これからの人権教育
平沢安政先生は、文部科学省の「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」の委員として、各地域・学校の人権教育推進にご尽力いただいています。今回は2011(平成23)年5月31日に開催された、人権教育推進管理職研修会(小中学校長対象)において、ご講演いただいた内容の一部をお届けいたします。人権教育を推進する上での「管理職としての役割」をはじめ、多面的なご示唆をいただいております。各学校での取組みに役立てていただければと思います。 (講演資料はこちら)
これからの人権教育-「第三次とりまとめ」をふまえてー
大阪大学大学院 人間科学研究科 平沢 安政
(2011年6月作成)
はじめに
この講座Ⅰは、『これからの人権教育』という非常に漠然としたテーマを掲げています。文部科学省が2008年3月に出しました「人権教育の指導方法等の在り方について 第三次とりまとめ」(以下、「第三次とりまとめ」という。)で述べられたポイント等を柱にしつつ、それに私が日頃考えている人権教育の捉え方を加味して話をさせていただきたいと思います。
「第三次とりまとめ」については、さまざまな研修等でおさえられているではないかなと考えています。前半では、少し枠組を広げて、人権教育について国際的にはどういう大きな流れが動いているのかという話をさせていただきます。それを踏まえて、そういった国際社会の潮流の中で、1990年代の半ばから、「人権教育のための国連10年」(以下、「国連10年」という。)を契機に重要なキーワードとして浮上してきた「人権文化」という言葉について話をさせていただきます。それに続いて、「第三次とりまとめ」に直接関わった話と、それに基づく学校における組織的体系的な人権教育の推進やカリキュラムや学力等のあり方について話をするという手順で進めさせていただきます。
1. 人権教育のための世界プログラム第二段階へ (2010年~)
1995年から2004年末までの10年間を「国連10年」とし、国連が行動計画をつくって世界中に人権教育の推進を呼びかけました。それに呼応して、日本では政府も「人権教育のための国連10年行動計画」というものを1997年につくっています。その後全国の多くの自治体で、同様の行動計画がつくられました。
ポイントは、国連が世界的に人権教育の推進を求めたことに対して、日本ではそれを正面から受け止める形で、人権教育の10年というかなり中長期的な展望をもった新しい行動計画をつくったということです。それがひとつのきっかけになって、それまでは人権に関する教育というと、もっぱら同和教育という言い方で象徴されていたものが、同和教育ももちろん内容として含みつつ、さらに広がりのある普遍的な人権教育というものに発展的に再構築されていきました。つまり、その対象範囲を広げ、人権教育というものをより幅広く普遍的に捉えるような枠組みに移行していくという動きが、日本でも加速しました。
この「国連10年」が終わった時に、国連はそれに続けて、「人権教育のための世界プログラム」(以下、「世界プログラム」という。)というものを呼びかけました。最初2005年から始まったのが第一段階で、2010年からスタートした第二段階では、その守備範囲を一層拡大しているという流れにあります。具体的に言うと、2005年から始まった「世界プログラム」では、主に初等中等教育、つまり小学校、中学校、高校の段階における人権教育の推進が焦点化されました。去年から始まった第二段階では、この小中高に加えて大学における人権教育、それからあらゆるレベルの先生方に対する人権研修、すべての公務員に対する人権研修、警察官や刑務官などの法執行関係者に対する人権研修の必要性が明記されています。つまり、国連を中心にした人権教育推進という流れは90年代半ばから一貫して、その流れを拡大しながら今日に至っているといえます。
このように国際社会が人権教育に力を入れる大きな流れを受けて、文部科学省の「第三次とりまとめ」が2008年に出され、その翌年に「人権教育の推進に関する取組状況調査」(以下、「取組状況調査」という。)が行われました。国際社会における流れを受けて、文部科学省が人権教育を推進する新たなイニシアティブ(主導性)を発揮し始めたのが大きな特徴だと思います。
「第三次とりまとめ」は、私も委員になっている「人権教育の指導方法等に関する調査研究会議」が策定したもので、日本の文部行政が出したおそらく歴史上初めての人権教育にかかわる体系的な文書です。その後「取組状況調査」で、全国の人権教育の実施状況を調べ、その膨大なデータを分析しました。その上で委員が、人権教育に特に積極的に取り組んでいると思われる学校や教育委員会を訪問して、授業を見せてもらったりインタビューしたりして実地調査を現在行っています。今年9月には全国の人権教育担当の指導主事に集まってもらって、調査状況や現状についての情報を全国的に共有する会議をもつことになっています。
