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平成20年10月21日

本当の仲間とは
~自分自身の生き方とかさねて~

ある被差別部落出身の女性から,手記をいただきました。現在,彼女は県内の人権教育・啓発機関の事務局員として活躍しています。彼女の手記には,これからの人権・同和教育の方向性について多くの示唆が含まれています。

1.はじめに-今の私の原点-

私が現在の職場で働くようになったのは,高校時代の人権活動を通じて知り合った人から働いてみないかと誘われたのがきっかけである。中学校の時に自分が被差別部落に住んでいると父親に聞かされた。その時は部落というものが何なのか知らず,それを聞いても,何をすることもなかった。

高校に入り,「校内奨学生の集い*」に誘われ,何となしに遊び感覚でその研修会に行った。その後,三重県で開催された「全奨**」で初めて部落差別の厳しさや悲しみ,怒りを知り,それからも,様々な人権活動の場へ出向き,たくさんの人の話を聞き,学習を深めた。その頃の出会いや思いが,今の私の仕事につながっている。

2.知識だけの差別への怒り-私の被差別体験から-

高校の頃は,部落差別はいけないことだ,なぜ自分たちが差別をされるのか,おかしい。そういう気持ちで様々な活動をしてきた。部落史などもたくさん勉強した。

しかし,本当のところは,私が直接差別を受けたこともなく,今考えると自分自身のための活動ではなく,何かを勉強するという感覚だったのではないかと感じる。差別を憎み,怒り,絶対許さないという感情を本当に持っていたのかというと,高校時代の私にはなかったように思う。

そんな私が実際に部落差別というものに直面した。高校を卒業して1年も経たない頃に,それは起きた。その時,怒りを覚えるより,悲しみのどん底に突き落とされてそこからはい上がれない,はい上がろうとしない自分がいた。

その当時,私にはつきあっていた人がいた。つきあって2年が過ぎた頃,彼の母親と彼との間で結婚話がでた。私にはその気はまったくなかったのだが,彼はその頃25歳であり,親としては早く落ち着いてほしいと思っていたのか,彼の家の中ではそのことが話題としてあがった。彼の家にはよく行っていたので,母親とも何度も話をしてたし,仲は良かった。初めて彼の家に行った時,私の住所を聞かれ,町の名を答えたことがある。その時は別に何も思わないまま答えた。そして月日が流れ,その結婚話が彼の家族の間から出ると,母親が彼に対して,「あの子は部落の子ではないのか」とたずねたのだ。どうやら私の住んでいるところを調べて聞いたらしい。そして「前からそうじゃないかと思っていた。雨の日に傘もささないでサンダルはいて車から家まで走ってきたこともあるし,やっぱりね」と言ったり,「私はいいんだけど,近所の目とかがね…」ということを口にしたりしたとのことだった。私はそれを彼からの電話で聞かされた。

これまで,私はわざわざ彼に「私は部落に住んでいるけど,それでもいいですか?」などと言っていない。それどころか,「部落出身である」ということを言う必要が本当にあるのかと疑問に思っていた。それを言うことで何が変わるのかとも思っていた。

彼からは「気にするな,親なんかほっとけ」というようなことを言われた。しかし,私は初めて自分の身に降りかかった出来事をすぐに理解できなかった。それを聞いた時,頭の中が真っ白になり,ただ泣くことしかできなかった。

差別を目の当たりにした私は,今まで自分が高校時代から続けてきた活動は一体何だったのかと無力感に陥り,くやしかった。

そして「なぜ自分を生んだのか,部落になんか生まれなければ…」,そんなことを両親に言ってしまった。両親はただ私の言葉に涙を浮かべながらうなづくだけであった。

今思うと両親がどれだけ胸の張り裂ける思いで私のその言葉を受け止めてくれていたのかと思う。私という一人の人間が否定された。孤独と絶望で死にたいと思った。

学習をし,知識をつけて,差別はいけない,差別をした人にはきちんと説明をして間違っていることを認識させようと,高校時代の活動を通して学んだが,私は彼の母親と話すことすらできなかった。これまでの学習が何の役にも立たなかったのだ。高校時代は,ほかの人の被差別体験を聞いても,自分の身に降りかかることだとは実感できなかったのである。第三者的な感覚でずっと活動をしていたのだと悟った。

3.差別は人を殺す凶器になる-私が受けた傷-

部落に生まれたというだけで,人として扱われない,さらには人間でないというような言い方をされたことが,今でも忘れられない。人を死にまで追いやる差別というものは,決して許されることではない。たったひと言で人を殺すことだってできる。差別は凶器なのだ。

私は差別を受けた時に死にたいと思った。差別に立ち向かい,差別をした人を許さない闘う精神を水平社の学習から学んだ時,その先達を誇りに思い,「自分も闘うんだ」と思っていた私だが,差別というものにことごとく押しつぶされていきそうになった。

4.共に闘う仲間の存在-差別から目を背けるな-

差別に遭った当時,私にとって幸福だったことは,私のまわりに共に差別と闘っている仲間がたくさんいてくれたことだ。仲間が支えとなってくれた。仲間から,わがこととして差別と闘うことを教えられた。

ただ,彼らが何か特別なことをしてくれたという記憶はない。言葉や行動ではなく,私のそばにいてくれて,私のかかえる苦しみを受け止め,いっしょに悩んでくれた。当時の私にとって,それが何よりも大切なことだったのだ。その中で,私は徐々に,差別から目を背けず闘うことを学んでいったのである。

