市川知恵子さんは、長年、伊賀圏域において、子どもの発達に関わる悩みや育児の不安についての相談・支援活動に携わってこられました。子どもや保護者とのかかわりのご経験をもとに、私たち大人の子どもに対する姿勢や、様々な立場の個人や機関が連携しあうことの大切さについて言及されています。
子どもたちの生活が豊かに輝くことを願って~学齢期の子どもたちにつけていきたい力と大人の役割 福祉の立場から~
社会福祉法人名張育成会 常務理事 市川知恵子
(2009年3月作成)
はじめに
私たちの法人では平成5年から障がいのある子どもたちの相談事業を開始し17年を迎えようとしています。「地域生活支援センターぱれっと」という事業所で相談活動を実施しています。対象地域は伊賀圏域としており、伊賀市、名張市です。
「ぱれっと」では、子どもに特化した相談を行っており、三重県から委託を受けている療育等相談事業、名張市、伊賀市の教育委員会から委託を受けている特別支援教育巡回相談、名張市から委託を受けている事業で保育所や幼稚園の巡回相談で子どもの行動観察等のフィードバックを行っています。また、必要な場合はそれらの相談事業と福祉的な支援を結合させます。それは、子どものみではなく子どもを育てる基盤である家庭、家族に対する支援が必要であることと密接につながっています。
親への支援
子どもが安心に満ちた環境の中ではぐくまれること、まずはありのままの自分が受け入れられ愛されること、自分が困った時には助けてくれる大人が必ず傍らにいることは、何をおいても大切なことです。そのためには、子どもを育てる第一人者である親自身が安心できる条件が整っていなければなりません。
しかし、わが子の発達に何らかの気がかりな点がある時、どの親も等しく不安を感じ、大きく揺れ動くのは当然のことです。私たちは子ども支援の前にまず「親支援」を考えます。保護者に向かって「頑張りましょう」ではなく「お母さん、よく頑張られましたね」とねぎらうことから始めます。親はどんな小さなことでも子どもに望ましい変化があると嬉しいものです。それを親に具体的に手渡してあげられないかと考えます。
また、親であればこそ「今、子どもがこうなってほしい」と願い、それゆえにあせったり子どもの状態を受け入れることが難しかったりします。それは当然の親の思いと受け止めた上で、そこにブレーキをかけるのも役割ではないかということも考えます。
控え選手のように
「ぱれっと」で相談を受ける対象はほとんどお母さんたちです。そして多くの場合、短期間の相談で終わるのではなく長い時間を子どもの成長と共に寄り添うことになります。「出番を待つ控え選手のように」これは、「ぱれっと」所長の竹岡静代の言葉です。
以下、彼女がニュースレター「ハーモニー」に書いた文章を借りてみます。
「ぱれっと」が、子どもたちの個別支援計画を作成するようになって6年が経ちます。多くの子どもとそのお母さんやお父さんとは、たった年に1回ですがお会いして支援計画の見直し(モニタリング)をしています。もちろん、お子さんの状態に大きな変化があった、ご家族の状況が変わったなどの場合にはその都度お目にかかっています。しかし、大きな変更もなく1年を過し、1年に1回しかお話しを伺わない方も多くいらっしゃいます。今年、私は、この1年に1回の七夕のようなモニタリングから教えられ深く実感したことがありました。
当然のことではあるのですが、「時を待てば子どもは必ず成長する」「母は子どもの一番の理解者である」-子どもの成長は、なかなか目に見えない時期があります。いろいろな不適応が次々と起きる、長い長い暗いトンネルのような時期があります。しかし、1、2年間は変化がなくても3年目にお会いすると一筋の光が見え始め、徐々に乗り越えておられるというお話を何人かのお母さんからお聞ききしました。子どもの力を信じる。必ず成長することを信じる。また、母が子どもに「こうなってほしいな」と子どもの成長を心の片隅でそっと思い続けていると、自然と背中を押される事件?が起こり、母のおもいが現実になったというお話をいくつか聞かせていただきました。子どもの存在そのものを信じ続けることが子どもの発達につながっていく、見守る母は、子どもの一番の理解者であることを実感させられました。(中略)
いずれにしても時どきの課題が解決できるよう事業所と「ぱれっと」が一体的に取り組めるよう連携を大切にし、ずっと、そっと、応援をしたいと思っています。子育てという舞台で奮闘する母親選手を支える、控え選手のように。
子どもは時を待てば必ず成長する。子どもの成長を阻害することなく 、やさしく見守りつづけるお母さんたちと共にそれぞれ担っている役割を丁寧に果たすべく、もっともっと子どもたちを知り、何をせずに、何をするか、学び続けたいと思っています。
私たちが子どもを真ん中に置いて、親と共働しているのかを端的に語った文章です。