そういう流れをふまえて、できるだけ早く、文部科学省のホームページに全国の人権教育のさまざまな取組事例を掲載して、データベース化し、どこからでもアクセスできる仕組をつくるのが、今調査研究会議で取り組んでいることです。そういうことで、文部科学省が人権教育の支援をする流れは今も進行中です。
日本国内の各地でこれまでの同和教育、人権教育の取組の経験をベースにしながら、さらにそれを質、量ともに豊かにしていくための筋道をどうつくっていくのかという流れの中で、皆さんはこの研修会に参加していると捉えていただければと思います。それは、皆さんが管理職として、人権教育の次の一歩、2年先、5年先を見据えて、学校においてどんな推進計画や体制をつくり、どんな魅力ある人権教育の新しい取組を推進するかということが、皆さんの今の重要な課題になっていると受け止めていただけたらと思います。
2.人権文化の4つの領域(「人権文化」を普遍的に捉えるために)
人権教育をやるかやらないかではなく、今、日本においては、やるべきもの、しかも、それをいろんな工夫をしながら、組織的・体系的に、魅力的に進めていこうという流れになっていることを踏まえた上で、人権教育がめざしているものはいったい何なのか、それを「人権文化」という言葉をキーワードにして、私なりに説明してみたいと思います。
「人権文化」という言葉は、先ほどの「国連10年」という1995年から取り組まれた国連の呼びかけによる人権教育の推進の中で、スローガンとして使われたキーワードです。それまでは、日本で同和教育や人権教育というと、まず浮かぶのが「差別をしない」「差別をさせない」「差別を許さない」というメインスローガンでした。今もその重要性は一切変わりません。なぜなら、人権教育は人間の尊厳を徹底して守り、いろんな人の自己実現や社会参加を応援するということが、基本的なスタンスだからです。
そこに、人権というものを文化として、私たちの社会や地域、学校、家庭にどうやって根付かせていくかということが加わったわけです。「人権文化」を定着させるということは、人権を尊重する考え方や感じ方や行動の仕方が、日常の当たり前のことになるということです。ただ「差別をしなければそれでよし」ではなくて、差別をしないことに加えて、豊かに生きる主体となり、学校や社会を築いていくために何が必要なのか、そういう意味で「人権文化」という言葉について少し考えていただきたいと思います。
「人権文化」は大きな捉え方をすると、すべての人がエンパワーされるということだと思っています。エンパワーされるというのは、パワーをもった存在になるということです。それを英語の名詞形でいうとエンパワメントになるのですが、すべての人がその人らしく、自分の力や可能性をしっかりと自覚し、それを外へ発揮して社会に参加していくという姿をエンパワメントと考えていただければと思います。
1)個の領域(自尊感情:自己実現)
エンパワメントを可能にするために、まず個の領域で大事なことは、自尊感情や自己実現です。「あなたはありのままの自分のことが好きですか」と問われたら、皆さんはどのように答えられるでしょうか。ありのままの自分とは、何かができるから、ある面が強いから、こういうよさがあるからOKというように、何らかの条件を付けてということではなくて、何かができない自分、何かが苦手な自分、ある面に弱さをもっている自分、ある点で情けない自分、そういうものも含みます。つまり、プラスともマイナスとも思えるような自分という個性をつくっているすべての要素を一切合切引き受けて、ありのままの自分を尊いと思える気持ちです。ありのままの自分を大切にするということがエンパワメントを可能にすると思われるわけです。
それを最近の人権教育の世界では自尊感情という言い方をすることが多くなってきました。どういう条件が自尊感情を可能にするのかということについて、今までいろんな人が研究してきて、3つの点が指摘されています。
1つめは、包み込まれているという感覚です。つまり、自分を大切に思ってくれている、自分を絶えず見つめてくれている、自分をしっかりと受け止めてくれている、そういう存在のもとに自分は包み込まれているという感覚です。例えば自分にはできないことや不十分なことがあるけれども、そのありのままの自分を親がきちんと受け止めて愛していてくれている。また、先生がそういう眼差しでいつも自分を見てくれる、何か失敗したりダメなことがあったりしたら、その時もきちんとフォローして、厳しく怒る時はしっかり怒るけれども自分の人格を否定はしない。そういう感覚が包み込まれ感です。包み込まれ感を生育過程できちんと確保できた子どもは、自尊感情をもちやすいといわれています。
