同和教育の原則がかなりはっきりと確立されたことは、その後の日本の同和教育・人権教育にとってラッキーだったと思います。「差別の現実から深く学ぶ」という合言葉は1965(昭和40)年には作られていました。その前年には「差別の現実を明らかにし」と言っていたのですが、「それでは教員の立ち位置がわからないじゃないか」「『教員としてこのままでいいのか』と、自分を問い直すことが重要ではないか」ということで、「差別の現実から深く学ぶ」という言い方ができました。「学ぶ」とは自己変革することです。それから教科書無償化運動に象徴されるように、権利保障のためには自ら声をあげることの大切さが確認されていたこともあります。だから教育においても、人権を守るための実践行動ができる力を育むことが重要であるということがはっきりと言われていました。さらには、そうやって獲得した権利は、被差別当事者だけでなく、すべての人の利益になるということまで、原則として確立していました。これらは、現在も根底に据えておくべき、日本の人権教育の財産だと思います。
(2)第2期 1970‐1990年頃
第2期はいわば「深まりと広がりの時代」です。この時期には「同和対策事業特別措置法」(1969年施行)を裏付けとしてもつことができたこともあり、校区に被差別部落がある学校・園での取組が深まりました。さらには、部落問題から在日外国人の人権・障がい者の人権・平和などへと広がっていきました。そして、校区に被差別部落がない学校・園での取組も広がっていくようになりましたが、それは先ほど見たような情緒的な同和教育、人権教育にとどまっていたのではないかという問題が指摘されてきました。
(3)第3期 1990‐2010年頃
第3期は「同和教育がひらく人権教育の時代」と言えると思います。この時期に、人権教育という言葉がはっきりと社会的に受け入れられるようになりました。国連は1995(平成7)年から2004(平成16)年までの10年間を「人権教育のための国連10年」と定め、日本政府は、2000(平成12)年に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」を制定しました。このように、同和教育が切りひらいた先に、人権教育が広がりました。あらゆる学校・園での本格的な取組が始まり、環境問題、南北問題など、様々な課題にチャレンジするようになりました。
この時期に広がったものの一つに自尊感情という言葉があります。私があちこちの学校へ行った際に「お宅の学校の子どもたちはどうですか?」と先生方に聞きますと「自尊感情が低いですね」という答えがしばしば返ってきます。そのこと自体は悪くはないんですけれども、そこで止まっていては全然だめなのではないかと私は思っています。
自尊感情というのは、「家族関係、友だち関係、仕事」の三つの状況によって変化するものです。子どもに置き換えたら、「家族関係、友だち関係、勉強・成績」です。この三つがうまくいっていたら放っておいても自尊感情はあがります。自尊感情が低いということは、この三つのどれか、もしくはすべてが何らかのダメージを受けていると考えられます。この三つがうまくいっていないから自尊感情が低いのだとすれば、それ自体は問題ではありません。そんなのは、この三つに係わる問題を解決すればいいのです。そもそも自尊感情というものが問題になったのは「家族、友人、仕事」が良好であるにもかかわらず、自尊感情の低い人がいるというところからです。例えば、「家族も友人も仕事もうまくいっているのに、自信を持っていない」「いつか自分は失敗するんじゃないかといつもいつも不安におびえている」、こういうような状態が自尊感情が問題とされるケースなんです。このようなケースについて調べていくと、往々にして、小さい頃に失敗体験をしていたり、虐待された経験があったり、いじめを受けた経験があったりします。そのような経験がトラウマのようになり、自分はいつか失敗する、いつか痛い目に遭うと心のどこかで思い込んでしまいます。だから、自尊感情を回復するためには自分の生い立ちを振り返って、その中で自分にとってトラウマになっているようなものを自覚して、それを乗り越えていくということが必要になるんです。自尊感情というものは、こういうニュアンスで議論されていたんです。
