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平成20年10月21日

ハンセン病に係わる人権問題を考える 第2回

ハンセン病回復者「ゆきえ」さんとの出会い

 「ハンセン病文学全集 第10巻 児童作品(皓星社刊)」という本があります。ハンセン病療養所に暮らした子どもたちが書いた作品集です。

 その中で,三重県出身の「ゆきえ」さん(仮名)の作品に出会いました。 「ゆきえ」さん,15歳のときの作文です。
その一節です。「お母さん許して下さい。私が病気でなかったらお母さんのそばにいて,姉さんの分まで孝行をするのに。不孝な私をどうかお許し下さい。これからは手紙で,お母さんをおなぐさめしますから……」

 「ゆきえ」さんは,14歳の時,ハンセン病になり,岡山県にある国立療養所,長島愛生園に入りました。現在78歳。療養所に暮らし,64年になります。

 長島愛生園には,現在,500人近い方が入所されています。入所された時期も,そのいきさつも様々ですが,共通していることがあります。「らい予防法」のもとでは,いったんハンセン病と診断されると「強制隔離」をまぬがれなかったことです。

 2001年5月11日,熊本地裁は「らい予防法」の違憲性と「らい予防法」を廃止しなかった国会の不作為責任を認めました。「強制隔離」を最大の人権侵害として判決を下したのです。

 判決から数年たち,療養所で暮らす方々にとっても,以前とくらべ社会との交流が自由になってきました。しかし,隔離政策を進めてきたために,熊本の温泉ホテルの差別事件のように,今だに「恐ろしい病気」という思いこみが,社会の人々の中にあります。そのため,療養所で暮らす方々にとっては,ふるさとへ帰ることが自由にできない状況が続いています。

全国の療養所
長島愛生園のある島
(長島愛生園のある島)
ゆきえさん(仮名)
(「ゆきえ」さん【仮名】)

 秋の一日。岡山県の小さな島にある国立療養所長島愛生園を訪ねました。
 「ゆきえ」さんは,笑顔で迎えてくれました。小さな机を挟んで,ひとつひとつの言葉をかみしめ,話されました。以下は,「ゆきえ」さんからの聞き取りをもとに構成したものです。

発病

  秋の運動会だったんですよね。明日は運動会だからと言うので,母が新しい靴下と靴下止め,黒いブルマーと白いシャツを買ってくれました。うれしくて前の晩から靴下だけ,はいて寝たんです。そうしたとこが,早く行きたい喜びから,朝起きて見たら,靴下止めのところが,そこだけが白くなって,真っ赤にふくれあがっていて。 母に見せたら,まあびっくりしまして。でも,傷にはなっておりませんから,熱もないし,運動会に行ったんですけど。それから後に,次々と板斑紋と言うんですよね,手のはんで押したようなあざみたいな物が出来てきたんです。

 それから,兄がね,「自転車教えてやろう」と言ってね。3年生の時だったと思うんですけども,堤防でね,稽古したんです。そしたら,転ぶんですよね。膝の所とか擦り傷みたいなのが出来るんです。転けたとたんに。少しも痛くないんですよね。「おかしいなぁ」と思って。
 4年生になりまして,傷が治ると,大きなあざに,後遺症が残るんですよ。でも,学校の体操とか運動会とか,短いブルマをはきますから,体操の時間は何とかかんとか仮病を使って,体操をしませんでしたの。肘とか膝とかに傷が出来たりする。後遺症が残りますから恥ずかしくって。

先生…

 4年生の夏頃にね,24歳ぐらいの男の先生がね,その先生がとってもいい先生でね。私は,顔の斑紋が,大きくはなりませんけども,色が変わったりするから,男の子達がね,学校の中ではそういうことはないんですけども,女友達と来たときに,待ち伏せしててね。顔がおかしくなってきたって,言うんです。でも,私は,石を投げて,勝ち気ですからね。そうやって学校に通っとったんです。そしたら,夏休みが来ましたときに,先生がね,「ゆきえ,僕は何とも思わないけど,他の先生達がね,君の頬のことでね,とやかく言われますから,一度夏休みに,お医者さんでも行って,治療して見てもらって,養生しなさい」と言って下さったんです。そのことを母に言いましたら,とにかく病院へ行ってみようって言って。町医者に行ってね,夏休みの間,学校の近くにありまして。そこへ毎日,母とね。濡れた布を頬に当てて,上から赤い電器を照らしてね。今で思ったらどういう治療かわかりませんけど,20分ぐらいだったろうかね。それを毎日,学校の近くで。私たちの村からはちょっと遠いんですけど,かよたんです。夏休み中そうして,また,元気を出して学校へ行ったんです。そしたら,先生が「どうだ?」って言われて見せたら「あぁ,だいぶよくなっとるね」って言われて。
 4年生の終わり頃に,やさしかったその先生が,5年生を受け持たれるということでね,もう嬉しくってね。5年生も無事に行けるわ,と思って。5年生になりますと,そろばんとか,歴史とか,地理とか,お裁縫も教えて頂く。そういうことで学用品が全部上級生になるものに買い換えないかん。それまでは私は,末っ子ですから,姉たちの使った物をずっと使っておりましたけれども。母が全部,買い換えてくれてまして。それで,もう嬉しくて。5年生を楽しみにしとったんですね。そうしたところが,その先生が,4年生の末になって,がんじゃないかと思うんですけど,入院されたと言う報告があったんです。それから,お休みになって。5年生までには,なおるだろうなあと思って。私は一生懸命手紙を書いて。「また,手紙を書いとる!」と,母が言うほど手紙を出したんですけど。何の返事も来ません。あの優しかった先生から来ないんです。それで,学校でもそのうちに何の連絡もなくなって,知らずの内に先生は,退職しておりました。