2つめは、つながり感です。つながり感というのは、自分の思ったことや感じたことをきちんとこの人には受け止めてもらえるという感覚です。世の中に自分が確かにつながっていると思える他者が多様に存在するという感覚がつながり感を育て、それがまた自尊感情を育みます。
3つめは、自己効力感です。自分は無意味な存在ではなくて、自分なりに努力したり、何かにチャレンジしたりすることで、確かに成果があった、手応えがあった、達成できたという感覚です。そういう自己効力感や自己達成感が全部合わさって、自尊感情が育つといわれています。
社会的に不利な境遇におかれている子どもは、自尊感情をもちにくい可能性があります。だから、同和教育は被差別部落の子どもたちの心のひだに寄り添って、その子どもたちが自分や親を否定するのではなくて、しっかりと現実と向き合って、その差別をはねのける主体となっていけるように支援していくというスタンスを、「差別の現実から深く学ぶ」というスローガンで大事にしてきたわけです。同和教育のスタンスと、自尊感情を大事にすることは重なり合います。今の日本の子どもたちは、「あなたはありのままの自分のことが好きですか」と問われた時に、3割から4割は、「いいえ」と答えるというデータがあります。アメリカや中国の子どもたちでは1割未満です。日本の子どもたちはありのままの自分を好きだと思えない、自尊感情をもてていない比率が非常に高いのです。
いろんな事情が背景にあると思いますが、私たちが子育てや学校教育において、子どもたちが自尊感情をもてるような環境づくり、関係性づくり、雰囲気づくりなど、いろんな手立てを学校で工夫していくことによって自尊感情を安定的に高めることが可能です。そのためには、包み込まれ感やつながり感や自己効力感が、学校教育プログラムの中で形成されるように仕掛けていくことが大事だということを、「個の領域」でおさえておきたいと思います。
2)他者関係の領域(多文化共生)
次は「他者関係の領域」です。様々な他者とあなたはよい関係をつくってきましたかということです。これもまず、自分の問題だと考えてください。仮に皆さんが日本国籍を有する日本人だとすると、外国籍の人、異文化を背景に生まれ育ってきた人で、自分が親しく交わり、非常に親しい関係性をもっていると言える人を、何人思い浮かべることができますか。皆さんが健常者だとしたら、何らかの障がいをもって生きている人で、皆さんが親しく対等の関係で深くかかわれてきて、今もそういう関係を維持できていると思える人を、何人くらい身近に思い浮かべることができますか。皆さんが異性愛者だとしたら、同性愛の当事者の人、あるいは性同一性障がいの人で身近にかかわりをもってきたと言える人を、何人ぐらい思い浮かべることができますか。
最近では、アーティストやミュージシャン、デザイナーとして、各界で活躍するセクシャルマイノリティの人たちがカミングアウトをして、身近な存在と思えるようになってきました。大学でもセクシャルマイノリティの当事者のカミングアウトというのは、以前に比べてあまり珍しいことではなくなってきていて、また、そういう当事者と特に違和感なく、仲良く友だちとしてかかわったり、そういう問題を卒業論文などのテーマとして深く研究したりする大学生や大学院生たちが増えてきました。
社会的にいろんな困難を乗り越えて、自分らしい生き方をしようとして、いろいろがんばっている人たちの姿をたくさん日本でも目にするようになりましたが、身近な日常の中でとなると、そういう出会いをもっている人は、かなり限られているのが現実ではないかと思います。
この狭い日本の社会においても、自分と国籍が違う人、人種・民族が違う人、障がいの有無という点で違っている人、性的な指向性が違っている人、年齢が違う人、県民性において異なる人、職業分野において違う人がいます。そう考えると、異質性をもった人たちというのは、世の中に多様に存在しているわけです。そのさまざまな違いがむしろよいこととされ、人間の人生をもっと豊かに膨らませて、自分自身の生き方に対してもいろんな気づきを与えてくれるというのが、多文化共生という言葉の根本にある思想だと思うのです。そういう意味で、様々な他者といい出会いをし、その関係性の中から新しい気づきを得て、世界を広げていくことは、教育の中でしっかり追求しないといけないテーマだと思います。幸いなことに、学校教育においては、きちんと計画を立て、それなりに意識的に取り組めば、多様な立場の人たちと子どもたちが発達段階に応じて出会い、かかわり、その体験を通して多様性というものを寛容に受け止められるような人権感覚を育むことが、やりやすい面もあると思っています。そういう観点から職場体験もこの中に含めることができると思います。多文化共生という「他者関係の領域」で「人権文化」を膨らませることはすべての学校で取り組める課題だと思います。
