紀伊山地の霊場を結ぶ参詣道である熊野古道のうち、伊勢路が伊勢と熊野を結ぶ街道としてかつて賑わいをみせ、「熊野年代記」によると、享和年間(1801~1804)頃には2万人以上の巡礼者が通ったとあります。現在伊勢路は、国道をはじめとした車道に変わってしまった区間も多いですが、昔から変わらずひっそりとした峠道などで残されてきた部分も少なくありません。
伊勢路は、伊勢の田丸(度会郡玉城町)から初瀬本街道(はせほんかいどう)と分かれ、多気町相鹿瀬(おうかせ)、大台町栃原、大紀町滝原、間弓(まゆみ)を経て、東紀州地域を縦断し、熊野速玉大社あるいは熊野本宮大社へ向かいます。その特色としてあげられることとして、石畳道が良好に残ることと、紀州徳川藩初代藩主徳川頼宣による熊野街道の整備に伴い、東海道などのいわゆる五街道以外の街道としては異例な宿駅や一里塚が設けられたことなどがあります。また、江戸時代はお伊勢参りから熊野詣へ、そして西国三十三ヶ所観音霊場巡りへと向かう、とくに東国の巡礼者が多かったことといわれています。
弘化二(1845)年正月から4月にかけて現在の千葉県にあたる下総国(しもふさのくに)根戸村から熊野古道伊勢路を通り熊野へ向かった神戸由左衛門の「道中日記帳」では、伊勢山田より原(玉城町)-駒村(大紀町)-尾鷲浦(尾鷲市)-木元浦(熊野市)でそれぞれ宿泊し、4泊で新宮へ至った道中の行程がわかります。