さて、自分の担当している子どもを見て「自尊感情が低い」と思う先生方も多いかもしれません。みなさんが出会っている自尊感情の低い子どもたちはどういう子どもでしょうか。「家庭も友だち関係も勉強も順調にいっているが自尊感情が低いのか」、それとも「この三つの面で何か大きな課題を抱えていて自尊感情が低いのか」、どちらかということなんですね。私が知る限りではこの三つのどれか、もしくは全部がたいへんな状況であるために自尊感情が低い子どもが圧倒的に多いと思います。そうだとすれば、学校でやるべきはこの三つを支えることです。すぐできるはずのものは勉強です。学校ですから勉強を教えるのが元々の仕事です。勉強をきちんと教えて、その子どもが学力を伸ばせるようにする、ということはできるはずです。それから二つ目の友だち関係。これは学級集団づくりをきちんとしていくということになると思います。難しいのは家庭です。家庭のあり方を変えるのは教員としては難しいと思います。しかし、「勉強」と「友だち関係」が上手くいっていたら子どもたちは学校で自分の居場所をつくることができます。私が以前に担当した学生で、両親が亡くなり祖母の家から学校に通っていた学生がいました。彼女は「学校が居場所だった」「自分は先生たちに温かく接してもらったから生きてこられた。だから私は先生になりたいと思います」と、入学した頃から言っていました。家庭状況は厳しくても、学校が居場所になれば、その子どもの支えになれるはずです。自尊感情について考えるならば、漠然と高い・低いというのではなく、「学校が厳しい状況にある子どもの支えになれているのか」という点からとらえ直す必要があると思います。
「みんなちがってみんないい」という詩についてもふれておきたいと思います。先ほどお話したように、金子みすゞさんは、社会にある女性差別のために艱難辛苦(かんなんしんく)を舐めたといえます。結婚したら戸主は男性で、親権は男性にしかない。しかもDVが当然とされるような、そんな社会でした。そんな女性差別がまかり通っている社会だったから、彼女はやむにやまれず自死というやり方で抗議することになったわけです。このフレーズを響きのいい、あたたかい言葉として、情緒的にとらえるだけでなく、「『みんなちがってみんないい』と本当に言えるには、私のような人生を送る人がいない、平等な社会をつくらなければ」というメッセージをこの詩から読み取るべきだと私は思います。
(4)第4期 2010年頃から現在に至るまで
第4期は「個別課題を通して行動力を育む人権教育の時代」です。2010(平成22)年までの人権教育は情緒的内容にとどまっていたことをふまえて、進められてきていると思います。また、情報化とグローバル化の時代を迎え、国内外で様々な動きがあります。日本では、いくつかの人権問題に対応するための法整備が進みました。具体的な人権問題について確かな知識と、その解決に向けた豊かな行動力を育むことが課題として意識される時代だといえると思います。私は、「障害者差別解消法」で示されている「社会モデル」という考え方だけでも、けっこう大きな力になると思っています。
簡単に言えば、これらが戦後の同和教育の歴史だと思っています。
2 同和教育の中で確かめられてきた核心とは何か?
