2013(平成25)年度5月に開催した管理職人権教育研修会(県立学校長対象)では、大阪府立柴島(くにじま)高等学校校長 山崎為伯(やまさき ためのり)さんを講師にお迎えし、「人権教育を根幹においた『学校つくり』」と題して講演いただきました。
柴島高等学校では、創立以来「一人ひとりの違いを認め、互いを尊重し合える人間関係の中で、自分の持てる力を最大限に伸ばす」ことを柱として、地域と連携し、人権教育を基盤に据えた「学校つくり」が進められてきました。
なかでも、生徒たちが自分の生活背景や社会的立場について思いを語り合う「学校開き」「クラス開き」と呼ばれる学校行事は、自己肯定感を高め、互いを尊重する関係性を育む取組として、その時々の生徒の実態に合わせた工夫を重ねながら、20年以上にわたって継承されています。
これらの行事をはじめとして、教育活動全体を通じて人権教育を進めていくことの意義と具体的な方策について多岐にわたるご示唆をいただきました。今回はその講演内容をお届けします。
2013年度 管理職人権教育研修会 講演記録
人権教育を根幹においた「学校つくり」
大阪府立柴島高等学校 校長 山崎 為伯 さん
(2013年9月作成)
Ⅰ 柴島高校のはじまり ~「一人ひとりを大切にする」ことを基本に~
本校は1975年開校です。ちょうど大阪では高校急増期といわれる時期で、10年で100校くらいの公立高校をつくろうとしていました。その当時、柴島では浄水場設備が改修された関係で沈殿池が不要になり、その跡地をどのように利用するかが近隣住民の間で話し合われることになりました。当初は、自分たちの住宅を建てようという提案もあったのですが、その中から次のような声が出てきたのです。
「自分たちの利益だけで終わってはいけない。自分たちの地域の子どもが高校へ行こうと思ったら、東淀川の外へ出ていかなければならない。地域の子どもだけでなく、東淀川の子どもたちみんなが『中学校を出た後、どうなるのだろう』という不安を持っている。だから、ここに高校を建てよう」
ここから、高校設立のための署名運動へとつながっていきました。
初代の校長は、新しい学校づくりの宣言として三つのことを提示しました。一つめは「一人ひとりの生徒を大切にする」ということ。これは当時の中退・留年の課題への取組姿勢を示しています。二つめは「保護者・地域の思いを聞く」ということ。「ここは高校なのだから」と門前払いするのではなく、保護者の方々が、どういう思いで子どもたちを通わせているのか、ということも含めて、その思いを十分に聞き取り、形にしていく、ということを示しています。三つめは「同和教育の推進」です。当時は同和対策事業特別措置法もあり、義務教育の中では同和教育の取組がありましたが、高校段階では十分ではありませんでした。そこで、高校でも子どもの成長段階に応じた同和教育を進めていくという考えを示したのです。
「一人ひとりの生徒を大切にする」営みは、今も大切に引き継がれています。それは、大きく三つの分野に整理することができます。一つめは、教育課程・制度。二つめは、集団育成、集団づくりの取組。一人ひとりの生徒は、学校という集団の中で育っていきます。ですから、その集団をどのように育てていくかということを考えることが必要です。三つめは、地域との連携ができる土壌を活かし、保護者・地域にどう応えていくかということ。本校は今、総合学科になっているのですが、それも「一人ひとりの生徒を大切にする」という基本線に沿って行ってきたことなのです。
Ⅱ 教育課程・制度について
(1)学習意欲の向上と集団育成
1988年、英語の講座別授業を開始しました。いわゆる習熟度別授業です。5月の中間テストの後、「このままのスピードで良い人」「もう少し練習問題や応用問題に挑戦したい人」「このままのスピードでは自分には速すぎると感じる人」の三つに分けることにしたのです。ところが、この方法は10月には破綻し、やめざるを得なくなりました。「英語を勉強しなければ」と自覚し、基本からやろうとした生徒が、他のクラスから「下のクラス」と見なされることに憤慨し「授業に出たくない」と言うようになったのです。