もし,その時一人で悩んでいたら,今この場でこういう発言をできないままだっただろう。ひょっとすると存在すらしていなかったかもしれない。部落差別だけにとどまらず,あらゆる差別は,決して人を幸せにはしない。差別をされた人はもちろん,差別をする人だって幸せなはずがないのだ。

5.今の高校生たちへ-仲間と共に主体的な活動を-

「差別をしてはいけない」と学校の人権教育で教えられている。子どもたちも,そしておとな社会だって頭では理解している。しかし,実際何十年と教育をしてきていても,差別は現存しているし,かつてより陰湿に,しかも,見えにくくなりつつあるように思う。直接言葉に出さないだけで,本質は何も変わっていないように思う。

それはなぜなのだろう。本当の意味での生きる力となる学習が行われなかったせいではないのだろうかと私は思う。単に「人権は大事で差別はダメ」というだけの教育がなされているように感じるときがある。「差別する側」「される側」といった両極だけの問題にすりかえてしまうのではなく,一人ひとりのうちにある差別意識を見つめることが必要である。そして「差別を許さない」生き方をめざそうとする教育を推進していかねばならないのだが,現実はどうなっているだろうか。例えば,高校での人権学習や人権を考えるための活動の実態はどうか。私の場合をふりかえってみると,本当に高校生が主体となって行動していたとは言い難い。先生にお膳立てをしてもらって,その中で「自分は頑張って活動しているんだ」という気になっていただけではないかと感じる。

だから,高校の頃は共に活動してきた仲間たちだが,就職や進学で県外に出て行くと,それっきりというようになってしまう場合もあるのだ。また,高校の頃の活動で「もう自分は充分やったんだ」というような感覚になり,地元にいてもその後の活動から離れていく仲間がいるのだ。

今,先輩として高校生とかかわっているが,このうちどれだけの高校生が,卒業をしたあとも共に闘っていく仲間になってくれるのだろうか,と不安に思う。

将来,実際に差別にあった時に,それを乗り越えられる力と仲間を彼らは持っているのだろうか。高校生を見ていて,過去の自分を見るような思いがする。

6.おわりに-本当の仲間をつくるために,私ができること-

私が差別と遭った時,共に闘う仲間・先輩がいてくれた。

だから,私たちの世代と後輩たちがきちんとつながり合うことが重要だと感じる。高校生たちが,卒業後も,差別をなくすためにいっしょに活動していける仲間となっていくことが不可欠なのだ。

そのために,私は,不幸にも差別に遭ってしまった人が相談できる人間になりたい。差別に苦しむ人を支え,共にその苦しみを分かち合い,自立を促せる人間になりたい。かつて,私の命を救い,差別と闘う力を与えてくれた先輩たちのように。

そして,「差別は許せないし,絶対なくしたい」という信念を持ち,差別に立ち向かっていきたいと,心から思う。
 最後に伝えたいことは,本当の意味での「仲間づくり」とは子どもたちだけの問題ではなく,教育者自身の課題でもあるということだ。子どもと共に悩み,考え,そして成長していく過程を経て,差別を許さない子どもを育て上げるのが人権・同和教育だとの認識をもって取り組んでほしいのである。

*校内奨学生の集い
いくつかの高等学校で取り組まれていた三重県高等学校等進学奨励金奨学生の集いのこと。その集いでは,被差別部落出身の高校生たちの思いが交流された。そしてその集いが,全県的に開催されてきた「三重県高等学校等奨学生研修会」につながっていた。なお,被差別部落の子どもたちの進路を保障し,差別をなくしていきたいという切なる願いや思いから,三重県高等学校等進学奨励金制度が創設されたのは,1961(昭和36)年だった。1969(昭和44)年の同和対策特別措置法施行以前のことである。そして,多くの部落の子どもたちがこの進学奨励金制度を利用し,高等学校へ進学するようになった。この進学奨励金制度が創設されて25年の歳月が流れ,いつしか,創設当時の願いや思い,奨励金の意義を知らない奨学生が多く見られるようになってきた。それを憂慮した三重県教育委員会は,次代を担う子どもたちが部落差別の問題をきちんと認識し,この進学奨励金の意義を再確認するための研修の場を設けた。これが,1986(昭和61)年12月21日,当時の三重県庁講堂において開催された第1回の「三重県高等学校等進学奨励金奨学生研修会」である。その後,2001(平成13)年度まで,形態を少しずつ変えながら存続してきたこの研修会は,2002(平成14)年3月31日の地対財特法の失効によりその幕を閉じた。16回を数える研修会では,毎年,奨学生たちの様々な思いが交換され,彼らの「反差別の仲間づくり」をすすめていく様子が見られるようになった。
**全奨
 部落解放全国奨学生集会のこと。部落解放同盟の主催により,1969(昭和44)年から開催されている高校生のための集会で,1997(平成9)年に,三重県四日市市において,第29回目となる集会が開催された。なお,1998(平成10)年には「部落解放全国高校生集会」と名称変更された。

教育現場では,しばしば仲間づくりの大切さが語られます。しかし,その仲間づくりとは,具体的にはどんなことをいうのでしょうか。曖昧なまま,言葉だけが先行してしまっていることはないでしょうか。
この手記にあるとおり,本当の仲間とは,楽しいこと,うれしいことだけでなく,苦悩を共有し,支え合うことのできる人間関係なのでしょう。
学校として子どもたちの自主活動を支援していく時,そのような仲間づくりをどう創造していくのか,あらためて考えさせられるのです。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 教育委員会事務局 人権教育課 調査研修班 〒514-0113 
津市一身田大古曽693-1(人権センター内)
電話番号:059-233-5520 
ファクス番号:059-233-5523 
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