(1)「差別と全般的不利益の悪循環」(右図③)
差別の悪循環について、部落差別を例にして考えてみたいと思います。部落差別というと、結婚差別と就職差別を思い浮かべる人が多いと思います。その影響を考えると、悪循環が見えてきます。就職差別があることで、仕事が不安定になり、そのために収入が少なくなり、それが家庭生活に影響を及ぼします。結婚差別も家庭生活に影響を及ぼします。家庭生活が不安定になると、子育てが思うようにできなくなります。不安定な家庭生活は、学校生活や学力にも影響を及ぼします。そして、差別の影響を受けた「学力と経済力」の両方が響いて、進路を左右します。このことが子どもの代の不利益につながっていく、この一巡の流れが悪循環です。
また、差別の影響によって、「なぜ、うちの親はこうなんだ」「なぜ、あの人たちは自分たちのことをひどく見るんだ」「なぜ、自分はこんなふうにしか親を見られないんだ」と、親・友人・自分を否定的に見てしまうことがあります。このような意味で被差別の当事者は、差別の影響で自尊感情が低い状態になっている場合があります。そのため、差別をなくせば自尊感情が高まると考えられます。
それから、この悪循環により、社会がゆがみ、人材を失うことがあります。このことは社会にとっても不利益であるため、「全般的不利益」と呼んでいます。
では、こういった「差別と全般的不利益の悪循環」を断ち切るためにどうしたらいいのでしょうか。「家庭」のステージの対策として住宅建設をしたり、「子育て」のステージの対策として保育所を建てたり、「学校」のステージでは加配をしたり、「進路」に関しては給付制の奨学金を設けたりしてきました。「就職」の場合、雇用促進として同和地区の人を優先的に採用した自治体もあります。
(2)「見つめる→語り合う→つながる」というサイクルを中心に置いた学習活動論
この悪循環に対して、どのように教育を進めてきたのかというと、「見つめる→語り合う→つながる」というサイクルを中心に置いて取組を進めてきました。
「見つめる」とは、子どもが生活・生い立ち・親の仕事等を「見つめる」ことです。その中で見えてきたものを、「語り合う」、または「綴り合う」中で、子どもたちがつながっていきます。「つながる」ことによって、自分自身を「見つめる」力が伸びていきます。そしてさらに見えてきたものを「語り合う」ことにより、「つながる→見つめる→語り合う→つながる」というサイクルをつないでいくことが、同和教育、人権教育の基本だと言えます。
また、「つながる→見つめる→語り合う→つながる」のサイクルを繰り返している中で、「この問題を解決しないと、この子どもは安心して生きられない」といった、子どもの背景にある社会的問題が見えてくることがあります。そのときには、その社会問題の解決に向けた取組が必要になります。そのような取組の例としては、教科書無償化運動、統一応募用紙制定に向けた取組、国籍条項を撤廃させる運動などがあります。これらの取組のように、「つながる→見つめる→語り合う→つながる」の中で見えてきた社会問題を解決するために、社会に向って発信・参加し、状況を変革していくことが重要です。
では、「見つめる→語り合う→つながる」取組はどのように進むのかを説明
そうならないためには、様々な取組が必要です。例えば、日記・生活ノートを子どもと交換する、家庭訪問をするなどです。ただし、家庭訪問をしても親と子どもの関係を切ってしまうようなものではいけません。「あなたのお子さんは素敵ですよ」というメッセージをもって家庭訪問をしなければ、この「見つめる→語り合う→つながる」取組のサイクルはつくりだせません。修学旅行でも取組ができます。大阪では、最近、修学旅行で広島へ行くことになっています。広島へ行き、被爆された方から話を聞くことを通して、自分の友だち関係や親との関係を振り返ることをしています。人権学習では、自分の親があらためて見えてくるような取組ができます。学力保障については、「自分さえ立身出世できればよい」という学力ではなく、友だちのことを考えていける学力を保障しないといけません。進路保障についても同様です。高校進学や大学進学ができるというだけではいけません。私の知っている中学校教員は、3年生を担当したときは、クラスの目標をあらかじめ「みんなが自分の進路に胸を張って言えるようなクラスになろう」に決めているそうです。そのようなクラスは、その子どもが選んだその進路の大切さを、まわりの子どもたちがわかっています。もちろん、本人は自分の進路に誇りを持ち、そのことをまわりの子どもたちに伝えることができます。このような子どもたちを育てていくための取組が必要になるのです。