そこで、分け方を変えて講座別授業を続けることにしました。「読む」「聞く」「書く」で分け、自分が得意な方法でクラスを選べるようにし、価値の上下を無くしたのです。「『書く』クラスでは応用問題を中心に、『聞く』『読む』クラスでは標準または基礎の問題を中心に授業をしよう」という意図は教える側にあったのですが、集まってくる生徒の側に価値の上下は生じませんでした。教師側の「丁寧に教えたい」という思いと生徒たちの価値観とのズレを埋めた提案がこの講座別方式でした。新たな方式への転換は迅速に行いました。そして年度末総括でも「生徒たちにとってわかりやすくて、良い方式だ」ということになり、翌年度からは理科、芸術、福祉で週2時間の選択授業を設定することにしました。英語の講座別授業で、自分に合う教え方をされた生徒たちは、授業での態度が変化し、熱心になっていきました。「これだ!生徒の興味・関心を刺激するものを与えれば、きっとそこから返ってくるものがある」と実感しました。
その頃は、授業開始のチャイムが鳴っても教職員が声かけをしないと生徒たちが教室に入らない状況があったのですが、選択授業ではそれとは異なる生徒たちの姿がありました。ときには教職員にとって“涙が出そう”になる姿を見せてくれることもありました。「先生、次の時間は何をするの?」と生徒の側から問いかけてくることに、教職員は「こんなに意欲を示すのだ・・・」と新鮮な驚きを感じていました。
ある理科の授業でのことです。オートバイのエンジンを分解して、再度組み立て直すということをしたのですが、「もっと時間が欲しい」「もっと学びたい」という雰囲気が教室には満ちていました。普段の物理の授業で「さあ、圧力の学習をしましょう」と言ってもなかなか意欲は高まらない。ところが、刺激するところを変えれば生徒たちの意欲は確実に高まるという実感を得て、さらに週6時間のコース別を組むことにしました。
ちょうどその時期、総合学科という新しいシステムを取り入れることになりました。当時の校長の「自分が高校生だったら受けたいと思う科目を4つ考えよう」「それをもって1年間の指導計画を立てよう」という呼びかけのもと、教職員みんなでつくっていくのは、非常に楽しいことでした。そのときにも、やはり「一人ひとりの生徒を大切にする」ということは貫きました。しかし、200近くある選択科目のなかから、例えばある生徒が選んだものに対し、別の生徒が「その選択で大学進学するつもり?」と冷たく返すだけの人間関係しか持てていないとしたら、どんなに丁寧な授業内容を用意しても役に立ちません。そんなとき互いに「私、英語が苦手だから、教えてくれる?」「いいよ。私は数学が苦手だから、かわりに教えて」と言い合える関係性を持つことができたら、強い。どのようにしてそういう集団づくりをしていくか、という課題が同時にそこにあったのです。
この課題解決に大きな役割を果たすのが、「学校開き」「クラス開き」からはじまる一連の行事です。なかでもポイントになるのは1月に行う「託す集会」です。最初の頃は、3年生の代表が体育館に集まった生徒たちの前で、「こんなことを頑張っていきたいと思う」「柴島高校の人間関係の紡ぎ方を後輩たちに託したい」といった話をしてくれていました。この行事を積み重ねるなかで、そういった話をしてくれる生徒がどんどん増え、現在は縦割りで、例えば「3年1組の生徒が2年1組、1年1組へ出向く」という形で行っています。先輩から話を聞くだけでなく意見交換も行うことで、さらなる人間関係づくりを進めています。
(2)生徒理解を基本とした指導体制
学校体制に関しては、普通科高校に比べると教職員数が比較的多いことを活かして複数担任制をとっています。1クラスにつき、2~3名の担任がいます。科目選択や進路に関する相談に対応するには必要な体制です。こういう体制をとると、校務分掌を担当する教職員は全員担任も兼ねることになります。ですから、例えば学年団と生徒指導の分掌とが対立するなどということは、ほぼありません。分掌に関わる提案は、担任としての自分の仕事に直結します。そのことをふまえた提案でないと、担任として生徒に関わることも困難になります。そんなシステムになっています。