3)社会関係の領域(社会的関与・社会参加)
次は社会関係の領域です。これは皆さん一人ひとりと社会がどうつながっているかという話です。自分がこの社会に存在していることや果たしている役割が、この社会にとってプラスの意味をもっていると実感できれば、人間は希望をもってがんばることができます。それは、自分がこの世の中にいることは決して無意味じゃないのだ、自分の働きは、たとえささやかなものであったとしても、プラスのインパクトをもっているのだということが確認できれば、人間は自暴自棄になったりしません。社会に貢献し参加していくことを、人間はどこかで望んでいるからです。そういう可能性を否定された時に、人は自分の命を絶ったり、社会に対して打撃を与えるような事件を起こしたりというような形で自分を表現しようとする弱さをもっています。その人が社会において居場所をもち、自分は社会に貢献できるという形が見えていれば、そういうことにはならないだろうと思っています。
この3つめの領域で私は最近希望をもっていることがあります。それは東日本大震災という大変悲惨なことがあったにもかかわらず、例えば被災地の子どもたちが、何か被災地の人たちに元気を与えることはできないかとブラスバンドの活動を再開するなど、子どもたちの立ち上がる姿がたくさん見られたことです。ました。それと同時に、震災が起こった後、自分にも何かできるんじゃないかと街頭募金に立ったり、直接支援に出かけて行ったりという自発的なボランティアや社会的な活動に参加する若者たちがとてもたくさんいることにも希望がもてるなあと思いました。
例えば、私がいる大阪大学でも、本当にたくさんの学生がボランティアに行っています。大学なのでいろんな研究者がいます。教育関係の研究者、原子力工学の専門家、まちづくりの専門家など、それぞれの専門の研究者とそういう分野でいろいろ勉強している学生たちが一緒になって、被災地に出かけて行って、1週間、2週間という単位でいろんな取組をします。例えば、教育にかかわっている学生たちは、被災した小学校や中学校の子どもたちの話し相手になったり、一緒に遊んだり、勉強をみたりします。何気ない日常的なことなのですが、学生たちがやってきたことで、被災地の子どもたちが、日常の学校生活を立て直していくための大きな励みになっています。また、そこへかかわった学生たちも、自分たちが行ったことで喜んでくれて元気になる子どもたちの姿を目の当たりにしたことで、社会的な自分の存在価値を再発見し、そのことによって自分がもっていた内なる力を再発見したようです。
様々なボランティアに取り組んでいる高齢者の人たちもたくさんいます。家庭での子育てをがんばっている方たちもいます。教育の世界で世の中に何らかのプラスの影響を与えようと日々努力されている方もいます。その根本にあるのは、社会にとって自分が何か意味のある存在として生きたいという、すべての人がもっている願いだと思うのです。また、社会にかかわる、社会に参加する、その結果として社会に何かの形で貢献するような生き方を育む教育というのは、自立を促し、社会的責任感をもって意欲的に社会とかかわっていこうとする次の世代を育てる市民性教育でもあると思っています。そういう意味で、「社会関係の領域」としての「人権文化」も、人権教育においてとても重要な視点になると思います。
4)自然関係の領域(持続可能な生き方、食・健康の管理)
最後は「自然関係の領域」です。今回の大震災は、人間という存在に比べて、この地球、この大きな自然がもっているエネルギーのすさまじさを、私たちに思い知らせました。三陸の沖では、1000年ほど前にも同じような規模の震災と大津波がありました。そこで、先人たちはここよりも下には家を建てるなということを代々伝えるやめに、石碑をつくったりしました。しかし、いつの間にかそういうことを忘れてあちこちを開発して、挙げ句の果てには、もし大きな津波が起こったら、大変なことになる危険性がある場所に原子力発電所をつくってしまい、今大問題に私たちは直面しています。そういうことからもう一度、人間と自然との距離関係、かかわり方を考えなおすことが私たちに問われています。自然に畏敬の念をもちながら、この自然の恵みを受けて生きるという立ち位置をどのようにうまくキープしていくのかということです。それは一方では持続可能な生き方とか、エコを大事にするとか、限りあるエネルギー資源をもっと有効活用し自然エネルギーをうまく使う方向へどう転換するかということで、こういう問題はもう20世紀の終わりからすでに提起されていました。もう一度地球環境や自然とどう共生するのかということを、学校教育の中で子どもの発達段階に応じてきちんと考えていく教育内容をつくることが大事だと思います。