(3)内的葛藤論を軸に据えた学習の論理
次に、内的葛藤論という考え方を通して子どもの心について考えてみましょう。内的葛藤の考え方の基本は、一人の心の中に差別を否定する気持ちと差別を肯定する気持ちが同居している、ということです。
もう少し詳しく説明します。子どもの心の中には様々な悩みがあります。例えば、「運動神経が鈍い」「おねしょをする」「親が嫌い」「友だちを信じられない」「自分の性格が嫌い」といったものです。こういった悩みが、子どもの心の中で葛藤につながっているということです。
この5つは、私が小学校5・6年だった頃の葛藤をそのまま挙げたものです。中でも、「おねしょをする」は、当時の私にとってはかなり重大な悩みでした。特に怖かったのが修学旅行です。修学旅行に行って、もし、おねしょをしてしまったら一生ものと言いますか、同窓会がある度に「おねしょの森君」という感じになるでしょう。だから、「修学旅行に行きたいけど、おねしょをしてしまうかもしれないから行きたくない」などの葛藤がありました。
葛藤には様々なタイプがあります。例えば、おねしょは、中学校になったらしなくなったので、悩みとしてもなくなりました。何の努力をしたわけでもありません。努力をせずになくなる、こんな葛藤もあるわけです。
努力で解消する葛藤もあります。例えば、「運動神経が鈍い」という葛藤です。これも中学高校を経てだいたい解消しました。中学でテニス部、高校でサッカー部に入り、ある程度、運動ができるようになりました。
ところが、「親が嫌い」、「友だちを信じられない」、「自分の性格が嫌い」という葛藤は、自然になくなりませんし、努力してもなかなかなくなりません。では、葛藤をなくすためにどうするかというと、心の奥底にフタをして封じ込めようとしてしまいます。ただ、フタをして封じ込めて済めばいいのですが、何かの折に顔を出します。
なかなか解消できない葛藤をそれぞれが抱えていることを前提に考えると、最初は、心をあたため合うことができるように、プラスのメッセージを伝え合うことが必要になります。そのことで、次第に心の温度が上がっていきます。私の知人が話してくれたことを紹介します。その人は、「自尊感情が低い」というのは、例えば心がマイナス170度という状態になっていることだと言います。そして、次のような話をしてくれました。
「私たち教員がプラスのストローク(あたたかい言葉)をかけることで、その子どもの心はマイナス170度からマイナス150度に上がる。でも、マイナス170度からマイナス150度に上がったとしても、氷であることには変わりはない。だから、教員の側からすると『一生懸命やっても何の実りもない』と見えるかもしれない。でも、本当は実っている。例えば、1年生で担任した先生が1年間で20度上げたとする。次の担任は20度上げてくれた。その次の担任は20度上げた。そう考えると、小学校1年生からの6年間で120度上がる。中学校でもまた何度か上がって、その子どもが高校生になったとき、ようやく心は0度を迎え、氷の状態だった子どもの心が水になる。あったかいお湯になる。そういうことが起こるかもしれないと捉えると、実りが見えてくる。ここで重要なことは、それぞれの立場の人が子どもの姿をどう捉えるかということだ。高校の先生であれば、『この子どもの心は今、0度になって融けたが、ここに至る背景には、小学校のときからこの子どもに関わってきてくれた先生方の取組があるんだ』と捉えられるかどうか。逆に、小学校1・2年生の担任の先生方は、自分が取り組んでいるときに心が0度になる場面に出くわさず、取組が一見、無駄に見えるかもしれない。でも、無駄なことではない。大切なことは、先生方が『教員をしている仲間が、この子どもの心が0度になるときに、きっと出会ってくれるはずだ』と捉えられるかどうか。教員というのは、いつかどこかで氷が水になることを願いながら取り組む仕事だ」