教職員には、「行動規範」を必ずふまえてほしいとお願いしています。生徒に関する何らかの事象が発生した場合、まずは「なぜ、そんなことをしたのか」という、その生徒が抱えている心情を理解することが必要です。そこには、多くの場合、愛情の課題や発達の課題があります。愛情の課題とは、簡単に言えば「誰かの気をひきたい」という心理。誰にでもある心理であり、良いことで気をひいてくれたらいいのですが、そううまくはいきません。また、発達の課題としては、成長過程において負の学習を積み重ねてきたことにより、それに則って行動する傾向が身に付いてしまっているということがあります。「そんなこと高校生なら分かるだろう」というのは通用しません。もう一つ重要なのが、その生徒が生活している空間、及び周囲の人間との関係性。そこまで見る必要があります。事象が発生をしたとき、こういった観点に沿って対応してもらいます。ここまでしようと思ったら、担任一人ではできません。生徒指導や集団育成の立場からも関わり、相談しながら進めなければなりません。課題の分析をし、その解決に向けてプランニングをしていくと、いろんな人がそこに携わらざるを得ない状態になります。よって、担任一人が抱え込むということは本校ではありません。また、ほとんどの教職員が一つの大職員室にいることもあり、そこでいろいろ話をし、交流しながら進められる状況になっていることもプラスの要素だと考えられます。
教職員行動規範 1.すべての生徒が「志」を育み、未来を切り拓くことができるよう、模範と指針を示し、 自由で闊達な校風の醸成に努める。 2.すべての生徒に自律的個の確立を促し、その人格を尊重し、敬意をもって接する。 3.学習目標を明確に示し、常に授業改善に努め、生徒の自主的な学習を支援する。 4.生徒に明確な成績評価基準を示し、学習目標に即した公正な評価を行う。 5.きめ細かな生徒指導に努め、個人情報の保護に最大限の注意を払う。
生徒理解と課題解決へのプランニング
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もう一つお願いしているのは「排除しないこと」です。現在、本校に入学してくる生徒たちの傾向として、中学校時の成績評価にかなり開きがあることが挙げられます。一人ひとりの生徒の違いが大きく、一括りにできないのです。
あくまで経験に基づいての話ですが、成績の高さと語彙の豊かさとの関係から次のような捉え方もできるように思います。成績が低い層の生徒は概して語彙も少なく、問われたことに対して的確に言語化するのが困難な傾向にあります。例えば、日常生活において「何をする?」という問いかけをされたときに、成績の高い生徒は「これと、これと、これ・・・」というようにやるべきことを選択し、さらには優先順位まで付けて「この順番ですればよい」と考えることができるのですが、成績の低い生徒の場合、同じ問いに対する答えは「わからない」で止まってしまいます。中程度の生徒だと選択まではできても、「どれから始める?」と問われると「・・・全部?・・・わからない」となってしまいます。
何をすればいいのかわからなければ、当然、学習意欲は上がらず、自分にも自信が持てなくなります。例えば「英語の勉強をしなさい」と言われても、「どうしていいかわからない」うえに、心がどこかへ逃げてしまっているのです。一方で、何にも言わなくても自分でどんどんできるタイプもいます。とにかくいろんな生徒がいるのです。だから教職員には「排除しないでください」とお願いします。教職員側の捉え方だけでなく、その生徒自身の視点に立つことで、全く違うものが見えてくることがあります。そこのところをきちんと見つめていくことが大切です。
Ⅲ 集団育成について ~「学校開き」「クラス開き」から継続した取組へ~
本校の「学校開き」「クラス開き」の行事は20年前から続いているのですが、変化してきているところもあります。「自分だけが苦しい思いをしているのではないんだ」ということに気づくところから集団づくりをしようとしていたのが、20年前です。今は、生徒たち一人ひとりにいろんな事情があるという前提のもと、でも「そのままでいいんだ」とドシッと構えていられる状況をつくってやりたいという方向に「ねらい」は少し変わってきています。