私たちは自然の恵みをいただくことによって命を続けているわけです。そういう意味で、私たちはいったい普段何を食べ、その食べているものはどこでどのようにつくられ流通の過程を経て、今ここに来ているのかなど、食に対して、もっと敏感になる必要があると思います。また、私たちの心や健康も自然の一部なので、私たちの生活リズムをもう一度考え直す必要があります。「早寝、早起き、朝ご飯」ということが教育委員会のスローガンにならざるを得ないくらい、子どもたちが遅くまで起きていて、朝ご飯も抜いて学校に行くような状況があります。そのため、体に十分なエネルギーが蓄えられず、勉強やいろんな活動に身が入らないということが起きています。だから、「早寝、早起き、朝ご飯」をきちんと小さい時から家庭教育や学校・園等の教育でもう一度再生していくことは、私は人権教育という観点からも大事だと思っています。つまり、食育や健康教育も人権教育の構成部分なんだという捉え方です。
私は人権文化を4つの領域に区分することで、人権教育がやらなければならないことが明確になってくるのではないかと考えてきました。実はこの4つの分類というのは、道徳教育の学習指導要領に書かれている4つの視点と共通性があります。道徳の学習指導要領においては、「主として自分自身に関すること」「主として他の人とのかかわりに関すること」「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」「主として集団や社会とのかかわりに関すること」が設定され、これは私が考えてきた人権文化の4つの領域と全部一対一で対応します。私は、この人権文化という観点をベースにもちながら、道徳で言ってきた「主として・・・・・・である」という中身を人権の視点で捉え直してみてはどうかと思っています。道徳と人権教育を対立的に捉えるのではなくて、それに整合性をもたせるような人権の視点からの教育づくりの中に、道徳もきちんと位置づけられるような方向性を、今後また問題意識として、どこかにもっておいてもらえたらと思います。
4. 人権教育の4側面(と「第三次とりまとめ」)
次に、人権教育を4つの側面に切り分けて考えてみたいと思います。人権教育と一言でいいますが、人権教育も捉えようによっていくつかの特徴的側面があります。
1)人権としての教育(education as a human right)
一つは、「人権としての教育」といわれている側面です。これは、教育が人権として保障されているということが切口です。例えば、生まれた家庭背景や性別によって、教育機会が不平等であれば、人権としての教育が保障されているとは言えません。そういう観点から考えてみると、戦後の日本で取り組まれた同和教育の実践というものは、今日も学校にいないあの子をどうやって学校に来れるようにするかということに心を砕いて、毎日のように地域訪問や家庭訪問を行う取組でした。長期欠席や不就学が圧倒的に高かったのが被差別部落だったので、被差別部落を毎日のように訪問し、子どもたちが学校に来られるようにすることに苦心した教師たちの物語が、1950年頃の実践記録の中に残されています。それは部落に生まれたことによって学校へ行くことが困難になっているという子どもたちが、学校に来られるようにするための教育機会の保障、つまり人権としての教育を具体化する実践に、同和教育は身をもって取り組んだと言い換えることができると思います。
1960年代ぐらいにはほとんどの子どもたちが学校に来るようになってきたものの、あまり学歴がなく非識字の親たちが多く、勉強したところでそれが将来にどうつながっていくかという将来展望がもちにくい境遇におかれた被差別部落の子どもたちが、時に非行や荒れという形で学校においていろんな問題を提起しました。1960年頃の同和教育実践は、そういう子どもたちの本音に寄り添いながら、将来に展望をもち、学校に居場所が見つけられるような教育をつくろうとするものでした。子どもたちに自信を取り戻させること、意欲をもって何かにチャレンジさせること、将来展望を切り拓くために必要な学力、生きる力を育てることを学校教育の中で本気でどこまでやれるかを問うものであったと捉えると、「心の襞に沿う」ような同和教育実践も「人権としての教育」という観点で捉えることができるのではないかと思っています。