次に 、ある学生が卒業論文で書いた図(右図⑤)から、内的葛藤について考
では、「内的葛藤を強める」というのは、どういうことなのでしょうか。次
の図(下図⑥)を見ながら考えてみたいと思います。
ということを表しています。
そして、人の心の中には、この二つの気持ちが両方ともある状態がほとんどです。部落差別について学ぶとこのハートは左上のように大きくなりますが、教室を出た瞬間からハートがすぼみ、右下の小さい状態になる。学習の有無に合わせて、ハートが大きくなったり小さくなったりの繰り返しになるということです。例えば、差別の現実を知らせるとハートはふくらみます。また、「あなたはどっちの立場に立つんだ」という問いかけをされてもハートはふくらみます。
その繰り返しの中で、自分のハートの中にある「差別を否定する気持ち」「差別を肯定する気持ち」の両面にだんだん気づき、自分の内面を見つめるようになっていきます。同時に、自分の内面を見つめるけれど「どうしたらいいかわからず、動けない」という状態が発生します。
そんなときに出てきやすいのは、「そっとしておけばよいのに、なぜわざわざ教えるのか」という考えです。この考えが出てくる背景には、「以前は、自分の心の中に差別を肯定する気持ちがあるとは思っていなかった。でも、結婚差別について学んだために、『家族や親せきに強く反対されたら結婚をあきらめるかもしれない』と思ってしまう自分に気づいた。もし、先生が結婚差別なんか教えなかったら自分は純粋な気持ちのままだったはずなのに、先生が教えたばかりにこんな不純な気持ちが発生した。純粋だった頃の自分を返して」という思いから、「そっとしておけばよいのに...」という考えが出てくるのです。それから、「特別措置は逆差別だ。住宅建設・保育所建設・加配・奨学金制度・雇用促進といった施策は逆差別だ。あんなことをしているから差別はいつまでもなくならないんだ。そんな状態で私が差別をなくすために取り組んでも無駄だ」という考え方も出てくるかもしれません。
「そっとしておけばよいのに、『差別だ、差別だ』というからだめなんじゃないか」「逆差別を生むような取り組み方に問題があるんじゃないか」といった疑問が出てきたとき、それに答えることが重要になります。こういった疑問を整理できれば、差別の問題から逃げることができなくなり、向き合わざるを得なくなるからです。
また、「人間は所詮差別をするものだから、差別はなくならない。だから取り組んでも無駄だ」という意見もありますが、この意見に理屈だけで答えてもあまり意味がないと思っています。「人間は差別をするものだ」と思っている人は、だいたいしんどい体験を持っています。だからそういう人にはいい体験をしてもらうことが必要です。「人間って捨てたものではない」と思えるような体験をしてもらうことです。
このように内的葛藤が強まってきたとき、「心の奥底にフタをして封じ込めた葛藤」、つまり、「自分にとって重要な葛藤」に結び付けることが重要です。例えば、「親が嫌いだ」という葛藤を抱えている人は、部落出身で親を否定的に見てきた人と出会い、自分の葛藤と重ねていくのです。
その人のことを学べば学ぶほど、その人が解放運動や同和教育運動の取組の中で息を吹き返していくということを知れば知るほど、自分もその人のようにできるはずだと思うようになっていきます。また、「『親が嫌いだ』と思うのは自分の人間性が悪いからだと考えていたけど、そうではない。社会にそう思わせる価値観があったからではないか」と考えるようになっていきます。こうなってくると部落問題についての葛藤は、「自分にとって重要な葛藤」となり、さらに「他の社会問題についての葛藤」とも重なっていきます。
このようなことを通して、心の根っこのスイッチが入り、自ら社会問題に向き合っていこうと思い、心の扉を開けて、互いの気持ちのやりとりをするようになります。そして、社会にある価値観のおかしさを発信したり、互いに鍛え合って成長したりするようになっていきます。
先ほどの図(右図⑦)に話を戻します。左側が「トゲの自我状態」で、真ん中