20年前は、入学時の様々な引継ぎ情報や家庭訪問から得た情報をもとに、生徒本人と話し合いながら、「HR合宿の中でこういう話をしてみないか」「このことについて頑張ってみないか」と声をかけていました。本人の気持ちが固まってきたら、再び保護者とも話します。「40人の前で堂々と話をさせたいのです」「ここで本人が腰を据えることも必要だと思います」と教職員の側から訴えるのですが、保護者によっては「帰れ、帰れ、(自分たちの思いを)何にも知らないくせに」「差別の厳しさなんて分かってないだろ!」と追い返されることもありました。そして、学校へ戻ると先輩教員から「そんなの当たり前だよ・・・、明日もう一回行って来い」と励まされる。そして訪問を繰り返すなかで、保護者の胸の内を聞かせていただき、教職員自身の思いも語り・・・。そんな積み重ねがあって、この行事が行われてきました。
今は、この行事のことを、近隣の中学校も多くの保護者も知っておられます。また、行事に参加した生徒たち自身がそのことを家で話題にすることにも、非常に大きな効果があります。今の取組においては「いろんな違いがあっていい」という考えがまず土台になります。その考えを安心感とともに感じ取った生徒たちが、今度はお互いの「違い」をどう包み込むのか。それが3年間を通しての課題となります。
4月の「学校開き」「クラス開き」の後、本校では6月に体育祭を行います。1年生は、そこでの縦割り活動を通して上級生たちの姿から、徹底して「包み込まれる」ことを感じ取ることになります。4月の行事によって「この学校・クラスで過ごすことの安心感」や「いろんな人がいるんだという認識」は、1年生にも一定できています。ただ、その段階ではまだ「適当に距離を保って付き合う」程度に留まっているのです。そんななか、このようなことを言う生徒が出てきます。「親が仕事に出ていて家にいないから、放課後は私が弟を保育所へ迎えに行かなければならない。体育祭の練習を18時までするなら、私は途中で抜けることになるんだけど・・・」と。これに対し、周囲は「OK、OK、大丈夫だよ」と返します。「明日の昼に練習しようよ。(いろいろ事情があるのは)あなただけじゃないから」と。そんな上級生のやりとりを見ていくなかで、「仲間になる」ということ、「排除されない」ということを体感するのです。「ここにいていいんだ」「この集団から排除されないんだ」「この学校でエンジョイしてみようかな」という思いを確認してもらうのが、1年生のこの時期です。
Ⅳ 人権教育の視点でつくる学び
(1)1年生「ライフプランニング」
そして、ここからいろんなことが始まっていきます。ライフプランニングという授業では、「自分を知る」をテーマにします。「自分を知る」には他人が必要だということを感じてもらうのです。
例えば、自分の右手は大きいのかどうか。これは、自分で見ているだけではわかりません。隣の人と比べればわかります。100人いれば、100人のなかで大きいか小さいかわかります。「私はこんな人間だ」と思っていても、横から見ている人には全然違うように見えているかもしれません。その他人がいてくれるから、「私」がわかります。「私」という人間を知っているということだけでも、その人は大切な存在なのです。そんなワークを繰り返しながら「自他の尊重」という入り口に入っていきます。
その後、6月後半からはネットワーク活動に取り組みます。「自分と他人がどんどんつながっていったのが社会だよね。その中で自分が自分らしく生きていくには?」という問いかけをします。授業をする教職員には「生徒の持っている職業観を一旦潰してください」とお願いしています。もう少し丁寧にいうと「生徒たちは、親の期待やその他様々な条件のもとに自分の職業を選択しているはずです。ところがその選択は、本当に幅広い選択肢の中から選んだものなのでしょうか。そこには夢が介在しているでしょうか。『社会人はしんどい』『働くのは義務だ』そんな捉え方をしていないでしょうか。世の中にはいろいろな生き方をしている人がいます。そんな例を紹介してやってください」とお願いしています。こうして一旦、頭の中を空っぽにした状態で6月後半からの学習を重ね、8月に仕事の現場へ行かせるのです。
9月に行う職業別講演会では、生徒たちが講師を探し、依頼交渉を行います。ある年、芸能活動について語ってくれる方として、近くにお住まいの歌手のAさんに、生徒たちがお願いにいくことになりました。ただ、講師料の予算は2時間で5,000円しかありませんでした。案の定、交渉は難航します。「芸能活動に関心があると言いながら、2時間5,000円で交渉するとはどういうつもりか。確かに定価のある仕事ではない。だからといって2時間5,000円で仕事をしていたら、それが相場になってしまい、次からも5,000円で仕事するということになるのだ。そんなことも考えずに頼みに来たのか」と怒られました。諦めて帰ろうとすると、「ちょっと待て。それで諦めるのか」と止められ、こう促されたのです。「自分は妻に弱い。妻に交渉してみたら?」と。提案されたとおりに交渉してみたところ、了解をいただけたのでした。