「ごめんね」

 そのころ友達が3人,私にはおりまして,毎日,学校の帰りには3人連れだって帰るんですよ。同じ村ですから,一人の友達は橋で別れるんですけども,一人の友達は,街角まで二人仲良く帰ってくるんです。そこで四つ角のところで友達の家がぱっと見えるんですよね。私は,向かって左の方へ曲がって,家へ帰るんですけど。その友達の家が見えますと,友達が「さよなら!」言うて,後は振り向きも何もせんと,たーっと帰っちゃうんですよね。「はぁー,どうしたことやろ」思てね。そして家へ帰るんですよね。そしたら,家へ帰ってしばらくすると,友達がまた来たんですよ。そこの家は雑貨店をしとったんですよね。おばあさんがね,私と一緒に帰ると「病気がうつる,言ってね,おばあさんにしかられるから,おばあさんの目にとまらんうちに,走って帰るん。ごめんね」と言って謝りに来たんです。

学校に行けなくなった日

 5年生になったら,女の先生が受け持ちました。前の先生でないから,学校へ行くのが辛かったんですけど。母が買いそろえてくれたから,行ったんです。
 そしたとこが,春の身体検査に,いつもだったら私は一番小さいもんですから,身体検査も一番前の私から始まるんですけど。その身体検査の時に,私の席が一番最後になったんです。「やだなぁ」と思ったんですけど。そしたら検査して下さった町医者の先生がね,後から職員室へ来なさいと言われて。私は,筆でいろいろなところを触って調べられました。「ここ感じがあるか?触るのわかるか?」言うて,診察があったんです。
 もう忘れることは出来ませんけど,ほんとに,学校へ行っても前の先生の時とは違って,友達までもがね,何だかこう,変な感じになりまして。雨降りの日なんか,おじゃみ(お手玉)というのがありますよね。そのおじゃみで取り合いして,私のほうりあげるおじゃみを受けないんですよね,みんなが。仲良くしとった友達までもが,受けないんですよね。それでもう,いやだなぁと思って。1学期の試験が1回だけあって,図画なんかは絵の具の出し方ぐらい習うぐらいで。
 忘れもしませんけど,4月29日,昔の天長節ですよね。その日は,講堂に1年から高等2年生まで集まってね,式典があるんです。その帰りに紅白のおまんじゅうが頂けるんですよ。その時代はね。みんなそれを楽しみに,きれいに着飾って行くんですよね。母が,着ていく木綿の着物ではありますけど,ちゃんとしてくれてね。でも,私はもう行く気がしないんです。友達が朝早う,誘いに来たんですよ。いやながらもね。私はもう行かない,って言うて母に泣きついたんです。母も分かっとったかして,友達に「今日は,けがが悪いから行かん,言うから」と断った。それ以来,もう学校には行きませんでした。その新しい先生からも何の連絡もありません。何らかの通知が役場かどこかに行っとりましたかどうか知りませんけど,もう,両親の元には何の連絡も来ませんでした。

母と…

 学校に行かなくなってから,兄が自転車を教えてくれましたから,夕方になったら,自転車に乗ったりするぐらいで。あとは,いつも家に引っ込んでね。でも母がね,家にばっか引っ込んどるんで,お芝居とか,隣村の盆踊りとかに連れて行ってくれるんです。夜ですから。電写劇というのがありましてね。芝居で演じれないところが,映画になる芝居小屋があったんですね。映画になるときには暗がりになりますのでね。母は冬だったら,首巻きで頬を隠すようにして,連れて行ってくれるんですよ。それは隣村ですけど,母が二人で歩いて連れて行ってくれるんです。喜んで観るんですね。そしたら,兄も行っとるんですね。兄は青年ですから。そしたら家へ帰ってきたら,兄がね「もうお母さん,ゆきえを連れて行かんでくれ。みっとみない。僕の肩身が狭い」と言ったことがあります。でも,母は「そんなこと言ったって,夜やのに。誰が見とるや」って言ってね。そいでやっぱり連れて行ってくれました。それがほんとに,ここへ来るまでの楽しみでした。