たとえて言います。「風の谷のナウシカ」に登場するオーム(王蟲)は、怒っているときは真っ赤な眼をしてがんがん進みます。槍を突き出しているようなものです。ところが、ナウシカがひどく傷ついていることに気が付くと、ナウシカの傷口に黄金の触角を差し伸べていきます。相手を攻撃するために出していた槍が、「あっ、この子どもは傷ついているんだ」と気付けるようなアンテナに変わっていくのです。左側の「トゲの自我状態」が右側の「アンテナの自我状態」になるというのは、こういう感じです。さらに言えば、「風の谷のナウシカ」の場合、ほとんど瀕死の状態になっているナウシカを、オームはその黄金の触角を使って癒し、治していきます。つまり、アンテナは人の傷ついた気持ちに気づくだけでなく、それを癒す力を持っているということです。この図で言えば、「アンテナの自我状態」の右側に、さらに「他の子どもたちの心を癒す力を持っている自我状態」が控えている感じだと思います。
Ⅳ 課題を幅広い人権教育に位置づけ直す
様々な人権問題があり、それらには共通したいくつかのテーマがあると考えています。そのテーマに係わっては、個別課題を通して学ぶこともできるし、一般的なテーマとして学ぶこともできます。
〈テーマ「自己開示」〉
まず、「自己開示」というテーマについて考えてみたいと思います。自己開示とは、「自分の中にある、言わなければ分からないようなことを他の人に言っていく」というものです。差別問題に関連しては、「立場宣言」「出身者宣言」「カミングアウト」などと呼ばれています。
しかし、部落の人の「出身者宣言」にふれても、子どもにとっては遠いものに映っている場合があります。それは、「出身者宣言」をした人の気持ちを自分にとって重要な葛藤に重ねて考えることができていないからです。例えば、小学校5・6年のときの私の心配事は、おねしょがなかなか治らないことでした。そのようなときに、部落問題の話をいくらされても遠くのものに思え、「そうですか」としか感じられなかったかもしれません。でも、「自分はおねしょをするということを、なぜ、クラスの友だちに言えないのか」と考えれば、自分に近い問題としてとらえることができたかもしれません。「自分は部落出身だ」と言ったら差別の対象になるかもしれないということと、「自分はおねしょをする」と言ったらいじめの対象になるかもしれないということを結びつけて考えることができるからです。「そんなものと結びつけるのか」と疑問に思う向きもあるかもしれませんが、そういうようなことであっても、「自己開示」というテーマを間にはさんで考えれば、一人ひとりが抱えている問題は結びつき得るものだと思っています。
〈テーマ「うわさと情報操作」〉
次は、「うわさと情報操作」というテーマについて考えてみたいと思います。
大阪府民対象の意識調査から、府民の60%くらいが、「部落の人は××だ」のようなうわさを聞いたことがあるという結果が出ています。ところが、その中で、うわさに対して「それはおかしいと言った」という人は6%くらいしかいません。多くの人がうわさを「そうなのか」と受け入れてしまっているのです。このことから、うわさに対する抵抗力は極めて弱いということが分かります。
「うわさと情報操作」については、部落問題に係わるうわさであれば、部落問題に即して学習をする必要があると思いますし、LGBTだったらLGBTに即して学習することが必要です。もう一方で、すべての人権問題に共通したテーマとして、「誤った情報とうわさ」について学習することも必要です。例えば、「人が口頭で伝えることは、どれくらいいい加減か」ということを体験して学ぶことが効果的です。
では、その学習について説明します。
≪すすめ方≫
① 参加者の中から報告者になる人を5~6人募り、教室から出てもらう。 ② 教室に残っている参加者に1枚の絵(または写真)を見てもらう。 ③ ①の報告者の中の1人(最初の報告者)に教室に入ってもらい、2分程度、絵を見てもらう。 ④ 絵を隠し、2番目の報告者に入ってもらい、最初の報告者から絵の説明をしてもらう。 〔約束事〕 ・ 報告者は、みんなに聞こえるような大きな声で説明をする。 ・ 2番目以降の報告者は、質問できない。 ・ 他の人は何も言ってはいけない。 ⑤ 3番目の報告者に教室に入ってもらい、2番目の報告者から絵の説明をしてもらう。 ⑥ これを繰り返し、最後の報告者には全体に対して、絵の説明をしてもらう。 |