このことは、生徒たちに、Aさんに3つの側面(職業人としてのAさん、家庭人としてのAさん、社会の一員として授業の講師を務める立場でのAさん)があることを気づかせてくれる学びとなりました。また、このときもう一つ嬉しいことがありました。Aさんが生徒たちに向けてこんな話をしてくれたのです。
「自分の好きな歌や曲を作って売って、お金儲けできていいなぁと思っているなら、大きな間違い。『今、世の中の人は何を求めているのだろう?どんな気持ちに共感するのだろう?』『このフレーズだろうか?この言葉だろうか?』そんなことを真剣に考え続けなければならない仕事なのだ」
「どんなにギターの練習をしても、作曲の練習をしても、それは一部分にすぎない。勉強しなさい。まともに勉強しなさい」
教師がどれだけ「勉強しなさい」と言っても、なかなか効き目がありません。ところが、自分がなりたいと思っている人の言ってくれた言葉は、“本物”として入ってくるのです。このような体験をふまえて、次の学習では「物事を進めようとしたら何が必要なのか」を考えさせ、「情報を正確に集めること」「それらをきちんと整理・分析すること」を学ばせます。そして、その後、科目選択に入っていきます。
さて、12月からはいわゆる人権課題を取り上げていきます。この時期までに「いろんな人がいて豊かな社会が成り立っている」という認識は、ある程度養われています。そのうえで「実際にこんな課題もあるのだ」ということを示していきます。ただ「こんな課題があります。君たちは、どうしますか?」と言うだけでは、生徒の思考は固まってしまいます。そこで、その課題解決に取り組んでいる人たちから「こんな取組をして、こんな風に変わってきた」「それでもまだ、こんな課題も残っている」といった話をしてもらうことにしています。それを受けて「変えようとしたら変えられるのだ」ということや、「問題を分析し、整理し、再度組み立て直し、そして提案する、という過程が必要である」こと、そして「他者の共感を集めることが力となり、変化を生む」ということ、それらのことを確認して1年生のライフプランニングが終わります。
(2)2年生「Gプロジェクト」
2年生になると、グループで一つの課題に取り組むGプロジェクトが始まります。課題を見つけ「それを解決するには、どんな手段があるのか」を考えるのです。
例えば、駅前の不法駐輪の問題を取り上げたことがありました。不法駐輪の自転車は回収・集積され、一定の期間が過ぎるとスクラップ・売却処分されます。しかし、何度回収・スクラップを繰り返しても不法駐輪の台数が減ることはなく、問題は解決しません。この「もったいなさ」に気づき、回収される自転車をリユースできないかと考えた生徒がいました。さらに、一日のうちの駐輪台数の増減を調べたところ、朝夕に自転車の出入りはあるものの、日中・夜間の台数はほとんど変わらないことがわかりました。それなら、(ある程度の台数が確保できれば)シェアして利用することができるのではないかというアイデアが生まれたのです。ここから導き出した結論は、スクラップされる自転車をリユースしてレンタサイクルとして活用しようという提案でした。この提案は行政関係の方々からも高い評価を受け、ある市で実際に試行していただくことになりました。生徒たちにとっては、自分たちの提案が現実になるという経験になったのでした。
現在はパンの販売にも関わっています。ある地元企業の協力により高校生が提案する蒸しパンを製造してもらい、約3ヶ月で18万個販売しました。高校生が企業の方と一緒になって、情報の収集・整理・分析に取り組むという経験をすることができました。
(3)排除せずに解決する力をつける
こういった学習は、集団づくりにも通じます。課題が生じた時に「なぜ生じたのか、情報を集める」「整理する」「その課題の解決に向けて組み立て直す」「提案する」ということを自主活動のなかで取り組ませ、自分の生活に即して考えていくことができるようにするのです。