スーパーパーソンにならない
私たちは子どもを支援する時、「ぱれっと」だけで支援ができるとは決して考えてはいません。子どもが活動するのは保育所や幼稚園、そして学校です。そして生活をしているのは家庭や地域です。
そして、そこにはそれぞれの立場からの見解や仮説があります。それはさまざまな視点と言い換えることができるのではないかと思います。発達に弱さやハンディを抱える子どもが育つ、ということはまさしく「人が育つ」ということです。であれば、福祉や療育や医療や教育の分野が単独でできることは限られてることを知らなければなりません。私たち法人の特別顧問で臨床心理士である久保義和さんは、「一番いけないのは一人の人がスーパーマンやスーパーウーマンになってしまうこと」だと断言されます。「本当の専門家は非常に謙虚だ」とも。「『自分ができる範囲のことはこれぐらいのことです。あとは分からない』と率直に言えることが大切だ」と。
今年の1月、発達支援セミナーで久保さんとご一緒にご講演いただいた宮川医療少年院院長小栗正幸さんも同じように「発達に障がいのある人の支援は人生の問題だ、まさに人生をいかに生きるかといった問題」と言い「人生の問題にオールマイティなどありえない」とされています。
そんな自覚が厳しく求められるからこそ、子どもを支援する時に自分の立ち位置の確認を迫られると同時に、自分の分野を越えたことについては、他の領域の方々の「力を借りる」こと、次のステージに「信頼してリレーする」ことが必須だと認識しています。「連携」が必要な意味はここにこそ存在するのだと思っており、学齢期の子どもについて学校との連携を願ってやまない理由もここにあります。
できない約束を子どもにさせることの罪
子どもは大人に依存するものです。その反面大人のいうことは聞きたくなく高いプライドをもっています。そんな*アンビバレンスな状態が子どもです。自分のプライドを守るためには死を選ぶこともあるほど自尊心を傷つけられるのは恐ろしいことだということを知っておかなければならないと思います。
前述の小栗正幸さんは「できない約束を子どもにさせることの罪」を語っておられます。例えば「『嘘をつくな』は暴言に等しい」と。「できないことをトレーニングするのはファッショだ」と、私たち大人の常識を鋭く斬っておられます。久保さんは、「子どもは自分のできないことを『お母さんのせいだ』といってしまうことがある、それは自分の能力障害をあからさまにしなくてすむ、自分を守る能力だ」と。「その奥には『お母さんありがとう』と言いたい部分が隠れているのです。親のせいにすることで自分を守ることができている」と。私たちには子どものそんな工夫を理解することができるセンスが必要なようです。
「親に隠す」という力、「秘密を守る」という力、「拒否する」という力・・・大変逆説的ですが、子どもが社会性と自尊感情を育てていく上で必須の力ではないかと考えており、こんな力を子どもに育てていくためには私たちの「人とは、人生とは」という大きな視野が求められるような気がしています。
*相反する感情や態度が並存している。また、その状態。
子どもの姿をとらえることから
「無知は罪である」という言葉はトモニ療育センターの河島淳子さんという小児科のドクターの言葉です。時に私たちは、子どものことをすべて理解したかのような錯角に陥りがちですが、むしろわかっていないことを自覚することが大切です。また、河島さんは「医療には医療過誤という言葉があり罰せられる、教育や療育にはそんな言葉はなく間違ったことをしても誰も責任をとらない・・・」ということも語っておられました。このことについて発達障害を専門にしておられる佐々木正美さんとお話をしたことがあります。佐々木さんは「専門家として見られていないから責任も問われないのです」と言下におっしゃいました。それは穏やかで優しい佐々木さんからは想像し得ない厳しいおっしゃりようでした。以来、この言葉は脳裏に焼きついて離れません。子どもたちに「間違ったこと」をしないために、われわれは何をすべきか、それをずっと考え続けています。
そのために今、私たちがするべきは、子どもの姿を具体的にとらえることができる力をつけること、子どもの成長を時間をかけて守っていくこと、だと考えています。子どもは未成熟だから子どもです。その未成熟さが育つためには時間がかかる、それは子どもによって異なる時間かもしれません。それを見極めることも「子どもを見るための力」です。
テーマは子どもたちにつけていきたい力としたにもかかわらず、やはり大人の役割として私たちに求められることの方が多くなりました。子どもは未熟だけれども誇り高く、成長したがっており、親が大好きなのだということを考えると、その思いや願いを頓挫させることなく、大人になるまでどう守っていくことができるのか、ということがどうしてもテーマの真髄になるような気がしています。