最後の報告者に、聞いた内容に従って絵を描いてもらうと、元の絵とは似ても似つかないような絵になることがあります。この体験をすれば、「情報は、こんなに間違って伝わっていくんだ」ということが分かります。どの報告者も周囲の人が見ているので、一生懸命、正確に伝えようとします。それでも、間違った情報が伝わってしまいます。正確に伝えようとしても間違ってしまうのに、だれかのうわさを面白おかしく伝えたならどんなことが起こるかは、この学習の体験者は容易に想像がつくようになると思います。だから、このように、「正しい情報を伝えようとしても難しい」という体験をしておくことが必要だと思っています。念のため述べれば、伝言実験の最後に書いてもらった絵が、最初の絵を上手に再現していても、同じ学習が成立します。この学習の重要な発問は、「この伝言実験と、実際の世の中で起こっているうわさとは、どこが同じでどこが違うでしょうか?」ということです。
〈テーマ「寝た子を起こすな」〉
続いて、「寝た子を起こすな」というテーマについて考えてみたいと思います。
「寝た子を起こすな」論というのは、部落問題でいちばんよく語られますが、性教育でも「小さい子どもに性について教えるなんて、寝ている子どもを起こすようなものだ」とよく語られており、他の人権問題についても共通して言われているテーマです。
大阪府民の調査でも三重県民の調査でも、3割から4割の人は「そっとしておけば、部落差別は自然になくなっていく」という考え方に賛成をしています。ところが、「『寝た子を起こすな』という考え方は問題だ」ということを学んだことがある人は、回答者全体の3.4%(大阪府の調査結果より)と、極めて少ないです。学んだ人が少ないために、この考え方がいつまでも続いているとも言えるでしょう。このようなことから、「寝た子を起こすな」の考え方を覆す学習活動を組み立てるべきだと思っています。
私自身も考えたものがいくつかあり、その一つが「『寝た子を起こすな』論実現大作戦」というものです。これは、「寝た子を起こすな」論に賛成している人がやや多いという場合に行う学習活動です。賛成している人が3割くらいいたら十分できます。どのような学習活動かといいますと、どうすれば「寝た子を起こすな」論を実行できるかを、皆で考えるというものです。
まず、「寝た子を起こすな」論を進めるのだから、部落差別について話している人に黙ってもらわないといけません。そこで、「どういう人に黙ってもらったらいいのか」をまず挙げてもらいます。大学の場合で言えば、大学教員になります。私なんかは典型的な、黙ってもらわなければならない人です。他にも、文部科学省、教育委員会、学校の先生、運動団体の人、差別にあったことがある人もそうです。「うちのお父ちゃん、お母ちゃん」というのも出てきます。それから、部落差別に関する記述もたくさんあります。学校の教科書がそうです。部落問題が記述されていますからこれは消さないといけません。それから、ネット上の記述もそうです。こうして、できるだけたくさん、部落問題について話している人などを挙げるのです。
たくさん挙げてもらったうえで、次に進みます。「では、こういう人たちに黙ってもらうにはどうしたらいいでしょう」というのを皆で考えてもらいます。そうしたら、いろいろなことが出てきます。いちばんオーソドックスなのは「法律を作る」というものです。まず、「この法律は、どんな名前になる?」と聞きます。そうしたら「部落差別についての発言禁止法」となります。法律の第一条にはだいたい目的が示されます。どういう目的にするかというと、「部落差別が厳しいことに鑑み、部落差別についての発言を一切禁止することを目的とする」。第二条には、だいたいその法律に係わる概念が示されます。例えば「この法律における部落差別は以下のものをさす」と書かれ、その後に、部落差別の実態が挙げられます。この法律は「部落差別についての発言禁止法」なので、取り締まりも必要です。だれが取り締まるのかというと、やはり警察です。取り締まりをちゃんとするには、研修が必要になってきます。「では、どうやって、その研修を行うのか?」と考えると、大学の教員などが行うことになってきます。それから、裁判官や弁護士も部落差別について知っておかないと、裁判も弁護もできなくなってしまいます。ですので、六法全書にも載せることになっていきます。このように考えていくと、法律で「寝た子を起こすな」論を実現することは不可能であることがわかってきます。むしろ部落差別について広く宣伝してしまうことになり、矛盾を引き起こすことになるのです。