本校では今、5台の車いすが利用されています。校内にはエレベーターがありますが、利用に制限は設けていません。すると、毎年6月頃にあるトラブルが起こります。車いす利用の生徒が授業に遅刻してくるのです。理由を尋ねると、「間に合うと思って来たのだけれど、エレベーターが満員で通過してしまった」と答えます。教職員たちにとっては想定範囲内の答えなのですが、こう返します。「そんなの、困るよね」「学級委員に相談してみたら?」教職員の役目はここまでです。後は上級生が関わってくれます。上級生たちにとっては既に経験済みのトラブルなのです。「『車いすに乗っている人にとってのエレベーター』と『乗っていない人にとってのエレベーター』は、同じ意味かな?」と、1年生たちと一緒に考えます。「どうしたらいいと思う?」「『エレベーター使用禁止』なんてイヤだよね」・・・そんなやりとりを重ねるうちに、1年生のエレベーター使用量は次第に減っていきます。また、遅刻しそうになりながら慌ててやってきた生徒に後でわけを聞くと「一旦エレベーターに乗ったのだけれど、途中の階に車いすの生徒がいたので、自分はそこで降りて階段を駆けのぼってきた」といった事情がわかったりすることもありました。
そんな経験を重ねながら、身近な生活の中で「誰かを排除しないで問題を解決する」力を、生徒たちには付けていってほしいと思っています。
Ⅴ これからの「学校つくり」について
(1)10年後を見据えて
さて、ここに「62/100」という数字があります。高校入学後の生徒の動向を調べたもので、ショッキングな数字です。2000年から2010年までの文部科学省、厚生労働省の各統計をもとに算出した全国平均としてご覧ください。
2000年に高校へ入学した生徒を100人とすると、3年間で8人が退学していることになります。高校を卒業した92人のとる進路は、それぞれ就職15人、大学34人、短大7人、専門学校(専修学校含む)27人。そして、この時点で行き先が不明あるいは未定が9人います。次に、進学した者のうち、大学で5人、短大で1人、専門学校では4人が辞めています。修了年限までに計10人が学校を去っています。各学校から、さらに上級学校へ進む者が計6人。また、就職する者が計40人。ただ、この時にやはり、自分の進路が明確に決まっていない学生が、大学に7人、短大に1人、専門学校では4人いることになります。さて、さらに3年後どうなっているかというと、高卒で就職した15人のうち、21歳を迎えるまでに7人が辞めています。大卒生が25歳になったときには6人が、短大卒生は2人、専門学校卒生は8人が離職しています。ということは、2000年にお預かりした100人の生徒のうち62人が、10年後の2010年までに、もう一度自分の進路を考え直さないといけない状況に直面しているということになります。自分の望むと望まないとに関わらず、こういう状態になってしまっているのです。
このような状態にぶつかったとき、自分に自信を持っていなかったら、もう一度踏み出すことはとても難しいことなのではないでしょうか。あるいは、今の自分の在りようや、自分がめざす姿とそれとの「差」をしっかりと認識すること、さらに、その「差」にどう「はしご」をかけたらいいのか(どのようにその「差」を縮めたらいいのか)を理解しなければいけません。それをするのが学問ではないだろうかと考え、この10年来取り組んできたのが今の学校の姿です。
(2)身に付けたい「学力」とは
こういった取組の根を張らせるために「学校開き」もあります。この行事を行うこと自体が解決ではありません。その点をふまえ、日常の様々な状況の中でやりとりしながら、生徒たちに付けていきたいと考えている力があります。
以前、「生きる力とは」「PISA型学力とは」といったことが話題になったことがありました。アメリカのある研究者の解説によると、「この地球で生活する次世代の子どもたちが、こうあってほしいという世界を創造するには、彼らにどんな力を付けたらいいのか」という観点が、「PISA型学力」の考え方のなかにあるのだそうです。では、その「次世代の子どもたちにつくってほしい世界」とはどんな世界なのでしょう。それは世界人権宣言の中に書いてあります。人権宣言が示した世界を実現するために、どんな力を身に付けるべきなのか。人が動き始めたら、お金も動き始めるという世界の中で、どういう力を付けておいたらいいのか。そういった観点で測ろうとするのがPISAであり、キー・コンピテンシーの概念である、と理解できます。そして、これはわが国の示す「生きる力」とも重なる考え方だと思いました。
