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平成20年10月21日

ハンセン病に係わる人権問題を考える 第1回

宿泊拒否

 2003(平成15)年11月、熊本県のあるホテルが、ハンセン病の元患者(*1)に対して、宿泊拒否をするという重大な人権侵害が発覚しました。
 宿泊拒否を受けたのは、国立ハンセン病療養所、菊池恵楓園に入所する18人の元患者です。

 ホテルの支配人は、 「国がハンセン病患者に対する隔離政策の誤りを認めたからといっても、世間一般のだれもが理解しているとは思えない。誤りだったことが知られるには時間が必要なのでは。私個人では差別しているつもりはない。ただホテルの経営上、ハンセン病のことを百パーセントは理解していない他のお客さまにご迷惑を掛けると判断した」とし、宿泊拒否に至ったことを話しています。

 熊本地方法務局と県は、旅館業法(宿泊をさせる義務)違反の疑いで、支配人と同ホテルに対し、告発状を熊本地検に提出しました。
 元患者は、その後のホテル側の謝罪文の受け取りを拒否しました。事件発覚前、支配人は「宿泊拒否は本社の方針でもある。今後とも拒否する。どう受け取られようと異論はない」と話していたところ、謝罪の場では「拒否は無知だった私個人の判断の間違い」と一転しました。個人の問題に収束してしまうことに、元患者は怒りと悲しみを隠せなかったのです。

 現在、このことがさらに悲しい事態になっています。謝罪文を拒否した療養所の自治会には、「賠償金目当てか」「暴力団のようだ」といった心ない中傷の手紙や電話が相次ぐといいます。この宿泊拒否の被害者は、差別を受けた元患者なのです。何十年にも及ぶ国の強制隔離により、家族を奪われ、ふるさとも奪われてきた元患者に、どこまでも人は、冷酷なのでしょうか。憤りと悲しみを隠せません。

【12月21日現在、ホテルの経営会社が元患者側に全面謝罪したことで和解となりました。しかし、謝罪と法的責任は別として熊本地検は捜査中で、県も行政処分を検討していると報道されています】

ハンセン病に対する偏見と差別

 この宿泊拒否が生まれた背景には、ハンセン病や元患者に対しての無知があります。差別をした側には、自分との利害関係が発生すると、社会に横たわる差別意識を利用して差別をしてしまうという行動が見られます。

 2001(平成13)年、熊本地裁は「らい予防法」を放置してきた国に対し、憲法違反であること、さらに法律を改めなかった国会に対し、立法上の不作為を指摘し断罪しました。その後、国は、患者・元患者に対し、謝罪をし、補償に関する施策や元患者の名誉回復のための啓発活動を行ってきました。以前と比べ、ハンセン病問題を取り巻く環境はずいぶん変化してきたはずでした。

 今回の事件は、ハンセン病に係わる人権問題について、私たち一人ひとりが問い直すべきことを示しています。
 熊本地裁の判決にあるように1996(平成8)年まで「らい予防法」を存続させてきた国家の責任は明白です。強制隔離を前提としたこの法律が、一般社会に、ハンセン病を「恐ろしい病気である」との偏見を持って広めてしまったからです。
 しかし、先に見たように、判決以後、国が謝罪をし、患者・元患者の人権回復のための施策を行ってきたことは、不十分な部分はあるにしろ、一定の前進をみてきました。

 むしろ、今回の事件が問うているのは、社会意識を形成している私たち一人ひとりの意識に対してではないでしょうか。私たちが人に対して共感をしたり、差別のない社会の実現をめざすことが、真の豊かな社会の創造につながるといった、共通の意識や理念が欠如していることを指し示しているのだと思うのです。
 今回のような非情な差別をあらわにした宿泊拒否がまかり通るようでは、人と人とがふれあい、共に生きようとする、人の世の温かさに満ちた社会の実現がほど遠いと感じずにはいられません。

 以前と違って、ハンセン病に関する書物・インターネット、学習会など、私たちが人権問題とは何であるかを知る機会は、たくさんあります。そういった機会を生かしながらも、要は、私たち一人ひとりの問題意識の持ち方と、差別を見抜き、解消するための感性をいかに磨くかにかかっていると言えます。

 ハンセン病は、1873年に、ノルウェーのハンセン医師が発見した「らい菌」という細菌による感染症です。医学が発達していない頃は、ハンセン病を、家族・親戚に代々続く「遺伝病」と考えられていました。

 ハンセン病の感染する力や発病する力は、非常に弱いものです。日常生活で感染する可能性はありません。現在、療養所で、療養中の患者であっても、外出や社会との交流は自由になっています。したがって、患者を隔離する必要はまったくありません。

 1943年にアメリカでプロミンという薬(写真・左)が開発され、今では、いくつかの薬剤を組み合わせた(写真・右)治療が広く行なわれています。そしてハンセン病は確実に治る病気になりました。