しかも、この考え方であると、差別を受けたことがある人にも黙ってもらわなければならないということになります。このことを、いじめの問題に当てはめて考えてみましょう。例えば、学校に保護者から、「うちの子どもがいじめにあっています」と相談を受けたときに、担任の先生が「いじめはそっとしておいたらなくなります。そんなことを言ったらいけません」と伝えたとしましょう。校長である皆さんは、その担任の先生にどういう対応をしますか? 私は、このように伝えた担任は懲戒処分を受けると思います。セクハラも同じことが言えると思います。セクハラを隠そう、もみ消そうとしたら、その管理職はまずアウトです。セクハラを訴えてきた人に「君、セクハラは訴えたらあかん。そっとしておいたらなくなるから」と言ったら、懲戒処分を受けると思います。いじめやセクハラだったら、こんなにも明瞭な問題であるものが、なぜ、部落差別では「寝た子を起こすな」論を3割4割もの人が支持するようになっているのだろうと思います。
〈人権問題に共通している他のテーマ〉
他にも、「平等や差別の捉え直し」「対立の活用と解決」「問題解決の筋道」などのテーマは、いろんな人権問題に共通しているものです。これらのテーマをもとに、それぞれの人権問題においてできる学習は様々にあると思っています。そのような学習教材を、ここにいる私たちが一つでも二つでも考え出したら、それは三重県の共有財産になるのではないでしょうか。「うちは『寝た子を起こすな』論をテーマに、ひとつ教材を作ってやろう」「うちは、こういう教材をつくってみよう」というように、ここにおられる皆さんが、それぞれの学校で教材を一つ作れば、三重県では700の教材ができるのです。
Ⅴ 手がかりとしての学生たちによる「望ましい人権学習の条件」
最後に「望ましい人権学習の条件」について考えてみたいと思います。これは、大学生の声から明らかになった条件です。高校までに受けてきた人権学習を振り返り、その中でいちばん印象に残っている学習について、「なぜ、その学習が印象に残っているのか」「なぜ、その学習をいいと思ったのか」についてグループで出し合ってもらいました。いろいろなグループから挙がってきたものを集めていくと、5つのキーワードにまとめられました。この5つの条件があると、子どもの心に残り、自分のものになりやすい学習活動ができるのではないかと思っています。
キーワード の1つ目は「当事者」です。ある学生は小学校1年生のとき、自閉症の子どもがクラスにいたそうです。でも、まわりの子どもたちは、その子どもにどう対応していいのか分からず、おろおろしていたそうです。そのときに、その子どもの母親が学校に来てくれて、その子どもがどんな子どもなのかというのを、小さい頃のことからずっと話してくれたのだそうです。そして、「こういうときはこんな気持ちだから」と説明してくれたと言っていました。説明を聞いて、その学生は、安心して付き合えるようになったということです。この学習内容は、後の4つの条件にも当てはまります。2つ目は「身近」。先ほどの例で言うと、「クラスの子どもの親」という身近な人から話を聞けたことが強い印象を残すことにつながりました。3つ目は「体験・経験」。自分たちが困っていたときに、学習によって、困りごとが解決できたという体験を重ねるということです。4つ目は「共有」。話を聞いて、「こういう場合はこうしたらいい」とクラスの皆が話し合い、思いを共有するということです。5つ目は「自分の考え」。話し合う中で、まわりの意見を聞き、深く考え自分の考えを持つということです。「このような学習だったら記憶に残る。印象に残って自分のものになりやすい」と学生は言っています。これらのキーワードも参考にしてもらって、それぞれの学校での教材を一緒につくりましょう。