こういった認識のもとに、今後の進学・就労に関する校内の取組を進めていこうと考えています。ただ単に競争力を高めるのではなく、人権の側面を組み入れることで、身に付けさせたい力はいわゆる「三つのキー・コンピテンシー」とぴたりと一致します。これまで、我々の考えてきた「教科教育」「特別活動」「人権教育」その他様々な取組を、それぞれ個別で行おうとすると限界があります。そこで今後は「それらをどうパッケージ化するか」「自校をどう活かしていくか」を考えていく必要があります。
■ キー・コンピテンシーⅠ= 相互的に道具(知識・情報)を活用する力 ■ キー・コンピテンシーⅡ= 多様性のある集団(社会・枠組み)で活動する力 ・「同じだから(一緒だから)安心する」から「違っていても信頼する」へ
■ キー・コンピテンシーⅢ= 自分をコントロールし、自律的に行動する力 Key Competencies: OECDが1999~2002年にかけて行った「能力の定義と選択」プロジェクトにより生まれた新たな能力概念。言語を運用する能力、他人と良い関係を作る能力、争いを解決する能力、人生計画を設計し実行する能力などが組み合わされた、個人の人生にわたる根源的な学習力。 |
(3)ヒントになる言葉
自校の今後を見通すうえで、ヒントとなる言葉を紹介します。
一つは、総合学科の立ち上げに向けて他校の視察に伺った際、複数の学校から教えていただいたことです。「あなたの学校の建学の精神を失ってはいけません。『総合学科』は“システム”ですから」という言葉です。ここには、地域連携とつながってくる要素があります。そこに学校が存在するということは、その学校が誕生し、育ってきた根幹、すなわち建学の精神が存在するということです。その学校が、そこに在る意義、といってもいいかもしれません。
もう一つは、「リンゴの木にミカンはなりません」という、ある校長先生の言葉です。「生徒がきちんとできる」ためには、本人を丁寧に見、その発達課題に取り組む指導が必要になりますが、そこには同時に、本人の背景に迫り、本人を支える視点も欠かせません。両者がマッチングしないと、生徒は変わってくれません。それが「リンゴの木にミカンはならない」の意味だと思います。その場だけ効果を上げようとしても無理です。一時的に「ミカンを付けること」ができたとしても、土台が無ければ結局枝ごと落としてしまうのです。
今の学校教育には、担うべきものが様々ありますが、それらをトータルして、その学校の教育活動のなかでどう位置付け、どう進めていくかが考えどころです。
Ⅵ さいごに ~人権教育の役割を考える~
今の生徒たちの姿として、「周囲に合わさなければ不安」「何かしらの価値基準に右ならえをしていないと怖い」という雰囲気のなかで育ってきた傾向があるように思います。しかし、「自分らしさ」を求めていけば「右ならえ」ばかりはしていられません。例えば、発達障がいを抱えた子どもたちにとって、「空気を読んで右ならえする」のは難しいこともあります。そのようなとき、それを包み込める土壌がつくられていないと、彼らはその場からはじき出されてしまいます。一人ひとりの子どもが個性豊かに伸びやかに育っていくことをめざすという意味でも、人権教育の守備範囲は広いのだと思います。
「人権」の果たしている役割について考えてみたことがありますか?
「人権」という概念があるからこそ、「人権課題」は見えてきます。この概念が生まれたのは、人間の歴史のなかではごく最近のことです。しかしそれがあってはじめて、様々な当事者の声が集まり、共感を生み、多くの課題が示されてきました。そう思うと、人権教育の果たしている役割はとても大きなものだと感じるのです。これからも、人権教育を根幹においた「学校つくり」を進めていきたいと思います。
※資料1~3は、講演会で用いた説明用スライドの一部です。
参考 《柴島高等学校の取組を紹介した書籍等》
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