(*2)

 薬が開発されるまでは、不治の病として、恐ろしい病気のように考えられていました。また、ハンセン病が進行すると、手足の神経がまひし、熱さや痛みを感じないためにけがをしたり、その傷を悪くして、顔や手足の変形を残すことがありました。そのために患者は厳しい差別を受けることがありました。

 回復された元患者からの感染はありませんし、後遺症(手足の変形や治療跡等)などからの感染もありません。ハンセン病は早期に治療すれば、変形は残すことなく治ります。現在、日本において新しい患者は、ほとんど出ていません。日本のハンセン病療養所には、現在、約4000人以上の方がおられます。全国13ヵ所の国立療養所と 2ヵ所の民間療養所があります。ほとんどの人は、ハンセン病自体はすでに回復した状態にあります。しかし、平均年齢が74歳を越え、身体の不自由な方が多いこと、そして、いまだに「うつる病気・怖い病気」といった偏見や差別が根強くあるため、社会に出て生活するのはむずかしい状態が続いています。

ハンセン病にかかわる歴史

 「癩(らい)」(今のハンセン病)という病名は、奈良時代の『日本書紀』にも見られます。古くから、癩にかかった人々は、偏見や差別の対象になってきました。

 明治時代になると、近代化を急ぐ国家の中、癩病にかかった人々は、社会に不必要なものとして、厳しい差別にさらされました。その差別の結果、家族の中からこの病気にかかったものがでると、本人だけではなく、家族の就職や結婚、さらには生活そのものが成り立たない状況にもありました。そして、家族全員がふるさとを捨てなければならなかったり、また、病気にかかった人が家を出て行き、寺や神社に集まり、小屋を作って生活したりするということもありました。

  • 1873(明治6)年  ノルウェーの医師ハンセンがらい菌を発見
  • 1907(明治40)年  政府は「癩(らい)予防ニ関スル件」を制定

 政府は、諸外国から文明国として患者を放置していると非難をあびたことや、対外的な面目から法律の制定を急ぎました。
 治療のあてなく放浪していた患者の収容を主な目的として、1909年(明治42)全国5カ所に公立療養所を設置しました。そして、人の目に触れることのないよう社会から隔離してしまいました。療養所では、収容や隔離が目的であったために、治療といったものはほとんど行なわれませんでした。

 1916(大正5)年には、裁判を行わずに患者を処罰できる権利(懲戒検束権)を療養所長に与え、指示に従わないと決めつけ、患者を監獄に入れることもありました。
 1929(昭和4)年には、ハンセン病患者を見つけだし、強制的に療養所へ入所させるという「無癩県運動」が全国的に進められました。

 

  • 1931(昭和6)年  政府は「癩(らい)予防法」を制定する

 家を出て放浪していた患者だけではなく、家族と暮らす患者も含め、すべての患者を強制的に療養所へ入れることにしました。このことは、患者にとって、ふるさとを捨て、一生を社会から隔離された中で暮らさなければならないことを意味していました。

 癩病は遺伝するから、患者に子どもを産ませないようにする(断種)手術を強制的に進めることもありました。日本から、すべての患者を絶滅させようとする、非人間的な扱いが行われていました。耐えきれず、療養所から逃げようとしたり、反抗したりする患者は、所長の権限で独房に入れられることもありました。
 

  • 1943(昭和18)年 ハンセン病の特効薬プロミンが、アメリカで開発される

 戦後、日本国憲法のもと、患者の中でも、民主主義と基本的人権の尊重が叫ばれるようになりました。療養所内でも、患者に対する理不尽な扱いの改善や生活向上のための要求などが、患者によってなされるようになってきました。1951(昭和26)年、患者たちは国に対して、患者を人間として扱うように、『癩(らい)予防法』を改めることを強く求めました。しかし、一部の療養所の所長たちは、患者を強制収容できる権限を強化しようとしたり、子どもを産ませないようにする手術を拡大しようとしたり、逃亡罪という罰則の規定などを作ろうと国に訴えていました。

【プロミン注射の様子】
プロミン注射の様子
【らい予防法改正のための集会】
らい予防法改正のための集会
(*3)
  • 1953(昭和28)年  「らい予防法」制定

 患者たちの猛反対を押し切って、新しい「らい予防法」が成立しました。この法律は、強制入所、外出の制限、懲戒検束権の強化、さらに退所規定がないなど、患者の個人の尊厳や、居住・移転の自由などを侵害していました。そして、社会のハンセン病に対する偏見や差別をより広げることになりました。