今日的な人権教育の実践でいうと、将来展望を切り拓くためのキャリア教育が、人権教育の中でも活発に行われるようになってきました。しかし、それはただ小学校や中学校でだけで取り組むのではなくて、就学前から小中高、さらにその先の将来を見通したものです。キャリアビジョンをもって将来形成をしたいから、自分は当面この課題に向き合ってがんばるんだというような一本の筋を通した、キャリア教育と人権教育をセットにした考え方というのは、まさにこの「人権としての教育」という側面から説明できることではないかと思っています。だから私は、生きる力につながる確かな学力形成も、「人権としての教育」という側面に含まれる、つまり、人権教育という大きな枠の中に、学力という柱があると捉えています。
2)人権についての教育(education on or about human rights)
2つめは、「人権についての教育」という側面です。人権について教育するというと、これはすでに随分やってきたと思う方が多いと思います。部落差別の問題をはじめ、最近いろんな人権課題が重要だと位置づけられるようになりました。在日外国人、障がい者のほか、地球環境やインターネットや携帯電話にかかわる人権侵害も扱ったりします。また、中学、高校になると、デートDVの教材を扱うこともあります。つまり、現代社会というのは、そういう様々な人権にかかわる教育を必要とするようになってきているわけです。人権についての教育はやれている、やっていると認識されている学校が多いと思います。ただ今日はあえて一点だけそこに陥りやすい落とし穴があるということを問題提起しておきたいと思います。
例えば部落差別の問題についていえば、部落差別というのはこんなふうに悲惨な形で被差別の立場の人を追いやり、時には死に至らしめ、人間と人間の恋愛関係を断ち切り、あるいは就職差別ということを引き起こす、あるいは最近は土地差別というような形で被差別部落の土地取引に関するいろんな差別的事象が大阪などで顕在化して、去年から大問題になっている、そういう各種の差別の現実について教え、そして最後には、部落の人はこんな不当な差別を受けてかわいそうなのだから、これ以上部落の人を追いやることのないように、言葉遣いや態度に気をつけて、優しく思いやりをもって接しようというふうに終わる、そんなパターンのものが結構ありました。次に障がい者の問題では、障がいのある人たちはこの世の中で、いろんなハードルやバリアに直面してしんどい目に遭っている状況であるのだから、その障がいのある人たちには、思いやりをもって優しくかかわりなさいというふうな具合です。人権について教えるときの基本的なやり方がすべて、「差別を受けてかわいそうだから、思いやりをもって優しく」というものであれば、学習した側が最終的に身につける人間観というのは、「世の中には差別などを理由としてひどい扱いを受け、かわいそうな境遇におかれた人があちこちにいるから、私はせめてそんな人を追いやったり苦しめたりすることのないように言動に気をつけ、差別しないようにしよう」というようなことになります。いろんな被差別の人たちに対して、「かわいそうな哀れむべき人」という人間観が形成されていくことにもなりやすく、これでは全国水平社運動が言った「人間はいたわられるべき存在ではなく、尊敬される存在だ」というあの根本の思想と全く対立するものになってしまう可能性があります。
下手をすると、差別について教えれば教えるほど、人間の中にはある種の哀れみをもってかかわらないといけない集団や個人がいるという観念を育て、そういう時のかかわりは注意しないといけないという警戒心をかき立てます。その結果、自分はそういう立場でなくてよかったという、無意識のうちに上から目線で見るような人間観を育てる危険性があるのです。これは、国際的援助でもありました。例えば、アフリカの人たちは戦争や飢餓、貧困、病気などでみんなかわいそうだから、その人たちをこれ以上苦しめないようにいろんな物資や食料を送ろうと考え、アフリカの現実とつながるのではなくて、遠いところにかわいそうな人たちがいるので何か恵んであげようという域を出ず、結果として、アフリカに対してどこか上から目線で見ているような国際協力もあったわけです。震災でもそうです。震災に遭った人たちを、大変な目に遭ってかわいそうな人たちだと見ることは、逆に人間と人間のつながりをつぶしてしまうことにもなりかねません。