「私,行く」

 6つ違いの兄の兵隊検査が迫っているとき,兄が駐在に呼ばれたときがありました。そのとき母は,寝ずにかまどの前で「何か悪いことしたのか」とえらい剣幕で怒っていました。そうこうするうちに兄が帰ってきて母に「まぁ,ええから座れ」と,かまどの前でこそこそ話を始めました。その様子をかまどの薪の後ろで聞き耳をしていました。兄は「巡査が,療養所にやりたいが,両親の合意が得られない。何としたものか」と話していました。両親は私をそんな遠いところにやれないと思っていました。母は「おまえはどう思うんだ」と言ったら兄は「僕は来年は兵隊だ。家に逃げ隠れする病人がおっては…」と涙ぐみながら言っていました。母は「そうか…」と言いました。父はすでに床に入っていました。兄は「友達も連れてこれん…」とも言っていました。
 その日の午後にはね,「私,行く」って言ってね。「お父さん,お母さんが言わんでも,私,行く」って言ったんです。お母さんに夜になってね,「私,長島の療養所に行く」って伝えたんです。
 巡査の方がね,友達もたくさんいるし,学校へも行けるし,お風呂へも入れるし,芝居も見れる…と。でも,親と別れ,二度と帰れんという思いは,子ども心にありました。巡査の方が3年で出られるとも言いました。けど,そういうことは,その時代から信じることはしていませんでした。でも,学校へ行ける,お風呂に行ける。そのころ斑紋が出てきまして。浴場へ行くとね,母は「田虫だ」言ってね,墨を塗るんですよね。肩とかおしりに白斑紋が出たんですよね。おしりとか白いところに墨を塗って,浴場に行くんですよね。すると私が入りますと,みんな,さーっと上がっていくんですよね。だからそれからは,「お父さんお母さん,お風呂に行くのいやだー」と言って。
 病気が治るとは思っておりませんでしたけども,これ以上ここにいると,家の者を苦しめる,そんな思いはありました。親戚と兄を救いたかったからです。とにかく,病気から解放したかったです。私は末っ子で甘えっ子で,本当に何一つ出来ない子どもだったのに,私がそういうことを言ったら,お母さんはびっくりしました。「おまえ大丈夫か」と言って。「はい,兄さんのためです」と言って「兄さんを無事にね,皆さんと兵隊へ送ってやりたいです」と。私はその時に心を決めたんです。
 そして,療養所へ行くために,父と村の巡査と一緒に,隣近所には極秘で,出発しました。

船を降りると療養所だった(当時の愛生園の船着き場) (船を降りると療養所だった【当時の愛生園の船着き場】

父のこと

 父は,お酒だけは毎晩,飲む方だった。その父が,私が入所しましたら,とたんにお酒をやめたそうです。母からの手紙で「お父さんはもう,一切お酒はやめた」とありました。それというのが,私が入所するときに,父が送ってきたんですね。その時に,母はもうとても気丈な人で,母の涙を見たことはないんですけども,父はもうぼろぼろ泣きましてね。母が父に「この子を無事に長島愛生園に送るまでは,お酒は一滴も飲んでくれるな」と頼む姿を覚えております。父はもうそれで,村の駐在の方と一緒に来ましたけど,とても,お酒どこの状態ではなかったですね。そして家に帰ったら,とたんに「お酒をやめた」と母に宣言したそうです。
 その父も,私と離れてしばらくして亡くなった。とにかく私が入所するのを決心したばっかりに……家族を……別れの道に導いたような気がします。

母からの手紙

 本に載った作文を書きましたのは,療養所に入って,1年目です。ある日,母から手紙が来ました。兄は兵隊になり,村の人に祝福され,盛大な見送りと,代表で学校の前でお別れの挨拶をした,という手紙が来たんです。その手紙の内容の中に3つ違いの姉のことが一言も書いてないんです。私は,何で姉さんのことが書いてないのと不思議に思いました。私はそれから毎晩1週間,姉の夢を見ました。そして,子ども舎の保母さんに相談したんです。「今,どこで働いているの?」と言われたので「木綿工場です」と言ったら「じゃぁ,いっぺんそこに手紙を出したら?」と。それで15歳の私は工場に,手紙を出しました。そしたら,返事が来ました。姉は「病気で8月の22日に亡くなられました」こういうお手紙が来ました。私はもうほんとに泣きました。