  • 1960(昭和35)年  WHO(世界保健機関)が療養所の外での治療を勧告

 その後も患者の「らい予防法」改正要求は、ねばり強く続けられました。その一方で患者の大多数の人が特効薬によって、治るようになり、病気自体の解明も進んできました。世界においては、WHOの勧告のように、強制隔離をするのではなく、自由に、外の病院でも治療が受けれるようにと、提言する時代になってきました。

 しかし、日本は、「らい予防法」を廃止することも、すでに治った患者が、社会に出て暮らすための方策を考えることもありませんでした。ハンセン病に対する、多くの厳しい偏見と差別がありながら、それらを解消する努力をせず、放置してきました。
 そんな中、患者や元患者たちは、あきらめることなく「らい予防法」の誤りを訴え続けました。そして、療養所の医療の充実や生活環境をよくしていくことを少しずつ実現させていきました。

  • 1996(平成8)年 「らい予防法」が廃止される

 患者や元患者の粘り強く訴えてきた声が、国民の多くの人々にも届き、国会で審議され「らい予防法」がついに廃止されました。国の代表が療養所を訪れ、『らい予防法』の廃止が遅れたことを元患者の前で深く謝罪をしました。

  • 1998(平成10)年  熊本地方裁判所(熊本地裁)に元患者が「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟をおこす。翌年には東京、岡山でも提訴

 ハンセン病患者・元患者にとって、国が長年続けてきた隔離政策という人権侵害を許すことはできませんでした。この隔離政策によって、多くの人々が、ハンセン病は強い伝染病であるという恐怖を抱くようになり、社会全体から厳しい差別を受けることになったからです。 国に対して、人権回復のための謝罪を求めたのです。

  • 2001(平成13)年5月11日 熊本地裁で、患者・元患者が勝訴

 熊本地裁は1960年以降の『らい予防法』の存在が憲法違反であったことを指摘し、強制隔離を続け、黙認し、放置した国の過失と、隔離規定を改めなかった「国会の立法上の不作為」を認める判決を下しました。その後、国はこの判決を受け入れ、翌2002(平成14)年1月30日、全面的な和解が成立しました。6月には、国会で「ハンセン病問題に関する決議」が採択され、新たに患者・元患者の人々に補償を行う法律もできました。

  • 2002(平成14)年4月 国立ハンセン病療養所等退所者給与金事業開始

 国は患者・元患者たちに謝罪をし、療養所を出た後の補償を開始しました。また、ハンセン病に関する正しい知識を広める活動を積極的に行おうとしています。

ハンセン病問題の今

 ハンセン病は完治しているものの、社会の偏見や差別に加え、高齢、後遺症などで、全国の療養所には約4,000名の方々がおられます。 療養所の医療の向上、偏見や差別の解消、ふるさととのつながりの回復が、これからの課題となっています。これまでの恐ろしい病気という間違った考え方が元患者の方や家族の人たちを苦しめています。病気が治った後も生まれ育ったふるさとへ帰ることができる人は少ないのです。亡くなった後も遺骨を引き取る遺族が少ないために、全国の療養所の納骨堂に眠ったままです。

【長島愛生園の納骨堂】
長島愛生園の納骨堂

 

 熊本地裁判決以後、三重県においては、健康福祉部が、補償に係わる手続き業務や療養所の三重県出身者の里帰り事業(泊をともなう旅行)等を行っています。熊本の宿泊拒否は、三重の里帰り事業と同様の中で、起きたことなのです。
 現在、三重県出身者のハンセン病療養所入所状況(平成15年3月3日現在)は、東北新生園(宮城県) 2名、栗生楽泉園(群馬県) 7名、多摩全生園(東京都) 3名、駿河療養所(静岡県) 17名、神山復生病院(静岡県) 3名、長島愛生園(岡山県) 54名、邑久光明園(岡山県) 18名、菊池恵楓園(熊本県) 1名の計105名です。

 次回では、現在、長島愛生園におられる元患者からの聞き取りを中心に、私たちにとってのハンセン病問題とは何かを考えていきたいと思います。

*1 全療協とハンセン病国賠訴訟原告・弁護団でつくる統一交渉団は1月11日の会議で「元患者」呼称を継続していくことを決めているが、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)は1月17日、各療養所の入所者自治会長でつくる臨時支部長会議を開き、「元患者」という呼称について協議し、全療協内部では使用せず、従来使用してきた「入所者」「退所者」「回復者」などの呼称を併用していくことを確認している。今回の確認は「裁判などのケースで、原告、弁護士、マスコミなどが『元患者』呼称を使用することを否定するものではない」としている。

*2、*3 文中の資料写真は、長島愛生園のご協力により掲載いたしました。無断転載を禁止します。

本ページに関する問い合わせ先

三重県 教育委員会事務局 人権教育課 調査研修班 〒514-0113 
津市一身田大古曽693-1(人権センター内)
電話番号:059-233-5520 
ファクス番号:059-233-5523 
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