私たちが既に知っているように、被災している人たちは本当に大変な目に遭いました。しかし、そのことと向き合って、被災していない私たちからは想像もできないようなたくましさでその日常生活を立て直してきています。困難と向き合いながら、もう一回漁業という仕事に立ち戻りたい、農業を再開したい、学校を建て直したい、自分たちのまちづくりをしたいという思いで立ち上がっている人たちの姿を、私たちはたくさん見てきたはずです。つまり、人間は差別されたり何かの被害に遭ったりすることで、大変な目に遭うわけですが、その結果、自動的にかわいそうで、周りから救われるべき存在になるわけではなくて、そのような状況においても、人間の尊厳をかけて立ち上がっていく姿によって、多くのことをいろんな人たちに教えるということもあるわけです。
先日の「鶴瓶の家族に乾杯」という番組は、1年前に訪ねた石巻市を、鶴瓶さんと、さだまさしさんが、もう1回訪ねるという内容でした。鶴瓶さんとさだまさしさんは、震災の直後は自分たちを何もできない無力な存在だと感じていました。しかし、被災地の人たちが、何か新しい楽しみや希望を糧に立ち上がろうとする時に、自分たちの落語や歌が大変な力づけになることができるのだということを再確認し、自分たちはそういうスタンスで、今後もかかわり続けていくというメッセージで番組はまとめられていました。番組で何度も言われていたのは、「私たちは元気を与えようとして来たけれど、逆に被災した人たちにいっぱい元気もらった」ということでした。差別が人間を死に追いやることもあるけれど、それによってみんなつぶれてしまってダメになるほど人間は柔な存在ではなく、逆に差別をはね返し、人間が輝いていく姿があります。困難に出会っても、それをはね返していくような人間の確かな力というものに私たちは寄り添って、自分たちも自分の生き様を実現していき、お互いがつながっていくというところに、人権教育の未来があるのではないかと思いました。
そういう点においていうと、人権に対する知的な理解、人権に対する知識を確実に学ぶということは重要ですが、「第三次とりまとめ」がキーワードにしているのは、人権感覚という言葉です。人権感覚とは平たく言うと、人権という観点から、「それは間違っている」「これはおかしい」と直感できる感覚です。だからこれからの人権教育の重要なポイントは、「頭で分かるだけじゃなくて、それを感覚でしっかり受け止めて、それを意識化して、何らかの自分の行動につないでいく」ということです。これが本当の人権についての教育だというわけです。
3)人権を通じた教育(education in or through human rights)
次は、「人権を通じた教育」という側面です。これは、その学校や学級の環境や関係性自体が、人権を大事にしているということです。言い換えると、いろんな立場の子どもたちが、自分が安全・安心だと思える居場所があると思える学校や学級です。先生や友だちを信頼していいのだと自然に感じ取れるような雰囲気や関係性が、学校の中に普段から実現している状態です。これを「人権を通じた教育」と呼びます。
例えば子どもは、「あなたのことを私は本当に愛している」と100回言われたからといって、自分は愛されているのだと感じるわけではありません。本当に自分が大事にされ愛されていることが分かるためには、その子がしんどい状況に陥った時、何かどうしても助けを必要とする時に、そのことを察知してきちんとかかわったり、あたたかく見守ったりすることです。つまり、言葉ではなくて、その場の関係性や雰囲気自体が人権を大事にしているということを実感できるようなものになっていることが、「人権を通じた教育」です。
「第三次とりまとめ」には、「①教育・学習の場そのものの在り方がきわめて大きな意味を持つ。このことは、教育一般についてもいえるが、とりわけ人権教育では、これが行われる場における人間関係や全体としての雰囲気などが、重要な基盤をなすのである。②人権教育が効果を上げうるためには、まず、その教育・学習の場自体において、人権尊重が徹底し、人権尊重の精神がみなぎっている環境であることが求められる」 と記されています。これを「人権を通じた教育」という観点だと捉えていただければと思います。
4)人権のための教育(education for human rights)
そういう3つの側面を全部統合することで、4つめの側面、「人権のための教育」が実現します。「人権のための教育」であるためには、すべての子どもに豊かな人権文化を築き上げる力や資質を備えることが求められます。その力や資質というのは、もっと区分けすると、知識とスキル、それから態度という3本柱に分けることができると思います。