ゆきえさんの話す子ども舎「愛生園の少年少女舎」の様子 (ゆきえさんの話す子ども舎「愛生園の少年少女舎」の様子)

 母は無学ですので手紙は書けないんです。それを隣の奥さんが20年間代筆してくださったので,母が自分で書いたような思いで手紙が来るんです。それからしばらくたちますと,作文に書きましたように母から手紙が来ました。今日で姉が亡くなって百日目だと。
 兄はそれから5年間,出征先で,戦争が激しくなっていました。兄もとても私をかわいがってくれました。出征先から手紙とか写真とかよく送ってくれました。その兄が終戦の20年の2月にね沖縄に来たんです。沖縄に派遣されてきて母は喜んでね。日本に来たから,もう安心だと言って。結局は沖縄で,兄は玉砕。母は,その時も手紙で知らせてきませんでした。

親戚にも

 親戚に私と2つ違いのいとこがおったんです。父の兄の子です。女学校に通っておったんです。父の妹は,私より少し早い時期に,やはりこの病気になったんです。当時は遺伝とか何とか申しましたからね。父は自分の妹だから,自分とこの血筋と感じたんですかね。私どもの隣村から,いとこが自転車に乗ってね,毎朝女学校に通うんですよね。その道のところに父の妹が住んでいたんです。そのおば,父の妹が外に出ていると,いとこの友達が「あれが,いとこのおばさんだ」ということになりまして,学校でいじめになりました。学校をやめると,いとこは言ったそうです。親戚はとても,被害にあってるんです。

二つの心

 この私の作文を本に出すときも迷ったんです。何だか心が二つありまして。こういう時代になって,もう一切をなくしても,病気の私は今持って78歳で生かしてもらっている。何か一つ残しとくのもいいかなと。そうかといって,この病気が親戚にわかったら,やっぱりだめかなと思ってね。心配するんです。親戚には,私はこれ以上迷惑をかけたらいかんと思て。その親戚とは,とっくに縁は切れているんです。連絡もないしね。母の親戚は母が亡くなって,40年間,お墓の守をして下さっておりました。でも,私は後々の人に迷惑をかけるようなことではあかん,と思って,お墓の処分をしたんです。全部整理しまして,片づけました。だからもう,ふるさとのことを思わん日はないですけど……未練はないです……はい……もう。64年,ここにいますから……もう,ここがふるさとです。

ふるさと

 これを見てください。私はこういうところに生まれ育ったんです。故郷の学校の2年生の時,先生にあてられて,読んだ覚えがある作文を思い出して最近,書いたものです。「秋の夕暮れ」という作文です。

じゃり機械船の汽笛が 川沿いの村の隅々に響き渡る 暮れ六時
空は真っ赤な夕焼け カラスはカァーカァ騒がしく 川に影を落とし ねぐらを求め群れをなし 西へ飛んで行く
堤を頬かぶりの農夫が 鍬を肩にかついで足ばやに家路を 東へ東へと 
一人急ぎ行く 戦争ごっこの男の子は 母の声に ワーアと 手を振り合い 坊主頭は 我先に散らばって 走り去る
軒々は 夕げの煙 空高く 風に白く流され 消えて行く 秋のつるべ落とし
小さな村は 闇に包まれ 家々は 明かりが灯り 親子の語らい 母の手料理
午後八時 昭和二桁 古き時代

 療養所へ行く時の気持ちを短歌にもしてみました。

故郷を立つ 荷物のごとく リヤカーに

 最後に。新年を迎えて詠んだものです。

二〇〇〇年 無事明け祝いし 礼拝に 衣服新たに 夫婦よりそい

1988年,療養所がある島に橋が架かった
(1988年,療養所がある島に橋が架かった)

 「ゆきえ」さんは今,身体が不自由になったご主人の介護をしながら,78年の生きた証を少しずつ,文章に記そうとしています。ふるさとの家族はなくなり,親戚とも断絶された「ゆきえ」さんは,今を生きていることに感謝を繰り返し述べられていました。今はなき,家族や愛ある人達によって生かされてきたことに手を合わせるのです。そして,世の中の差別が,人と人のきずなをずたずたに断ち切ってしまうことの恐ろしさを訴えるのでした。

 ハンセン病は,日本では,新しい患者はほとんど出ていませんが,世界の国の中には,小さな子どもが発病し,患者の多い国もあります。
 ハンセン病は治る病気です。病気そのものよりも,隔離政策を進めてきたために,今だに人々が持っている「恐ろしい病気」という偏見が一番恐ろしいことです。その偏見が,人と人とのつながりやふるさとを奪っていることに私たちは,気づかなければなりません。

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