「人権のための教育」で重視されている知識は、断片的な事実や情報を記憶するといった、クイズでたくさん正解できるというようなものではありません。与えられた情報を多面的に分析することができる力です。つまり、それは真実なのかということをいろいろな手段を通して検証した上で自分なりに納得するということ、言い換えると、批判的思考とか批判的分析力のことです。世の中には、未だに差別的な観念とかステレオタイプがあちこちにあって、私たちが無批判にそれに追従している限り、人権尊重の文化を築き上げることは難しいわけです。本当にこれは人権尊重につながるのかという視点でもう1回検証し、組み立て直すということが求められています。
5. 学力の捉え方
こういう情報やイメージへのかかわり方というのは、実は、OECDが国際的な学力比較調査のために実施したPISAと共通します。この調査の結果、日本の子どもたちの学力が低下しているといわれて、大きな問題となってきました。
それを受けて、日本においても全国一斉の学力調査が行われました。問題Aと問題Bがあり、特に問題Bの方は、教科書に直接は載っていない、実生活で出くわすような場面を想定して、与えられた問いに対して、どういうふうに考え、その考えたプロセスをきちんと言語化して論理的に説明する力を試します。問題Bは、OECDが国際標準の今の学力の物差しとして示したものと一致します。言い換えると、PISA型学力というのは、教科書に載っていたり、参考書に書いてあったり、先生が教えたりしたことをそのまま丸暗記する学力ではなく、日常生活や社会生活で出会う諸問題を解決する力です。教科書に正解が必ずしも載っていなかったり、答えが一つではなかったりするような問題について、考える上で必要な事実や情報を集め、それを自分の頭でもう一回多面的に考え、論理的に整理し、それを相手にわかりやすく効果的に伝え、対話できる力だと思います。これは大学で研究するにしても、民間の企業で仕事をするにしても、家庭生活を営むにしても、あらゆる所で共通に必要とされる力です。こういう力を育てないことには、このグローバル化する時代を生き抜く確かな学力は育っていきません。
ワークショップなどで、「映画館などにレディースデーが設けられ女性が低料金で見られることは男性差別なのか」という問いが出されることがあります。皆さんはこの問いに対して理由をつけて自分の意見を言うことができますか。レディースデーは男性差別だという論、レディースデーは別に男性差別ではないという論、いずれも論として立てることは可能です。大事なのは、どういうことを根拠にして意見を組み立てるかということや、違う意見をもった人といろいろやり取りしながら、自分の考え方をより膨らませたり修正したりすることです。これらは、民主主義社会を担う一人ひとりにとって必要な力だと思います。つまり、正解が一つではないような問いを多面的に考えていろいろ意見を交換できた時に、本当に成熟した民主主義を担う主体になっていくのではないかなと思います。
さいごに
世の中には、正解が必ずしもない問いが実は圧倒的に多いのです。でもそういう問いに対しても、自分の意見をもった上で、お互いがいろいろやり取りするのが民主主義の原点です。今までの人権教育は、どちらかというと、まず正解ありき、つまりそこで伝えられる教材とか語られる物語は誰が良くて誰が悪いかということが最初から見え透いているような設定で、差別が良くないということを教えるのが結構多かったように思います。もちろん差別の不当性をきちんと教えることは大事です。しかしさらに成熟した人権の力を身につけるためには、意見が二つに分かれるような問題や、必ずしも正解がない問いについても、いろいろ調べ、情報を集め、それについて自分の見解をまとめ、それをきちんと発表し、他者とディスカッションできる学力が重要です。他者と意見が違っていてもきちんとそれを尊重して受け入れられる、そういうスキルを育てていくというのは、とても大事なことで、これも学校教育のすべての教科の中で育むべき力だと思います。
人権教育は、かつては差別をしない、させない、許さないということをメインに実践されてきました。そして部落問題を中心に大きな成果をあげましたが、今の時代、ただそれだけではもうダメです。人権文化を豊かに社会に築いていけるような主体を社会全体に育てていくために、どういう力を育てないといけないのか、どういう学校や学級の環境や関係をつくらないといけないのか、伝えたいことを伝えるためにはどのような方法を工夫しないといけないのか、そこが学校の腕の見せどころであり、司令塔としての管理職の先生方の力の発揮のしどころだと私は思っています。そういう視点をもちながら、今までのいろんな取組や置かれている状況や教職員集団の力量や子どもたちの力、それらを見比べつつ、学校ならではの人権教育の組織的な計画を立て、学校総体で進める取組をぜひ三重の地でつくっていただきたいと思います。